御猟林法/御猟林憲章(イングランド)

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イングランドを征服したウィリアム1世は国内の森林や狩猟地を王家の直轄地「御猟林(Royal Forest)」(1“Royal Forest”の訳語としては御料林と御猟林があり論文や研究書でも記述が分かれるが、この記事では特に狩猟場としての役割を鑑み、また日本の明治憲法下の皇室財産を指す御料林と区別して御猟林を選択した)として定め、御猟林指定地域での狩猟と樹木の伐採を禁じ、身体刑を含む厳罰を科した。ヘンリ1世によって法制化され、1217年、マグナ・カルタの調印に伴い「御猟林憲章(Forest Law)」という独立した憲章として公布された。以後、1971年に廃止されるまで754年間、英国史上最も長く効力を発揮した法律となった。御猟林はワット・タイラーの乱を始めとする英国史上の様々な農民・市民蜂起やロビン・フッド伝説など英国の社会や文化にも大きな影響を与えることになった。

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御猟林法(Forest Law)

ウィリアム1世征服王がイングランドを征服した後、国内の主な森林や狩猟場を直轄地として「御猟林法(” Forest Law “)」を定め、御猟林指定地域での狩猟と樹木の伐採を禁じ、身体刑を含む厳罰を科した。

アングロ・サクソン年代記はウィリアム1世の「御猟林法」について代表的な悪政の一つとして厳しく非難している。

『彼は、広大な猟獣の保護区を作り、その法律を制定し、雄じかや雌じかを殺した者はすべて、盲目にすべきことを定めた。彼は、雄じかを殺すことを禁じた。いのししとまったく同じように。なぜなら、彼は、雄じかを強く愛したからだ。あたかも、彼がその父親であるかのように。また、うさぎも、自由に行動できるようにと、彼は定めた。富める人々は、それに不満をもらし、貧しい人々は、それを悲しんだ』(2大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、250-251頁

森林は支配者、被支配者ともに非常に重要な資源であり土地である。

キリスト教化されていたとはいえ、ケルト系、アングロ・サクソン系住民問わず森林や樹木、とくにオークは古くからの信仰の対象であり続けていた。また、樹木は建築用材として活用され、食肉として森の小動物たちが狩られ、どんぐりなども栄養源として採集されており、森林とその周辺では豚などの家畜が育てられており、ノルマン征服以前は共有地として存在していた。エルフなど森の妖精たちは人々にとって森が聖地であり同時に異界であったことから生まれてきたのである。

ノルマン人は狩猟地として森林を重視した。アングロ・サクソン人はあまり狩猟が得意ではなく小動物の狩りにとどまり鹿など大型動物の狩りには積極的ではなかったらしい。一方、新たに支配者となったノルマン人は鹿狩りを楽しんだ。ノルマン人にとって森林は狩猟の喜びを満たす場所であると同時に、鹿肉、チーズなどの食料、重要な建築資材の木材、鉄など統治のための資源の供給地でもある。また、森林は戦時には一時的に貴族・王族の避難地となったり、居館を設けて地域統治の拠点となったりと、非常に重視された。

ノルマン朝三代目ヘンリ1世は「イングランド全土の狩猟権」を主張して御猟林法の適用を強化した。ヘンリ1世は内政機構を整備して財務府を開くなどイングランドの統治体制を整えた王だが、その財務府長官だったナイジェルの子でヘンリ2世時代の財務府長官リチャード・フィッツ・ナイジェルが書いた「財務府についての対話」(1170年頃)でヘンリ1世以来の御猟林の範囲について詳述している。

『それが関与するのは、土地の開墾、木材の伐採、御猟林の焼却、狩猟、御猟林内での弓矢の携行、犬を不具にするという悪しき慣習、鹿狩りの補助に駆けつけない者、囲い地の家畜を放牧する者、御猟林内での建築、召喚に応じないこと、御猟林内で犬を連れた者と遭遇すること、皮と肉の調達などである』(3キング、エドマンド(2006)『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会、55頁

ヘンリ1世は各地に常任の裁判官を置くとともに巡回裁判を始めるなど裁判制度の確立につとめた王だったが、彼の治世下で御猟林に関する裁判の記録も見られるようになっている。ヘンリ1世体制を範としたプランタジネット朝初代ヘンリ2世下でも前述の財務府長官リチャード・フィッツ・ナイジェルに見られるようにこの方針は受け継がれ、1184年、御猟林法の成文化が行われた。

十字軍遠征や対フランス戦争にかかりきりだったリチャード1世、フランス王に奪われた大陸領土奪還戦争のため重税を課したジョン王らの治世下で御猟林は拡大され、民政を圧迫した。

御猟林憲章(Charter of the Forest)

ブーヴィーヌの戦い(1214年)での決定的な敗北によってフランス領土の大半を喪失し、戦費や軍役などの負担も限界に来ていたイングランド諸侯が1215年、ジョン王に求めた諸条件がマグナ・カルタである。この要求の中でも多くの割合を占めたのが御猟林に関する条項であった。

1154年以降新たに御猟林化された土地は法の適用除外とすること、御猟林に関する死刑や手足切断などの身体刑の禁止などが求められ、これらはマグナ・カルタの調印に際してより詳細に明記され、1217年11月6日、「御猟林憲章(Charter of the Forest)」という独立した憲章として公布された。

御猟林憲章は1971年に廃止されるまで754年間、英国史上最も長く効力を発揮した法律であり、森林保護に効果を発揮した一方で、政府・王権と民衆との対立を生み続けた法律であった。人口が増え経済が成長すれば木材需要も増えるし、切り拓いて田畑や牧草地を広げたいと思うのは必然である。以後、諸侯と王権とが対立すると諸侯はマグナ・カルタおよび御猟林憲章の再確認と同意を求め、王権がこれを受け入れることを繰り返しつつ、徐々に御猟林に関する刑罰や王権による利権の独占は緩和されるようになった。

また、森林はアウトローの逃げ場所、隠れ家ともなった。法で立ち入りを厳格に禁じられ管理されているがゆえに、法を無視しあるいは法に捨てられた彼らにとっては姿をくらますのに都合がよい。

『もっとも過酷な法の支配するこの異界は、逆説的にもっとも安全なアジールであった。手あつく保護された森は、深く、暗く、隠れ住むのに絶好である。食物としては、これも手あつく保護されて肥えふとった、王のシカたちが身近にいるではないか。』(4川崎寿彦(1987)『森のイングランド―ロビン・フッドからチャタレー夫人まで』平凡社、66頁

このような社会背景から、森のアウトローたちを中世のバラッドは題材とするようになった。ロビン・フッドなどはその代表格である。

「1225年に再公布された版の御猟林憲章( Charter of the Forest)」(大英図書館収蔵)

「1225年に再公布された版の御猟林憲章( Charter of the Forest)」(大英図書館収蔵)Public domain, via Wikimedia Commons

参考書籍

脚注