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コニスバラ城

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コニスバラ城(Conisbrough Castle)は英国サウスヨークシャー州にある中世城塞。十一世紀、木造のモット・アンド・ベイリー式城塞が築かれ、十二世紀末に石造城塞として築城された。後にヨーク家の主要城塞の一つとなり、特に薔薇戦争でヨーク派の拠点として活用された。高さ27メートルの特徴的な歯車型の城塔(シェル・キープ)が名高い。

「コニスバラ城」

「コニスバラ城」(パブリックドメイン画像)

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築城

コニスバラはアングロ・サクソン七王国(ヘプターキー)時代ノーサンブリア王国の有力都市として栄え、その後もサウスヨークシャーの要衝として重視され、アングロ・サクソン時代最後の王ハロルド・ゴドウィンソンハロルド2世)の直轄地であった。1066年、イングランドを征服したウィリアム1世は、家臣のウィリアム・ド・ワレンヌ(” William de Warenne”,?-1088)をサリー伯に叙して多くの所領とともにコニスバラを与え、ワレンヌはコニスバラにモット・アンド・ベイリー式城塞を築いた。

第二次十字軍で戦死した第3代サリー伯ウィリアム・ド・ワレンヌ(” William de Warenne, 3rd Earl of Surrey”,1119–1148)には女子しかいなかったため、娘のイザベルは1164年4月、イングランド王ヘンリ2世の異母兄弟ハメリン・プランタジネット” Hamelin Plantagenet”,1130頃-1202)と結婚してワレンヌ家が継承された。

1180年代、ハメリン・プランタジネットによって石造のコニスバラ城が築かれる。モット・アンド・ベイリー式城塞のモット部分に築かれた石灰岩を使った石造の城塔は、高さ27メートルと高層で、円形の塔を基本として六つの控壁(buttress)を持った歯車型という特徴的な形状である点が特筆される。これについて太田静六は以下のように説明している。

『すなわち石造であるため高塔型キープを構築するためには、構造上から巨大な控壁を必要とする。このように構造上の補強の必要から出発した6個の控壁は、側面攻撃に対する防禦面に加えて、遠方から望見した時の偉観にも優れるので、これらの点を併せ考えたあげくにできあがったのが、コニスブラ城のキープ形態であったと私考する。』(1太田静六(2010)『イギリスの古城 新装版』吉川弘文館、世界の城郭31頁

また、スティーヴンソンは軍事上の必要性とともに、類似のヘンリ2世築城のオーフォード城の研究から築城技術者たちによる『遊び心に満ちた幾何学的試み』(2スティーヴンソン、チャールズ(2012)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』柊風舎74頁)であったと指摘する。いわば当時の石工たちが同時代の建築技術でどこまでできるかと挑んだ『革新的な城塞』(3スティーヴンソン、チャールズ(2012)『ビジュアル版 世界の城の歴史文化図鑑』柊風舎74頁)であった。

「コニスバラ城の歯車型シェル・キープ」

「コニスバラ城の歯車型シェル・キープ」
© Rob Bendall [Attribution]

“Conisbrough Castle, 1814″Print by Longman and Co, London, published 1814

“Conisbrough Castle, 1814″Print by Longman and Co, London, published 1814
(パブリックドメイン画像)

ヨーク家の城として

第七代サリー伯ジョン・ド・ワレンヌ(” John de Warenne”,1286-1347)死後、後継者が無かったためコニスバラ城はイングランド王家に接収され、イングランド王エドワード3世の第四子初代ヨーク公エドモンド・オブ・ラングレー(”Edmund of Langley, 1st Duke of York”,1341-1402)に与えられた。初代ヨーク公エドモンドはコニスバラ城を改修の上で、ノーサンプトンシャー州フォザリンゲイ城(Fotheringhay Castle)を居城、コニスバラ城を別邸として重視した。

1399年、リチャード2世がランカスター家のヘンリ・ボリングブロク(ヘンリ4世)の反乱で廃位され、プランタジネット朝にかわりランカスター朝が始まる。ランカスター家はエドワード3世の第三子ジョン・オブ・ゴーントから始まる家系で、その王朝交代も非常に強引な諸侯反乱をともなうものだったため、反ランカスター諸侯からはヨーク家への期待も大きかった。

サウサンプトン陰謀事件の舞台

前ヨーク公エドモンドの第二子、第三代ケンブリッジ伯リチャード・オブ・コニスバラ(” Richard of Conisburgh, 3rd Earl of Cambridge”,1385頃-1415)はコニスバラ城で生まれ、コニスバラ城を居城としていたが、十分な収入を得られるほどの所領もなく待遇に不満を持っていたため、1415年、時のイングランド王ヘンリ5世の暗殺を企てる。この謀議が行われたのがコニスバラ城であった。当時、ヘンリ5世は百年戦争を再開すべくフランス侵攻の軍を集める最中であり、大規模な軍を動かしても怪しまれることがない好機であった。しかし、この陰謀計画は事前に露見してしまい、リチャードは仲間とともに逮捕され処刑された。「サウサンプトン陰謀事件」と呼ばれる。

薔薇戦争下のヨーク派の有力城塞

刑死したリチャード・オブ・コニスバラの子が第3代ヨーク公リチャード・プランタジネット(” Richard Plantagenet , 3rd Duke of York”,1411-1460)である。彼は父の死後コニスバラ城を継承し、叔父の第2代ヨーク公エドワード・オブ・ノリッジ(” Edward of Norwich , 2rd Duke of York”,1373-1415)死後の1425年、ヨーク公となった。

1453年、イングランドが大陸領土を喪失して百年戦争が終結すると、イングランド王ヘンリ6世は精神を病んで政治が取れなくなったため、ヨーク公リチャードが兵を率いてロンドンに入城し、護国卿に就任して国政を担うが、1455年、ランカスター派の反撃で失脚、同年、武力蜂起し薔薇戦争が開始される。ヨーク公リチャードはアイルランド総督を務めていたことから、アイルランドを有力地盤としており、本土とアイルランドの中間にある母のモーティマー家の居城であったシュロップシャー州のラドロー城(Ludlow Castle)を拠点としていたが、コニスバラ城もヨーク公領における最重要の城塞であり、彼の部隊の駐屯地であった。

1460年12月30日、ヨーク公リチャードはウェイクフィールドの戦いで戦死し、彼の子が第四代ヨーク公エドワードとして跡を継いだ。エドワードは1461年3月29日、タウトンの戦いでランカスター軍を撃破すると、イングランド王エドワード4世として即位しヨーク朝が開かれる。しかし薔薇戦争は続き、1485年、ボズワースの戦いで兄エドワード4世の後を継いでいたリチャード3世が戦死したことで、リッチモンド伯ヘンリ・テューダーがヘンリ7世として即位し、ヨーク朝に代わってテューダー朝が開かれ、薔薇戦争も終結を迎える。

コニスバラ城はヨーク朝の短い治世の終わりと同時期、十五世紀末までに放棄され、廃城となった。

廃城後

「コニスバラ城”Conisbrough Castle”」

「コニスバラ城”Conisbrough Castle”」
© Rob Bendall([Attribution]

1538年、ヘンリ8世の命で調査が行われた際、すでに城壁が崩れ砦も屋根を失ってかなり崩壊が進んでいたという(4Brindle,Steven.”History of Conisbrough Castle“English Heritage.)。1559年、城は初代ハンスドン男爵ヘンリー・ケアリー(” Henry Carey, 1st Baron Hunsdon”,1526-1596)に与えられ、十九世紀まで多くの貴族の所領となるが、特に修復されることはなく、廃城のままであった。また城として機能しないがゆえ、その後、繰り返し行われた内戦の影響を受けることもなかった。

1811年、コニスバラ城に立ち寄った小説家サー・ウォルター・スコットはこの廃城にインスピレーションを受け、1819年に発表した小説「アイヴァンホー」の舞台となる架空の城「コニングスバラ城(Coningsburgh castle)」として登場させた。彼はコニスバラ城の由来を知らず、アングロ・サクソン時代の城だと思っていたという(5Brindle,Steven.”History of Conisbrough Castle“English Heritage.)。

1950年、城は州の管理下に置かれ、60年代以降改修作業が行われて、歴史的観光地として整備された。2007年より、イングリッシュ・ヘリテージ(English Heritage)の直接管理下に置かれている。

参考文献

脚注

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