記事内に広告が含まれています。
スポンサーリンク

従士制

スポンサーリンク
スポンサーリンク

従士制とは何か

「5~6世紀フランク人戦士の武器・防具」 Public domain, via Wikimedia Commons

「5~6世紀フランク人戦士の武器・防具」 Public domain, via Wikimedia Commons

古ゲルマン社会の部族には王制と共和制のものがあり、前者は一名の王が、後者は複数の首長(プリンケプス)が指導的立場に立ち、世襲貴族の下に貴族の子弟や自営農民などからなる自由民、奴隷などの非自由民の諸身分が存在する社会を構成していた。自由民男子は武装を認められて、王・首長や貴族の統率下に入り従士団を形成した。シュルツェによれば従士団は以下のように定義される。

『歴史学でいう従士団とは、主君の統率下にある自由人男子からなる戦士共同体のことである。主君は従士(「家来」Mann)たちを扶養し、武器、馬、装飾品を贈与し、掠奪品の分け前を与え、彼らを保護下においた。従士たちは主君のために戦い、死ぬまで無条件の忠誠を義務づけられていた。従士団への加入は自由意志でおこなわれ、主君の命令に対する誠実関係に基づく服属は、身分の下降をともなうような隷属関係をもたらすものではなく、従士団の規律のひとつであった。平時に主君の屋敷で生活する家来たちは、仲間団体をつくっていた。』(1ハンス・クルト・シュルツェ(1997)『西欧中世史事典―国制と社会組織 (MINERVA西洋史ライブラリー)』ミネルヴァ書房,26頁

このような従士制はゲルマンやケルトなどの部族社会にみられ、部族社会の『経済的、社会的、政治的分化が始まりつつある社会構造に特有なもの』(2シュルツェ(1997)26頁)であるが、その起源については、大土地所有と隷属農民への支配体制から生じたとするもの、国王・貴族の家支配の強化の過程で生じたとするもの、軍事上または祭祀上の男子結社から生じたとするものなど諸説ある。

ゲルマン社会における従士団の成立と変容

ゲルマンの従士制については紀元前一世紀、カエサルが『ガリア戦記』の中でゲルマンの首長が掠奪のための遠征を起こすに際して従士を集めたとの記録があり、当時、『従士団とは自由意志に基づく期限付きの目的団体』(3シュルツェ(1997)28頁)であった。

続いてタキトゥスは『ゲルマーニア』で従士団について詳述している。身分によっては若い少年であっても従士団を編成する権限が与えられ、従士たちの間には首長の判断で階級が設けられて、首長の下で従士の首座をめぐって争いがおこることもある。選出された従士団の数や強さが首長の権威となるという。(4タキトゥス『ゲルマーニア』13章)また、戦場では首長も従士も互いにひけを取ることを良しとせず、より大きな勇気を示さなければならない。首長が戦死したら退却するなどは生涯の恥辱である。もし部族が平和であれば従士たちは進んで戦争を行っている他の部族・地域へ出かけていく。一方、首長は戦利品や掠奪品を従士たちに報酬として与えることで寛大さを示し、従士たちもそれを期待している。戦場で戦って奪い取ることに最上の価値を置いていた。(5タキトゥス『ゲルマーニア』14章

『もしおのれの生まれた邦国が、永い平和と無為とのために英気を喪失している場合、高い身分の若者の大部分は、みずから進んで、あたかもその時にあたって、なんらかの戦争を行っている部族を求めて出かける。功名は危機の間に立てやすく、多数の扈従は力と戦いによらずしては、これを保養しえないからである。』(6タキトゥス著/泉井久之助 訳註(1979)『ゲルマーニア (岩波文庫 青 408-1)』岩波書店,76頁

『人あって、もし彼らに地を耕し、年々の収穫を期待することを説くなら、これ却って、敵に挑んで、負傷を蒙ることを勧めるほど容易でないことを、ただちに悟るであろう。まことに、血をもって贖いえるものを、あえて額に汗して獲得するのは懶惰であり、無能であるとさえ、彼らは考えているのである。』(7タキトゥス/泉井久之助 (1979)77頁

タキトゥスが描いた一世紀頃になると、カエサルが描いたころのような緩さは消えてこのように精悍な戦士集団へと変貌している。『自由身分のゲルマン人であれば誰でも、戦士としての名声が大きく広まると、従士を集めることができた』(8タキトゥス/泉井久之助(1979)30頁)と考えられているが、多くは貴族や指導者層出身者の下に編成されていた。ただし、ゲルマン人の軍制の主力は従士団ではなく自由民男子全員に対する兵役義務によって構成されている。

民族移動期(四~六世紀)になるとゲルマン諸部族の間で従士団の比重が高まっていったと考えられ、多くの部族内に従士団の存在が確認できるようになる。四世紀のアレマン族をはじめ、西ゴート族、ランゴバルド族、フランク族などに従士制が存在していた。また、北欧では中世盛期でも従士団の存在が確認できるほか、八世紀以降に登場するノルマン人(ヴァイキング)も従士団を持っていた。ニーベルンゲン伝説、アングロ=サクソンの叙事詩ベーオウルフや北方ゲルマンのサガなどにも従士団は登場する。

フランク王国の従士制の盛衰

フランク王国において従士団は「国王直臣団」として定められ、加入に際しては臣従礼が行われ、その成員は自由民のフランク人で、国王の保護下で裁判特権や死亡時通常の三倍の賠償金の支払いを受ける権利など特別な地位におかれていた。メロヴィング朝時代を通して、従士団を設ける権利は諸部族にはなく王家が独占していたという。

『われに完全なる忠誠を誓う者は、わが助力により守られるべきである。神の好意によって、わが家臣某が宮廷へ武器を携えて参向し、わが手のなかで臣服と忠誠を誓った。よって、今後、上記の某は国王直臣の一員に数えられることをこの命令によって決定し、命ずる。もし、誰かがこの者を殺害しようとするならば、その償いとして六〇〇ソリドゥスの人命金を支払わなければならないことを知るべし。』(9シュルツェ(1997)34頁より、フランク王国の「国王直臣の臣従礼書式」)

フランク王国の従士団はメロヴィング朝時代に全盛期を迎えた後、カロリング朝時代には封土を通じた臣従契約が一般的になったことでほぼ消滅することになった。歴史的にはカロリング朝時代の九~十世紀にゲルマン由来の主君と家臣の双務的誠実義務に基づく人的関係である従士制とローマ由来の主君が家臣に土地を授与する物権的関係である恩貸地制が結びつくことでレーン制が始まり、十一~十二世紀の中世欧州封建制度の成立へとつながることになる。

参考文献

脚注

  • 1
    ハンス・クルト・シュルツェ(1997)『西欧中世史事典―国制と社会組織 (MINERVA西洋史ライブラリー)』ミネルヴァ書房,26頁
  • 2
    シュルツェ(1997)26頁
  • 3
    シュルツェ(1997)28頁
  • 4
    タキトゥス『ゲルマーニア』13章
  • 5
    タキトゥス『ゲルマーニア』14章
  • 6
    タキトゥス著/泉井久之助 訳註(1979)『ゲルマーニア (岩波文庫 青 408-1)』岩波書店,76頁
  • 7
    タキトゥス/泉井久之助 (1979)77頁
  • 8
    タキトゥス/泉井久之助(1979)30頁
  • 9
    シュルツェ(1997)34頁より、フランク王国の「国王直臣の臣従礼書式」