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チリンガム城

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チリンガム城(Chillingham Castle)は、イングランドのノーサンバーランド州北部チリンガム村にある十三~十四世紀頃に築かれた城塞。幽霊伝説の城として有名で、心霊スポットとして人気となっている。

Social Media Chillingham Castle from EC Media on Vimeo.

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築城

イングランド王国の北辺、スコットランド王国との境界近くに位置するチリンガム村は古くから両国の対立・紛争に巻き込まれてきた。チリンガムを領したのはチリンガムよりさらに北にあるヒートン城(Heaton Castle)を守るグレイ(Grey)家で、彼らによって十三世紀頃、元は修道院であった建物が城塞化された。1297年、スコットランド軍に包囲されて多くの犠牲者を出し(1The Greys and the Bennets“, Chillingham Wild Cattle.)、1298年、イングランド軍がスコットランド軍を破りスコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスを捕らえたフォルカークの戦い(1298年7月22日)に向かうイングランド王エドワード1世がチリンガム城に滞在した記録が残る(2Inside the Castle“, Chillingham Castle.)。

現存するチリンガム城は十四世紀に築かれたもので(3CHILLINGHAM, Chatton – 1001045“,Historic England.)、1344年、イングランド王エドワード3世よりヒートン城主トマス・グレイ(Thomas Grey)に対し、チリンガム城の築城と武装化(4” crenellate”=矢狭間(銃眼)や胸壁を設けること。クレネル化許可証” Licence to crenellate”は中世イングランドにおいて、王から有力諸侯へ多く発行された。チリンガム城の「エドワード1世の部屋」にこのときの” Licence to crenellate”が展示されている。)の許可が下されている。丁度、百年戦争開戦直後で、フランス王と同盟中のスコットランド王デイヴィッド2世が再侵攻の機会をうかがっている時期であり、スコットランドへの備えとして築城された。

グレイ家の居城として

「チリンガム城」

「チリンガム城」
© TSP / CC BY-SA (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)


グレイ家は王家に忠実で対スコットランド戦争や百年戦争で活躍し地位を築いた。1414年、当主ジョン・グレイの弟トマス・グレイはヘンリ5世への反乱計画(サウサンプトン陰謀事件)の首謀者の一人となり処刑されたが、兄ジョンはアジャンクールの戦い(1415年)やその後のノルマンディー征服戦争で軍功を挙げ、1419年、フランス・ノルマンディー地方のタンカーヴィル伯領(フランス語Comté de Tancarville)を獲得した(5フランスのタンカーヴィル伯位は1415年、アジャンクールの戦いでタンカーヴィル伯ジャン2世が戦死して、娘マルグリットが女伯として継承、夫のモンゴメリ男爵ギヨーム・ダルクールがタンカーヴィル伯となり、アルクール家からオルレアン・ロングヴィル家を経てモンモランシ家へと継承され1844年まで続いている。百年戦争後期の1415年から1453年の時期はフランスのイングランド占領地を多くのイングランド貴族が実効支配の上で叙爵され名乗っていた。この百年戦争期占領時のフランスに由来するタンカーヴィル伯をグレイ家が十七世紀に再度名乗って、英国の”Earl of Tankerville”とフランスのComté de Tancarvilleが併存していた。)。1453年、第三代タンカーヴィル伯リチャード・グレイは百年戦争の終結によりタンカーヴィル伯領を喪失。薔薇戦争ではリチャードはヨーク派に属していたため、1460年、ヘンリ6世によって爵位と所領を没収された。

薔薇戦争ではグレイ家は両派に分かれて戦い、その後もグレイ家の一族がチリンガム城を保有してチリンガム城はグレイ家の居城・邸宅として整備された。1603年、スコットランド王ジェイムズ6世(のちのイングランド王ジェイムズ1世)の妃アン・オブ・デンマークがチリンガム城に滞在、1617年にはジェイムズ1世もチリンガム城を訪れた。

1624年、チリンガムを継承したウィリアム・グレイはグレイ・オブ・ウェルケ男爵(Baron Grey of Werke)を創設。第三代グレイ・オブ・ウェルケ男爵フォード・グレイは名誉革命に際してオラニエ公を支持し、1695年、タンカーヴィル伯に叙された。しかし、フォード伯には男子がおらず、1714年、娘のメアリ・グレイが伯位を継承し、メアリの夫第二代オスルトン男爵(Baron Ossulston)チャールズ・ベネットがタンカーヴィル伯となり、以後ベネット家が伯位を継承して現在まで続いている。

チリンガム城は十九世紀まではベネット家の居宅として使われたが、第二次世界大戦中、城は徴発され、その後空き城となっていた。1982年、グレイ家の一族である古物蒐集家・歴史的建造物の修復家として知られるハンフリー・ウェイクフィールド卿(Humphry Wakefield,1936~)によって購入され、城の修復が行われた。2002年に売却されて個人所有となっている。

チリンガム城の建物と庭園

「チリンガム城大広間」

「チリンガム城大広間」
© TSP / CC BY-SA (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)

チリンガム城の居館は十四世紀に築かれた四隅に角塔を持つ地上三階、地下一階の四辺形の建物で、十七世紀、十八世紀、十九世紀と三度に渡って改築が施された。内部には十三世紀当時の様式で復元した「エドワード1世の部屋」や、ジェイムズ1世が実際に使ったエリザベス時代の様式の「ジェイムズ1世の部屋」、やはり十七世紀当時の様式をそのまま維持した「大広間」の他、現存するものは数少ない「鉄の処女(アイアン・メイデン)」を始めとした様々な拷問器具が集められた「拷問室」などがある。

「チリンガム城のイタリア式庭園」

「チリンガム城のイタリア式庭園」
© Glen Bowman / CC BY (https://creativecommons.org/licenses/by/2.0)


城の西側にある1823年頃から整備されたイタリア式庭園はウィンザー城の改築で知られる英国屈指の建築家・庭園設計者ジェフリー・ワイアットヴィル(Jeffry Wyatville,1766~1840)によるもので、1980年代にウェイクフィールド卿によって修復された(6この項は英国の政府外公共機関(Non-departmental public body)であるイングランド歴史的建造物・記念物委員会(Historic Buildh and Monuments Commission for England,通称”Historic England”)のチリンガム城に関する各ページとチリンガム城公式サイトを参照)。

ホーンテッド・キャッスル

幽霊伝説

「メアリ・バークレー夫人の肖像画」(パブリックドメイン画像)

「メアリ・バークレー夫人の肖像画」(パブリックドメイン画像)

現在、チリンガム城は「幽霊の城」として積極的に観光客の誘致を行っている。公式サイトでも幽霊エピソードをまとめたページやゴーストツアーというガイド付きツアーコースが設けられている。

チリンガム城の幽霊として古くから語られているものとしては、1925年、当時の第七代タンカーヴィル伯爵夫人レオノーラの記録にあるメアリ・バークレー夫人(1719年没)の幽霊がある。メアリ・バークレーは第三代グレイ・オブ・ウェルケ男爵フォード・グレイ(後の初代タンカーヴィル伯爵フォード・グレイ)の最初の妻だったが、夫フォードとメアリの妹ヘンリエッタが愛人関係となり、フォードは不倫の罪に問われてロンドン塔へ投獄されたあと脱獄に成功、国外に逃亡した。フォードは名誉革命に際してウィリアム3世を支持し、タンカーヴィル伯爵となるが、妻メアリとその妹ヘンリエッタとのその後の関係はよくわかっていない。ヘンリエッタは1706年、メアリは1719年に亡くなっている。このような夫と妹の不貞を恨みに思ったメアリ・バークレー夫人の幽霊が城内に出るというエピソードが語られている。

有名なチリンガム城の幽霊として、「青い少年(blue boy)または光を放つ少年(radiant boy)」と呼ばれる幽霊のエピソードがある。青い閃光や後光とともに現れる青く光る少年の幽霊で恐ろしい嘆き声をあげて客室に現れるとされる。改築工事の際、壁の中から朽ちかけた青い布の破片に包まれた子供の骨が発見され、その後現れなくなったという(7Ghosts – Chillingham Castle“ ”Great Castles – Ghosts of Chillingham Castle” “The Medieval Castle of Chillingham: the most haunted castle in Britain! – RANDOM Times)。

拷問吏ドラッグフット伝説

幽霊伝説とあわせてチリンガム城が観光客誘致のためにアピールしているのが拷問室にまつわる血塗られた暗いイメージである。

ジョン・セージ(John Sage)はイングランド王エドワード1世の下で対スコットランド戦争に従軍して足を負傷しドラッグフット(8Dragfoot=足を引きずること、跛(あしなえ、びっこ)の意味)の異名で呼ばれた。伝説によれば、ときのイングランド王エドワード1世は当時イングランドを苦しめていたスコットランド軍の指導者ウィリアム・ウォレスを捕えるため、ドラッグフットにチリンガム城で捕らえたスコットランド人を拷問にかけさせて、その居所を探ろうとした。ドラッグフットは様々な拷問方法を考案し、彼によって拷問にかけられたスコットランド人は毎週50人に及び、この悪行は七年に渡って行われ犠牲者は数千人にもなったという。1298年、ウォレスは捕まり処刑されるが、このあと用無しとなったドラッグフットことジョン・セージはスコットランド軍に捕えられ絞首刑となったという(9Fisher,Mark(2013)”Chillingham Castle The diary of an amateur ghost hunter “pp.23-24 / “The Medieval Castle of Chillingham: the most haunted castle in Britain! – RANDOM Times)。

このジョン・”ドラッグフット”・セージはチリンガム城にまつわるエピソードにしか登場せず、内容も信憑性に欠けており、その実在自体が疑われている。また、この伝説の成立もかなり新しいものだと見られ、おそらく「青髭」などと同様の空想上の殺人鬼と思われる。

チリンガム牛

「チリンガム牛」

「チリンガム牛」
© Thomas Quine / CC BY (https://creativecommons.org/licenses/by/2.0)

チリンガム城内の北側は野生牛の希少種であるチリンガム牛(Chillingham cattle10チリンガム牛については”Chillingham Wild Cattle“(チリンガム牛の保護団体”The Chillingham Wild Cattle Association”公式サイト)を参照。)の放牧地として自然公園になっている。チリンガム牛はノーサンバーランド州のチリンガム周辺に生息している野生の牛の品種で、数百年に渡って他品種との交配が無く、遺伝的に隔離されたまま、野生の状態で現在まで続いている点で非常に珍しい品種であるという。十七世紀に絶滅した古代牛オーロックス(Aurochs)の子孫とみる説もあったが現在は疑問視されており、やはりブリテン島に生息する希少種ホワイトパーク牛(White Park cattle)との関係が深いと考えられている。

チリンガム牛の群れに関する最初の記録は1645年で、その後、ベネット家時代にチリンガム牛の保護が進んだ。第四代タンカーヴィル伯チャールズ・ベネット(Charles Bennet, 4th Earl of Tankerville,1743~1822)によって執事として雇われた農業学者ジョン・ベイリー(John Bailey,1750~1819)は詳細な記録を残し、また、十九世紀初頭、現在の公園の敷地約1500エーカー(610ヘクタール)を分ける壁が築かれている。1860年、第六代タンカーヴィル伯チャールズ・ベネット(Charles Bennet, 6th Earl of Tankerville,1810~1899)も生物学者チャールズ・ダーウィンの勧めを受け、チリンガム牛の観察記録を残した。1939年、チリンガム牛保護のための慈善団体が設立され、現在、チリンガム野生牛協会(The Chillingham Wild Cattle Association)の下で保護・研究が進められている。

チリンガム牛は個体数も非常に少なく、1947年に厳冬の影響で13頭にまで減少した後、徐々に増加して、現在、チリンガムの放牧地に約100頭、リスク分散の為にスコットランドへ移された個体約20頭が生息するにとどまっている。有料のチリンガム牛観察ツアー(要事前予約)が行われており、チリンガム城を訪れた際は、あわせて立ち寄ることで資金面で保護活動に貢献できる。

参考文献・リンク

脚注