エグバート(ウェセックス王)

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エグバート(Ecgberht)は九世紀前半、ブリテン島南部を支配したウェセックス王国の王(在位802-839年)。ケント王国の王子だったがマーシア王国の脅威から逃れてフランク王国のカール大帝を頼って亡命。帰国後、ウェセックス王に即位して七王国時代の分裂を収拾し、ブリテン島の諸勢力を従え、ヴァイキングを撃退、後のイングランド王国に繋がるブリテン島におけるウェセックス王権の優位を確立した。ブレトワルダの一人に数えられる。アルフレッド大王の祖父。

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七王国時代とマーシア王国の台頭

「600年頃のブリテン島」

「600年頃のブリテン島」
黒字はアングロ・サクソン王国、青字はブリトン人・ケルト系諸王国、薄い緑の部分は当時海だった部分
credit:Hel-hama, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

「七世紀頃のブリテン島」

「七世紀頃のブリテン島」
credit:Kmusser, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

六世紀ごろからブリテン島に侵攻したアングロ=サクソン諸族はブリトン人との激しい戦いを経て支配的となり、六世紀から八世紀にかけて次々と王国を建国して互いに勢力争いをはじめた。この時代は有力な七つの王国――イースト・アングリア(East Anglia)、マーシア(Mercia)、ノーサンブリア(Northumblia)、ウェセックス(Wessex)、ケント(Kent)、エセックス(Essex)、サセックス(Sussex)――が次々栄え、覇を競ったことから七王国時代(ヘプターキー)と呼ばれる。ただし七つの王国だけでなく中小様々な王国も存立していた。

この時期、競合の中で諸王国に対し宗主権を握った王はブレトワルダ(Bretwalda、覇者、覇王あるいは上王などと訳される)と呼ばれるが、最初のサセックス王アェラに始まり、ウェセックス王チェウリン、ケント王エゼルベルフト、イースト・アングリア王レドワルド、ノーサンブリアのエドウィン、同じくノーサンブリアのオスワルド、ノーサンブリア王オスウィの七人が次々と交替していった。

このような諸王国の興亡の中で八世紀に力を持ったのが諸王国に属さない中北部から中西部にかけての中小勢力の統合によって台頭したマーシア王国である。マーシア王国は757年に即位したオファ(Offa)王の下で隆盛を誇った。オファ王はエセックス王国、サセックス王国を滅ぼし、イースト・アングリア王国ケント王国ウェセックス王国を宗主権下に置いた。オファ王は全アングル人の王を称し、諸王国の上に君臨したが、「アングロ=サクソン年代記」は彼をブレトワルダに数えていない。

エグバートの青年期

後のイングランド王家の祖となるウェセックス王エグバートだが、彼の生涯の前半期についてわかっていることは少ない。エグバートはケント王エアルフムンド(Ealhmund)の子である。父王エアルフムンドはウェセックス王イネの兄弟インギルドの曾孫にあたり、伝統的なケント王家ではなくウェセックス王家に連なる血統である。エアルフムンド王については784年にケント王であったという点しかわからない(1784年当時、ケントでオファ王が憲章(charter)を施行するなど宗主権を行使した記録がある点からエアルフムンドがケント王を称していただけという説(小田卓爾「固有名詞――略解・索引」(アッサー(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、中公文庫、238頁))や該当の記述があるアングロ・サクソン年代記の箇所に加筆の可能性があるため、後世エグバート王をウェセックス王家に繋げるために創作された人物である可能性(Wikipedia contributors, ‘Ealhmund of Kent’, Wikipedia, The Free Encyclopedia,10 September 2021, 09:15 UTC, https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Ealhmund_of_Kent&oldid=1043482512 [accessed 17 December 2021] / 該当の記述の出典とされているのは Edwards, Heather (2004). “Ecgberht [Egbert] (d. 839), king of the West Saxons”. Oxford Dictionary of National Biography. Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/8581. )なども指摘されている)。

786年、ウェセックス王家が内紛でキネウルフ(Cynewulf)王が亡くなると、エグバートとウェセックス王族のベオルフトリク(Beorhtric)が王位を争い、オファ王の支援を受けたベオルフトリクがウェセックス王に即位した。789年、ベオルフトリク王はオファの娘エアドブルフを妻に迎えてウェセックス王国がオファ王の宗主権下に入ったことで、エグバートはフランク王国のカール大帝の許へ亡命を余儀なくされた。

エグバート王の覇権確立

エグバート王の版画(1745頃、George Vertue作。アメリカ議会図書館収蔵)

エグバート王の版画(1745頃、George Vertue作。アメリカ議会図書館収蔵) Public domain, via Wikimedia Commons

エグバートがフランク王国の宮廷に滞在したのは789年から792年までの三年ほどであったと言われる。以後10年消息はわからないが雌伏の時代があり、796年、オファ王が亡くなり、続いて802年、ウェセックス王ベオルフトリクも亡くなると、同年、エグバートはカール大帝の支持を背景にブリテン島に戻りウェセックス王として即位した。

エグバートの即位と同じ日、ウスターシャーとグロスターシャーを含むマーシアの勢力下にあるウィッチェ(Hwicce)の太守エゼルムンドがウェセックス王国の領土ウィルトシャーに侵攻してきた。ウィルトシャーの太守ウェオフスタンがこれを迎え撃ち、両軍司令官エゼルムンド、ウェオフスタンともに戦死するという激戦の末、撃退した。

815年、エグバートはコーンウォールを平定。10年後の825年、エグバート王は自ら軍を率いてウィルトシャーに進軍、マーシア王ベオルンウルフ(Beornwulf)王率いるマーシア軍と激戦となりこれを撃破した。マーシア軍は多くの犠牲者を出して大敗している(エレンダンの戦い)。戦勝後すぐにエグバートは長男エゼルウルフ(Æthelwulf)に司教エアルフスタンと太守ウルフヘアルドをつけてマーシア王国の支配下にあるケント王国へ派遣、マーシア王国支配下のベアルドレッド王を破り故国ケントを解放した。この勝利でケントとともにマーシアの支配下にあったエセックス、サリー、サセックスもエグバート王の傘下に入る。さらに同年、マーシア王ベオルンウルフはイースト・アングリア王国の反乱によって殺害され、827年にはベオルンウルフの後を継いでいたマーシア王ルデカ(Ludeca)が殺害されるなどマーシア王国は弱体化していった。

829年、エグバートはマーシア王ウィラフ(Wiglaf)を破ってついにマーシア王国全域を征服した。「アングロ=サクソン年代記」はこのときをもってエグバートを第八のブレトワルダとする(2「アングロ=サクソン年代記」827年の条。この時期、同年代記は年代に混乱があり、正しくは829年。)。さらにエグバートは軍を率いて七王国最北のノーサンブリア王国ダービーシャーのドルへ進軍してノーサンブリアを服従させ、ハンバー川以南を支配下におさめている。

830年、エグバート王は西部を脅かすウェールズ征討に向かうが、その間隙をついて前マーシア王ウィラフが復位を果たした。以後、復活マーシア王国は918年まで存続するがウェセックス王国を凌駕することはできないまま、アルフレッド大王の時代にウェセックス王の宗主権を受け入れていく。

デーン人(ヴァイキング)の侵攻

八世紀末、ブリテン島に最初のデーン人の侵攻があって以来、830年代から本格的なデーン人のブリテン島侵攻が始まり、エグバート王の晩年はデーン人との戦いに忙殺されることになった。

835年、デーン人がケントのシェピー島を侵略、836年、エグバート王はドーセットシャーのチャーマウスに来襲したデーン人の三十五隻の船団を撃破したが、デーン人はその地を後に占領した。838年、デーン人の大船団がコーンウォールに襲来、エグバート王に対戦を求めたため、エグバート王はこれを迎え撃ち、ヒングストンの戦いで彼らを敗走させた。

エグバート王時代、辛うじてデーン人の襲来を押し止めていたが、まだまだこれは始まりにすぎず、エグバート王死後の850年代からデーン人の本格的な侵攻が始まる。

エグバート王の死

839年、エグバート王は亡くなった。在位37年7カ月であったという。ウェセックス王位は彼の長男エゼルウルフが継ぎ、以降、彼の直系が代々アングロ=サクソン王朝として続く。アゼルウルフ王の末子アルフレッド大王からその孫アゼルスタン王にかけての時代に統一王権イングランド王国が誕生する。ところで、エグバートの王妃をレドブルガという女性だとする説もあるが、レドブルガという名は同時代の史料には現れずその名前も後世の創作だと考えられており、王妃については不明である。

エグバート王によってブリテン島のハンバー川以南におけるウェセックス王国の優位が確定し、ウェセックス王権によるイングランド統一への道が切り開かれた。エグバート王の孫アルフレッド大王の時代からウェセックス王権はデーン人との熾烈な戦いの中で統一王権への道を歩み始める。

参考文献

脚注

  • 1
    784年当時、ケントでオファ王が憲章(charter)を施行するなど宗主権を行使した記録がある点からエアルフムンドがケント王を称していただけという説(小田卓爾「固有名詞――略解・索引」(アッサー(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、中公文庫、238頁))や該当の記述があるアングロ・サクソン年代記の箇所に加筆の可能性があるため、後世エグバート王をウェセックス王家に繋げるために創作された人物である可能性(Wikipedia contributors, ‘Ealhmund of Kent’, Wikipedia, The Free Encyclopedia,10 September 2021, 09:15 UTC, https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Ealhmund_of_Kent&oldid=1043482512 [accessed 17 December 2021] / 該当の記述の出典とされているのは Edwards, Heather (2004). “Ecgberht [Egbert] (d. 839), king of the West Saxons”. Oxford Dictionary of National Biography. Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/8581. )なども指摘されている
  • 2
    「アングロ=サクソン年代記」827年の条。この時期、同年代記は年代に混乱があり、正しくは829年。