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コンウィ城

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コンウィ城(英語”Conwy Castle”/ウェールズ語” Castell Conwy”カステス・コヌゥイ1ウェールズ語のカナ表記は「カムリの地名のカタカナ表記」(日本カムリ学会|日本ウェールズ学会)参照)は英国ウェールズ地方北部コンウィにある中世の城塞。1283年から築城が開始され1287年に完成した。1986年、コンウィ城と市壁に囲まれた城塞都市が他の三城とあわせてユネスコ世界文化遺産「グウィネズのエドワード1世の城群と市壁群(Castles and Town Walls of King Edward in Gwynedd)」(2Castles and Town Walls of King Edward in Gwynedd“(UNESCO World Heritage Centre) /日本語登録名は「世界遺産リスト|地域別リスト(ヨーロッパ①)」(公益社団法人日本ユネスコ協会連盟)参照)に登録。2019年、日本の姫路城と姉妹城提携。他「ヨーロッパ百名城」選出など。

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築城以前

現在のコンウィ城と市街地が十三世紀に形成される以前、コンウィ城のあった一帯にはシトー派のアベルコヌゥイ修道院(Aberconwy Abbey3Aberconwy Abbey – History, Travel, and accommodation information“(Britain Express))が建てられていた。同修道院は1186年頃にカーナーヴォンに建てられた修道院が1190~91年ごろにこの地に移築されたもので、1199年に大サウェリン(Llywelyn the Great,在位1195-1240)から土地の寄進を受けたのを始め歴代グウィネズ公の庇護を受けて非常に栄え、大サウェリンを始めグウィネズ公の一族が多く修道院に埋葬された。

コンウィはアイリッシュ海沿いのコンウィ(コヌゥイ)川河口付近という立地からウェールズ北部の沿岸部と内陸部を結ぶ中継地点として古くから非常に重視されており、コヌゥイ川を挟んだ対岸にデガヌゥイ城(Deganwy Castle)という城が築かれて防衛拠点となっていた。デガヌゥイ城址からはローマ時代の居住地の遺構も発見されており、六世紀には当時のグウィネズ王マエルグン・グウィネズ(Maelgwyn Gwynedd,520-547年頃)の王宮が置かれていたとみられるなどその歴史は非常に古い。ウェールズの伝説の詩人タリエシンの伝承にもマエルグン王の王宮として登場する(4『マエルグン・グウィネッズがデガヌウィに城を構えていた時代のこと~(中略)裕福な地主がカエル・デガヌウィの近くに居住しており(以下略)』(森野聡子(2019)『ウェールズ語原典訳マビノギオン』原書房、319頁より引用)/カエル(Caer=城・砦の意味))。1250年頃、イングランドの支配下になった際にイングランド軍によって築かれたものがデガヌゥイ城の主な遺構となっている(5Deganwy Castle | North Wales | Castles, Forts and Battles)。

1250年頃のデガヌゥイ城の3D復元映像

築城

コンウィ城 credit:Cadw, OGL v1.0 , via Wikimedia Commons

コンウィ城
credit:Cadw, OGL v1.0 , via Wikimedia Commons

1277年、イングランド王エドワード1世はウェールズ征服に乗り出し、1283年までにウェールズ全土をその支配下に置いた。この支配体制強化のため、エドワード1世は北ウェールズを中心にカーナーヴォン城、ハーレック城、ビューマリス城などアイアンリング・オブ・キャッスルズ(通称アイアンリング)と呼ばれる10の城からなる城塞網を築かせた。このアイアンリングの一つがコンウィ城である。

1283年、エドワード1世はコンウィ城の築城を信頼厚い築城技術者マスター・ジェイムズと家臣のサー・ジョン・デ・ボンヴィラーズ(Sir John de Bonvillars)に命じ、ボンヴィラーズ卿の監督下、マスター・ジェイムズによって手掛けられた。このとき、アベルコヌゥイ修道院はコヌゥイ川上流のコヌゥイ渓谷をさらに遡ったマエナン(Maenan)に移動させ、建築資材へ転用するためデガヌゥイ城を解体させている。城は1287年に完成しており、四年余りという非常に短い工期で建設された。城はもともと白い漆喰で覆われていて、その名残が今も残っている。また、エドワード1世の命で地元の人々に印象づけるため城壁には多くの盾が吊るされていたという。

城の構造

コンウィ城構造図 Credit : Cadw, OGL v1.0 , via Wikimedia Commons

コンウィ城構造図
Credit : Cadw, OGL v1.0 , via Wikimedia Commons

コンウィ城は8つの巨大な円形の塔と東西2つの城門を城壁(カーテンウォール)が取り囲み、西側のアウターベイリー(外郭)と東側のインナーベイリー(内郭)の二つの区画に分かれ、他のアイアンリングの城と同様天守塔を持たない「エドワーディアン・キャッスル(Edwardian castle)」の特徴を備えて築かれている。

8つの塔は四隅に高さ70フィート(21メートル)の北西塔(North-West Tower)、南西塔(South-West Tower)、チャペル塔(Chapel Tower)、王の塔(King’s Tower)の四つの塔と、中央の炊事場塔(Kitchen Tower)、監獄塔(Prison Tower)、倉庫塔(Stockhouse Tower)、製パン所塔(Bakehouse Tower)からなり、インナーベイリーの四つの塔(チャペル塔、王の塔、倉庫塔、製パン所塔)にはさらに小塔が備わっている。

東西二つの門の前面にはそれぞれ三つの小塔と防壁に囲まれたバービカンと呼ばれる防御施設が設けられ、英国で現存するものとしては最も古いマチコレーション(城壁上に突き出した射撃設備)が築かれているなど、非常に高い防御力があった。また、王の塔から見下ろす位置にある東側のバービカンには芝生やブドウの木、後に十七世紀には鑑賞用の植物が植えられていた。

東側のインナーベイリーには南側に王宮があり、西側のアウターベイリーには長さ30メートルの大広間、礼拝堂、炊事場、住居、兵舎などがあった。またアウターベイリーの東側の角に深さ21.7メートルあったとみられる井戸の跡がある。

西側から見たコンウィ城。手前に張り出した三つの小塔に囲まれた場所がバービカン © David Dixon, CC BY-SA 2.0 , via Wikimedia Commons

西側から見たコンウィ城。手前に張り出した三つの小塔に囲まれた場所がバービカン
© David Dixon, CC BY-SA 2.0 , via Wikimedia Commons

コンウィ城内 © Mike Peel (www.mikepeel.net)., CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

コンウィ城内
© Mike Peel (www.mikepeel.net)., CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

市壁と城塞都市

コンウィの市壁 © John S Turner , CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons

コンウィの市壁
© John S Turner , CC BY-SA 2.0, via Wikimedia Commons

コンウィ城の築城と同時に21の塔と3つの門を持つ全長1.3キロメートルの石の壁で周囲を囲まれた市街地が城下に整備された。建設当時、市壁は城と同様に白く塗られていたとみられている。保存状態が非常に良く、ユネスコは世界遺産登録に際し他の城とともにコンウィの市壁も「13世紀後半から14世紀初頭にかけてのヨーロッパにおける軍事建築の最高の例」(6Castles and Town Walls of King Edward in Gwynedd“(UNESCO World Heritage Centre))と高く評価している。

コンウィ城下の市壁に囲まれた城塞都市は十三世紀、イングランド領だったガスコーニュ地方を含むフランス南西部で相次いで登場した計画的な都市「バスティード」の建設に触発されたと考えられている。

『典型的なバスティードは長方形に平面設計され、一辺は200~500mまで様々だった。その中にグリッド状に道路が計画され中央を貫く幹線道路も造成された。』(7カウフマン、J・E/カウフマン、H・W(2012).『中世ヨーロッパの城塞』マール社、51頁

市壁の防御のために市民兵を中心としたクロスボウ部隊が編成され、十四世紀には射撃場が市壁に設けられるなどした。

「1300年頃のコンウィ城と市壁の復元模型」 © Hchc2009, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

「1300年頃のコンウィ城と市壁の復元模型」
© Hchc2009, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

中世のコンウィ城

コンウィ城 © Leestuartsherriff, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

コンウィ城
© Leestuartsherriff, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

1294年に起きたグウィネズの王族マドッグ・アプ・サウェリン(Madog ap Llywelyn)の反乱の際、エドワード1世がコンウィ城に滞在しており、1295年12月から1月にかけて反乱軍の包囲を受け、船での補給を受けつつ耐え凌ぎ、2月にイングランドの援軍が到着して解放された。エドワード1世がコンウィ城に滞在したのはこのときだけである。

1301年、プリンス・オブ・ウェールズとなったエドワード1世の王太子エドワード・オブ・カーナーヴォン(後のエドワード2世)がコンウィ城でウェールズの諸侯を集め臣従を誓わせた。

1399年、イングランド王リチャード2世は叛旗を翻したヘンリ・ボリングブロク(後のヘンリ4世)に対してコンウィ城に籠り、8月12日、ヘンリ・ボリングブロク派のノーサンバーランド伯ヘンリ・パーシーと城内で会談する。一週間後の8月19日、フリント城で王は降伏を決断し、後に廃位されてプランタジネット朝に替わりランカスター朝が開かれた。

1400年、成立したばかりのランカスター朝に対して、かつてウェールズ中部にあった王国ポウィス王家の末裔である豪族オワイン・グリンドゥールが蜂起し、急速に勢力を拡大してプリンス・オブ・ウェールズを称しウェールズのほぼ全土を支配下に収めた。1401年3月、コンウィ城も反乱軍の奇襲攻撃を受け敢無く陥落する。このとき反乱軍の指揮官二人が大工のふりをして城内に潜入、見張りを殺して城を支配下に置き、残りの反乱軍が市壁内の市街地に総攻撃を加えて占領した。

廃城から世界遺産登録まで

1890-1900年頃のコンウィ城(アメリカ議会図書館収蔵) Title from the Detroit Publishing Co., catalogue J–foreign section. Detroit, Mich. : Detroit Photographic Company, 1905. Print no. “10620”. Forms part of: Views of landscape and architecture in Wales in the Photochrom print collection. credit: The Library of Congress, No restrictions, via Wikimedia Commons

1890-1900年頃のコンウィ城(アメリカ議会図書館収蔵)
Title from the Detroit Publishing Co., catalogue J–foreign section. Detroit, Mich. : Detroit Photographic Company, 1905.
Print no. “10620”.
Forms part of: Views of landscape and architecture in Wales in the Photochrom print collection.
credit: The Library of Congress, No restrictions, via Wikimedia Commons

薔薇戦争(1455-1487)時、戦争に備えて城の強化が行われたが戦いが行われることは無く、その後十六世紀にかけて城としての重要性は低下したため放置され荒廃が進んだ。1627年、イングランド王チャールズ1世によってコンウェイ子爵に叙されたエドワード・コンウェイ(Edward Conway, 1st Viscount Conway)がコンウィ城とコンウィ市街地を獲得。1646年、イングランド内戦で議会軍が城を占領したが、1660年、王政復古でコンウェイ家に返還された。コンウェイ子爵エドワード・コンウェイの孫初代コンウェイ伯エドワード・コンウェイ(Edward Conway, 1st Earl of Conway)は1665年、城から鉛などを剥いで売却し廃城とした。コンウェイ伯は一代で絶え、名門シーモア家の傍流がコンウィ城と市街地を継承し、コンウェイ男爵位を兼ねた初代ハートフォード侯爵フランシス・シーモア=コンウェイ (Francis Seymour-Conway, 1st Marquess of Hertford)以降ハートフォード侯爵シーモア=コンウェイ家領となった。

十八世紀末、廃城となったコンウィ城は観光地として人気となり多くの画家がコンウィ城を描いている。

ジョージ・バレット画コンウィ城(1778年頃) Credit: George Barret, Sr., Public domain, via Wikimedia Commons

ジョージ・バレット画コンウィ城(1778年頃)
Credit: George Barret, Sr., Public domain, via Wikimedia Commons

ジョン・イングレビー画コンウィ城(1795年頃) Credit: John Ingleby, Public domain, via Wikimedia Commons

ジョン・イングレビー画コンウィ城(1795年頃)
Credit: John Ingleby, Public domain, via Wikimedia Commons

1826年、「道路の巨人 (Colossus of Roads) 」の異名で知られる高名な土木技術者・建築家トーマス・テルフォード(Thomas Telford)によって設計された城の東側バービカンに接続するコヌゥイ川に架かる「コンウィ吊橋(Conwy Suspension Bridge)」が築かれた(8Conwy Suspension Bridge“(National Trust))。現在、コンウィ城の名所として人気を博している。

1890年ごろのコンウィ吊橋とコンウィ城(アメリカ議会図書館収蔵) Title from the Detroit Publishing Co., catalogue J–foreign section. Detroit, Mich. : Detroit Photographic Company, 1905. Print no. “10356”. Forms part of: Views of landscape and architecture in Wales in the Photochrom print collection. credit: The Library of Congress, No restrictions, via Wikimedia Commons

1890年ごろのコンウィ吊橋とコンウィ城(アメリカ議会図書館収蔵)
Title from the Detroit Publishing Co., catalogue J–foreign section. Detroit, Mich. : Detroit Photographic Company, 1905.
Print no. “10356”.
Forms part of: Views of landscape and architecture in Wales in the Photochrom print collection.
credit: The Library of Congress, No restrictions, via Wikimedia Commons

1865年、コンウィ城の管理権がコンウィ市に譲渡され、後に観光客向けに開放される。1953年、英国政府の管理下に移されて調査と修復工事が進み、現在はウェールズ自治政府の歴史的遺産管理組織であるCadwが管理している。

1986年、「カーナーヴォン城と市壁」「ハーレック城」「ビューマリス城」とともに「グウィネズのエドワード1世の城群と市壁群」としてユネスコ世界文化遺産に登録され、多くの観光客を集める人気の城となっている。また、2019年10月29日、日本の姫路城と姉妹城提携が発表された( 9令和元年10月29日(火曜日)コンウィ城と姫路城の姉妹城提携 | 姫路市)。

参考文献

脚注

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