ノルマンディー公国

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ノルマンディー公国(英語” Duchy of Normandy”,フランス語” Duché de Normandie”)は西暦911年から1204年まで現在ノルマンディー地方と呼ばれるフランス北東部コタンタン半島周辺に存在した諸侯国家。ノルマン人の国。911年、ヴァイキングの首長ロロが西フランク王シャルル単純王によってルーアン周辺を与えられてから、1204年にフランス王フィリップ2世によって征服されるまで独立勢力として存在し、1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世がイングランドを征服して以降、代々ノルマンディー公はイングランド王を兼ねた。フランス王国の支配下となってからは、幾度か親王領(アパナージュ)として再興された。

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ノルマンディー公国の歴史

ノルマンディー公国の成立と拡大

「ノルマンディー公旗」

「ノルマンディー公旗」
Credit: Saebhiar, Public domain, via Wikimedia Commons

ヴァイキングの北フランス襲来は840年頃から始まり、北海にそそぐ主要河川の河口から内陸へと侵攻、856年から、パリ、シャルトル、エヴルーその他有力諸都市が次々と襲撃・略奪され、多くの修道院や施設が破壊された。

ノルマンディー公国はヴァイキングの侵攻に悩む西フランク王シャルル単純王が911年、セーヌ川河口の町ルーアンを占領したヴァイキングの首長ロロにキリスト教への改宗と臣従を条件に同地周辺を領地として与えルーアン伯に叙したことに始まる(サン=クレール=シュール=エプト条約)。当時はブレスル、エプト、アヴル川に挟まれたルーアン近郊の一帯に限られるが(1塙浩(1979)「ノルマンディ公領の統治構造史(一〇三五年まで) 近来の研究成果を辿って」(『法制史研究 1979 29号』11頁))、後に西方へ拡大していった。以後ルーアンはノルマンディー公国の首邑であり続ける。

ギヨーム1世長剣公(在位927-942)時代の933年、コタンタン、アヴランシュ両パグス(2Pagus:ローマ時代の諸部族の領土区分に由来するフランク王国期の行政地域のこと)の併合をもってノルマンディー公国の領土が確定する(3塙(1979)11頁)。リシャール1世無畏公(在位942-996)・リシャール2世善良公(在位996-1026)の時代に海上交易の繁栄を背景とした強力な領邦権力として確立された。リシャール1世はユーグ・カペーの妹エマを妃に迎える(4結婚したのはユーグ・カペーの即位前)などロベール家との関りを強化してフランス屈指の大諸侯となった。十世紀末、リシャール2世がノルマンディー公を名乗り、名実ともにノルマンディー公国が成立した。

1002年、リシャール2世は圧力を増すデーン人に対抗したいイングランド王エゼルレッド2世(在位978-1016)の求めに応じ姉妹エマをイングランド王妃として送り出した。エゼルレッド2世とエマとの間に生まれた子が後のイングランド王エドワード証聖王、クヌート大王と再婚して生まれた子がデンマーク王兼イングランド王ハーデクヌーズである。

リシャール2世死後、長子リシャール3世が公位を継いだが一年余りで病死し、弟のロベールがノルマンディー公ロベール1世(在位1027-35)となった。彼はフランス王家の王位継承を巡る内紛に介入してフランス王アンリ1世に助力する代わりにヴェクサン地方の割譲を受けたが、このヴェクサン地方を巡る争いが後にフランス王とノルマンディー公の対立の大きな要因となった。

「ノルマンディー公国の領土(911年から1050年まで)」

「ノルマンディー公国の領土(911年から1050年まで)」
Credit: FlyingPC (talk · contribs), Morningstar1814 (talk · contribs), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons

ギヨーム2世のイングランド征服

ノルマンディー公ロベール1世と愛妾アルレッタの間に生まれた庶子がノルマンディー公ギヨーム2世、後のイングランド王ウィリアム1世である。アルレッタはファレーズ市の富裕な製革職人の娘であった。1035年、ロベール1世は巡礼先のエルサレムで亡くなり、庶子ギヨームが公位についた。

幼い新公に対し有力貴族が反乱を起こし、フランス王アンリ1世、アンジュー伯ら周辺諸侯が介入、公位継承を巡る戦争が始まった。1047年、フランス王アンリ1世の支持を背景にヴァル・エス・デュヌの戦いで反乱を鎮圧したが、1053年、アンリ1世は一転して反ギヨーム2世派を支援してアンジュー伯ジョフロワ2世マルテルと結びノルマンディーに侵攻してくる。同年、ギヨーム2世はフランドル伯ボードゥアン5世の娘マティルダと結婚、フランドル伯との同盟関係を確立して、1054年のモートマの戦い、1057年のヴァラヴィルの戦いでフランス王アンリ1世・アンジュー伯ジョフロワ2世軍を撃破、公領の支配を固めた。

1060年、フランス王アンリ1世、アンジュー伯ジョフロワ2世が相次いで亡くなり、フランス王位は八歳の幼君フィリップ1世が継ぎ、摂政として義父のフランドル伯ボードゥアン5世が補佐することとなって融和ムードが高まり、一方アンジュー伯は後継を巡って内紛となり大きく勢力を減退させた。1063年、ギヨーム2世はアンジュー伯との境界にあったメーヌ伯領を獲得してアンジュー伯家の脅威を取り去り、さらに1064年、ノルマンディー公領の背後を脅かしつつあったブルターニュへ遠征、ブルターニュ公コナン2世を下して影響下に置いた。

1066年、ギヨーム2世はエドワード証聖王死後、イングランド王位継承権を主張してブリテン島へ侵攻、ヘースティングズの戦いに勝利してイングランドを征服しイングランド王国とノルマンディー公国を一体化させた。英仏海峡を挟んで成立したこの海峡国家はアングロ・ノルマン王国と呼ばれる。

アングロ・ノルマン王国時代

「アングロ・ノルマン王国(1087年頃)」

「アングロ・ノルマン王国(1087年頃)」
Credit: Historical Atlas by William R. Shepherd, Public domain, via Wikimedia Commons

ギヨーム2世(ウィリアム1世)は、その死に際して長子ロベールにノルマンディー公国を、次子(三男)ギヨーム(ウィリアム2世)にイングランド王位を、末子アンリ(のちのイングランド王ヘンリ1世)に金銭を残して亡くなったが、新ノルマンディー公ロベール2世(在位1087-1106)と新イングランド王ウィリアム2世はすぐに王位継承を巡って争い始めた。

ロベール2世は元々父と折り合いが悪く、1078年には反逆して父に傷を負わせている。為政者としても評価が低く、在位中、浪費をくりかえして富裕なノルマンディー公国の財政を逼迫させた(5キング、エドマンド(2006)『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会、33頁/同書で同時代の歴史家・修道士オルデリク・ヴィターリス(1075-1142)の「浪費をほしいままにしたため、彼は、広大な公領の富にもかかわらず、しばしば文なしだった」という記述が紹介されている)。

兄弟対立は1091年、ロベール2世が弟ウィリアム2世にノルマンディー公国の一部を割譲し、お互い後継者無く死んだときは互いが後継者となることを約束したことで一応の決着をみた。その後、第一回十字軍(1096-99)が開始されると、経済的に困窮していたロベール2世は一攫千金を夢見て十字軍への参加を表明、戦費調達のため、ウィリアム2世にノルマンディー公国を担保として資金提供を受けた。

1100年8月2日、ウィリアム2世が狩猟中の事故で亡くなると、その隙をついて末弟アンリがイングランド王となった(ヘンリ1世)。十字軍遠征から帰ったロベール2世は弟の王位継承を不服として反ヘンリ1世派貴族とともに軍を起こすが、1106年、タンシュブレーの戦いでヘンリ1世に捕らえられ、公位を喪失して1134年に亡くなるまで幽閉されて生涯を終えた。

以後、ロベール2世の子ギヨーム・クリトンがフランス王ルイ6世、アンジュー伯フルク5世と結んで反乱軍を率いたが、1119年までに鎮圧され、あらためてイングランド王位とノルマンディー公位はヘンリ1世(ノルマンディー公としてはアンリ1世)の下で統合された。

アンジュー帝国の成立からフランスによる征服まで

1135年、アンリ1世が亡くなると、後継者を巡って娘マティルダと甥エティエンヌが争い、エティエンヌがイングランド王に即位(スティーヴン王)しノルマンディー公位も継承(エティエンヌ1世)したが、ノルマンディーの諸侯の多くは両者どちらにもつかなかったため、マティルダと夫のアンジュー伯ジョフロワ5世がノルマンディー公国を再征服して地盤を築き、1144年、ジョフロワが公国内の貴族たちの承認を受けてノルマンディー公に就き(ジョフロワ1世)、アンジュー伯領とノルマンディー公国が一体化した。

1150年、ジョフロワはノルマンディー公位を息子のアンリ・プランタジュネ(のちのイングランド王ヘンリ2世)に譲り、翌51年に亡くなった。アンリ・プランタジュネは後にイングランド王位や新たに婚姻で獲得したフランス南西部アキテーヌ公領などイングランドからフランスの北部・西部に至る広大な領土を獲得してアンジュー帝国を樹立する。アンジュー帝国においてノルマンディー公国はもはや重要ではなく、アンリ2世はノルマンディー公位を長男若アンリに与えて統治させた(6若アンリは父との共同統治者であるためノルマンディー公歴代に含まれない)。

若アンリ死後、ノルマンディー公位は父アンリ2世の単独統治となり、その後を継いだリシャール4世(イングランド王リチャード1世獅子心王)、ジャン1世(イングランド王ジョン欠地王)と受け継がれた。この間、アンジュー帝国とフランス王との対立が先鋭化し、1204年、フランス王フィリップ2世によって要衝ガイヤール城が陥落させられ、ノルマンディー公国は現在も英国王室領として存続しているチャンネル諸島を除いてフランス王の支配下となった。

フランス征服後

引き続きジョン欠地王がノルマンディー公を称していたものの、ノルマンディー貴族たちは直接フランス王へ臣従したため、独立した諸侯領としてのノルマンディー公国は消滅した。ジョンの後を継いだイングランド王ヘンリ3世もノルマンディー公を称したが、1259年、フランス王との和平条約であるパリ条約締結時に放棄している。

1332年、フランス王フィリップ6世は王太子ジャン(後のフランス王ジャン2世)をノルマンディー公に叙し、親王領として再興された。1350年、ジャン2世はフランス王に即位すると自身の王太子シャルル(後のフランス王シャルル5世)にノルマンディー公を継承した。この慣習は二代で終わり、十五世紀に入ると百年戦争の展開に伴ってイングランド領へ編入された。1420年から1450年までのイングランド征服時代のノルマンディー地方はイングランドの大陸支配の中核として重視され、行政組織の整備が進められた。

1465年、公益同盟戦争の終戦にともなうフランス王ルイ11世と王弟ベリー公シャルルら公益同盟の間の休戦条約により、ベリー公シャルルがノルマンディー地方を与えられノルマンディー公国を再興した。しかし、ルイ11世は翌66年にノルマンディー公国へ侵攻、1469年、シャルルからノルマンディー公位を返還させた上で王領へ併合した。これが独立したノルマンディー公国の最後となった。

その後、1785年に生まれたルイ16世の子ルイ・シャルル(後のルイ17世)に誕生と同時に与えられた名誉称号の一つとしてノルマンディー公位がある。

ノルマンディー公国の統治体制

ノルマン・コンクェスト以前のノルマンディー公国の統治体制については史料が非常に少ないためよくわかっていないが、十~十一世紀にかけてフランス各地で台頭した諸侯と比べても突出してノルマンディー公の権力は強力であったとみられている。

九世紀後半のフランク帝国分割の過程で誕生した諸国王の権力を各地で代行する高級官僚や王族が十世紀前後から諸侯として次々と自立し、あるいは新興勢力が台頭する傾向が強まった。フランスであれば西フランク王に近い高級官僚たちがまず大諸侯として登場し、その大諸侯の権力を代行する伯・官僚が城主層として自立するようになり、さらにその城主層の配下が台頭して下級領主層として自立するという権力の細分化の傾向が強まり群雄割拠の時代を迎える。

しかし、ノルマンディー公国ではこのような権力の細分化が見られず公への権力集中が強まった点で例外的であった。十世紀、公を支える伯には一族が中心に据えられたが権限は限定され伯位の世襲もほぼ行われず(7塙(1979)19-21頁)、十世紀末の時点で公領の半分以上が公の直轄領であったとみられる(8塙(1979)38頁)。また領主裁判権も公が独占して権限の細分化や家産化は禁じられ、副伯や子爵らも実務を行う官僚としての側面が強かった(9塙(1979)43-45頁)。また教会・修道院との関係も公の一族が司教職を独占して公権力の庇護下での教会・修道院の統制が行われた(10塙(1979)30-32頁)。

このような強い権力を持ったノルマンディー公だが公の行政組織がどのようなものだったかは史料が無くはっきりしない。常設の行政組織は無く必要に応じて文書を発行するときは司祭などの協力を仰いだり、裁判の際はその都度公の判断に委ねられたりと非常に属人的であったとみられる。後継公の選定や聖遺物教会財産に関する事件への対応など重要案件の決定時は公の親族や司祭、伯やバロンなどを構成員として10名から最大100名規模の会議が招集された(11塙(1979)28-29頁)。ノルマンディー公国政府の行政機構が整備されるのは十二世紀初めのアンリ1世時代以降であった。ノルマンディー公アンリ1世はイングランド王ヘンリ1世としてイングランドの行政機構の基礎を築いた人物で、イングランド王国の制度整備とともにノルマンディー公国の行政組織も整えられ、アンジュー帝国を築いた孫のアンリ2世によって裁判制度や財政制度を含めた行政機構が確立された。

ノルマン・コンクェスト以前のノルマンディー公国における封建制の存在や成熟度については議論があるが、ほとんど浸透していなかったとみられている。例えば「封(フェウドゥム)」や「騎士封(フェウドゥム・ミリーティス)」といった用語は未普及で、従士制と恩貸地の授与の結合、再下封の例などは見られるが普及度は不明であり、家臣の軍役奉仕の慣習は広く普及していたものの、授封の条件とは結びつけられていなかった(12城戸毅「第六章 イングランド封建国家」(青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社 210頁)/塙(1979)33-36頁)。ノルマンディー公国における封建制はノルマン・コンクェスト以後に征服地のイングランドとともに整備が始まり、十二世紀頃に確立したと見られている。

参考書籍

脚注

  • 1
    塙浩(1979)「ノルマンディ公領の統治構造史(一〇三五年まで) 近来の研究成果を辿って」(『法制史研究 1979 29号』11頁)
  • 2
    Pagus:ローマ時代の諸部族の領土区分に由来するフランク王国期の行政地域のこと
  • 3
    塙(1979)11頁
  • 4
    結婚したのはユーグ・カペーの即位前
  • 5
    キング、エドマンド(2006)『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会、33頁/同書で同時代の歴史家・修道士オルデリク・ヴィターリス(1075-1142)の「浪費をほしいままにしたため、彼は、広大な公領の富にもかかわらず、しばしば文なしだった」という記述が紹介されている
  • 6
    若アンリは父との共同統治者であるためノルマンディー公歴代に含まれない
  • 7
    塙(1979)19-21頁
  • 8
    塙(1979)38頁
  • 9
    塙(1979)43-45頁
  • 10
    塙(1979)30-32頁
  • 11
    塙(1979)28-29頁
  • 12
    城戸毅「第六章 イングランド封建国家」(青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社 210頁)/塙(1979)33-36頁
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