グナエウス・ユリウス・アグリコラ

グナエウス・ユリウス・アグリコラ(Gnaeus Julius Agricola,40年6月13日生-93年8月23日没)はローマ帝国の軍人・政治家。ローマ属州ブリタンニア総督としてウェールズ、イングランド北部、スコットランド南部を征服しブリテン島におけるローマ帝国の支配領域を最大化した。義理の息子で歴史家のタキトゥスが著した彼の伝記「アグリコラ」によってその事績が広く知られている。

出生

フランス・フレジュス市のアグリコラ像

フランス・フレジュス市のアグリコラ像
Credit: photography by Christophe.Finot, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons.

グナエウス・ユリウス・アグリコラは西暦40年6月13日(1國原訳218頁には1月13日とあるが、原文を確認する限りでは6月の間違いと思われる。英語版“Agricola was born on the 13th of June”、ラテン語版)、フランス南部のローマ帝国属州ガリア・ナルボネンシスの植民市フォルム・ユリイ(現在のフレジュス)に生まれた。父ルキウス・ユリウス・グラエキヌスは元老院議員、母は名をユリア・プロキッラと言い「世に稀なほど貞淑な女性」(2Tacitus, Agricola 4(タキトゥス(1996)『ゲルマニア アグリコラ』筑摩書房、ちくま学芸文庫、121頁))であった。

父はカリグラ帝の怒りを買いアグリコラが生まれて間もなく亡くなった。少年時代、アグリコラは哲学への情熱を強く持って育ち、「母の思慮深い意見によって鎮められでもしなかったら」(3Tacitus, Agricola 4.タキトゥス(1996)122頁)哲学に耽溺していただろうという。青年時代、マッシリア(現在のマルセイユ)で勉学に励んだ。

初期の経歴

アグリコラは成人して属州ブリタンニア総督スエトニウス・パウリヌス(在任58-62年)の下、幕僚の一人である軍団副官(トリブヌス・ミリトゥム)として軍歴を始めた。61年に起きたイケニ族の女王ボウディッカ率いるブリトン人反乱の鎮圧に従事したとみられる。「これによって若きアグリコラも、軍事上の技術と体験と刺戟を得た」(4Tacitus, Agricola 5.タキトゥス(1996)126頁)。

62年、ローマに戻り名家の子女ドミティア・デキティアナと結婚。63年に男子が、64年に娘ユリア・アグリコラが誕生するが息子はほどなくして早逝した。他に次男も誕生しているが生年不明。64年、財務官に任じられて属州アシア総督サルティウス・ティティアヌスに仕えた。その後、護民官、法務官を歴任した。

68年、四人の皇帝が相次いで即位(四皇帝の年)して帝国が乱れるとガルバに重用されて神殿財産の調査を行う職に就いて徹底した調査と追及を行って不正をただした(5Tacitus, Agricola 6.タキトゥス(1996)131頁)。しかし内乱が激しくなった69年、アグリコラの所領がオトーの艦隊に襲撃されて母のユリア・プロキッラが亡くなり、その葬儀に向かう途上でウェスパシアヌスの挙兵を聞き、彼の指揮下に入った。ウェスパシアヌス帝の腹心であるガイウス・リキニウス・ムキアヌスの下で志願兵徴募の任務を遂行する。

70年、属州ブリタンニア駐留軍団の一つ第二十軍団ウァレリア・ウィクトリクスの軍団長に任じられてブリテン島へ赴任した。同軍団はかつてウェスパシアヌス帝と争ったウィテッリウス帝派で反乱の噂も取りざたされていた。アグリコラは就任後から軍団の統率に手腕を発揮し、新たに属州ブリタンニア総督となったペティリウス・ケリアリス総督とも協力関係を築いて名声を高めた。

73年、第二十軍団長の任期を終えてローマに戻り、ウェスパシアヌス帝によって貴族に列せられるとともに、新たに属州アクイタニア総督(在任74-77年頃)に抜擢された。総督として公平な統治で人気になったとタキトゥスは言う。三年に満たず総督職の任期を終えてローマに戻り77年頃、執政官に就任した。この年に娘ユリアとタキトゥスが結婚している。執政官職の期間は短く、77年か78年、属州ブリタンニア総督に任じられることになった。

属州ブリタンニア総督

任期前半の軍事行動

アグリコラは総督赴任直後から軍事行動を積極的に展開した。手始めに、70年代以降ローマの支配に抵抗していたウェールズ北部のオルドウィケス族へ攻勢をかけ、モナ島(現在のアングルシー島)のオルドウィケス族最後の砦を占領、服従させた。

79年夏、アグリコラは軍を率いてスコットランド中部まで北上、タウス入江(現在のテイ川)まで到達した。81年、タキトゥスによればアグリコラは海路で「その当時まで知られていなかった部族」(6Tacitus, Agricola 24.タキトゥス(1996)179頁)を征服したという。具体的な名前は明らかにされていないが、クライド湾沿岸からスコットランド南西部近辺ではないかと考えられている(7ロジャーズ、ナイジェル(2013)『ローマ帝国大図鑑』ガイアブックス47頁、タキトゥス(1996)180頁)。

同81年、アグリコラはヒベルニア(アイルランド)対岸に侵攻の意図をもって軍勢を配置した。このとき反逆されてアイルランドから亡命してきた王の一人を受け入れたという。タキトゥスによれば「友情の仮面をよそおいつつ、機会がくるまで王をひきとめておいた」(8Tacitus, Agricola 24.タキトゥス(1996)179頁)と、アグリコラがこの王の支援をアイルランド侵攻の大義名分としようとしていたが、軍勢の不足から遠征は実施されなかったとみられている。タキトゥスはアグリコラから「一個軍団と、その他に若干の援軍がいたら、ヒベルニアを攻略して保持できたろう」との話を聞いたと書き記している(9Tacitus, Agricola 24.タキトゥス(1996)180頁)。

カレドニア遠征

アグリコラのブリテン島北部遠征地図

アグリコラのブリテン島北部遠征地図
Credit: CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commonsmyself, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

82年、アグリコラは軍勢を率いてスコットランドへ北進しクロタ湾(クライド湾)とボドトリア湾(フォース湾)の間まで支配を拡大した。タキトゥスによればこの遠征で「艦隊を採用して自分の戦力の一部としたのは、ブリタンニアの総督の中でアグリコラが初めてである」(10Tacitus, Agricola 25.タキトゥス(1996)181頁)という。遠征軍に対して現地のカレドニアの住民が相次いで蜂起したため、兵力が少ない第九軍団ヒスパナが夜襲を受けて包囲殲滅の危機に陥ったときはアグリコラが急ぎ援軍を送って危機を脱するなど、数に劣る遠征軍は苦戦した。

83年または84年夏、アグリコラは艦隊を率いてフォース湾に入り軍を北上させた。対するカレドニア人諸部族は連合してカルガクスという人物を指導者とし、グラウピウス山(11現在の場所は不明。名前がよく似たグランピアン山脈のどこかと考えられているが諸説ある)でローマ軍を迎え撃った(モンス・グラウピウスの戦い)。戦いに際して味方を鼓舞するカルガクスの演説はタキトゥスの創作だとみられるが、後世様々な文献や演説で繰り返し引用される以下の一節がよく知られている。

「全人類の中でやつらだけが、世界の財貨を求めると同じ熱情でもって、世界の窮乏を欲している。彼らは破壊と、殺戮と、掠奪を、偽って『支配』と呼び、荒涼たる世界を作りあげたとき、それをごまかして『平和』と名づける。」(12Tacitus, Agricola 30.タキトゥス(1996)190頁

タキトゥスによればアグリコラは中央に歩兵8000、両翼に騎兵3000を平地に展開させ、高地に陣取る数的優勢のカレドニア軍に対峙した(13Tacitus, Agricola 35.タキトゥス(1996)200頁)。戦況はカレドニア軍の優勢で展開したが次第にローマ軍の敗色が濃厚となり戦線が崩壊しはじめる(14Tacitus, Agricola 36.タキトゥス(1996)201-202頁)。高地で戦況を見守っていたカレドニア軍主力が戦いを決しようと山を下りてローマ軍の背面に攻勢をかけると、アグリコラは予備兵力の四個中隊を迎撃にあててこれを撃退、さらに部隊を敵側面から後方へと移動させて大きな損害を与えた。続いてローマ軍は強固な戦列を形成して反撃にでたことで戦況は逆転し、カレドニア軍は敗走した(15Tacitus, Agricola 37.タキトゥス(1996)203-204頁)。死者はカレドニア軍一万、ローマ軍三六〇名であったという(16Tacitus, Agricola 37.タキトゥス(1996)205頁)。

戦線を拡大するには十分な兵力が無かったため逃亡したカレドニア人たちの追撃は行えず、諸部族から人質をとることに留めてフォース=クライド湾のラインまで撤退した。一連の遠征の過程でアグリコラはイングランド北部からスコットランド南西部にかけての占領地に多くの砦を築き、軍用道路を敷くなど軍事インフラの整備を行った。彼の命で築かれたとみられるステインゲイト街道はのちに街道に沿ってハドリアヌスの長城が築かれる重要なルートとなっている。

総督退任

84年または85年、ドミティアヌス帝によってアグリコラは総督の任を解かれローマへ帰国した。七年または八年という任期は他の歴代ブリタンニア総督が三年程度で交代していた点と比較して異例の長さであった(17南川高志(2015)『海のかなたのローマ帝国 古代ローマとブリテン島 増補新版』岩波書店、世界歴史選書109-110頁)。

ブリタンニア総督としてのアグリコラの功績はスコットランドまで支配地域を拡大したという軍事的功績だけではなく、砦や道路を各地に作り、神殿を建て市場を開き、先住民を都市に移住させるなどブリテン島における社会インフラの整備に着手した最初期の為政者だった。ローマ属州ブリタンニアにおける本格的な社会資本の整備と都市(キウィタス)化の進展は二世紀に入ってからのことだが、その端緒となった政策を始めた人物とみられている。

晩年

タキトゥスはアグリコラがドミティアヌス帝によって総督職を解かれてローマに呼び戻されたのはアグリコラの功績の大きさによって自身がなしたゲルマニアでの軍事的成功が小さく見えることを危惧したためだという(18Tacitus, Agricola 39.タキトゥス(1996)207頁)が、このドミティアヌス帝の心情についてなんらか裏付けがあるわけではない。

アグリコラは凱旋将軍顕章と凱旋将軍像の建立の名誉が与えられたが、公職に就くことはなく、91年に属州アシア総督への就任が提示されたがこれを固辞し、93年8月23日に亡くなった。タキトゥスによれば、毒殺の噂もあったが確証無いとして明言を避けている(19Tacitus, Agricola 42.タキトゥス(1996)216頁)。

関連記事

参考文献

脚注

  • 1
    國原訳218頁には1月13日とあるが、原文を確認する限りでは6月の間違いと思われる。英語版“Agricola was born on the 13th of June”、ラテン語版
  • 2
    Tacitus, Agricola 4(タキトゥス(1996)『ゲルマニア アグリコラ』筑摩書房、ちくま学芸文庫、121頁)
  • 3
    Tacitus, Agricola 4.タキトゥス(1996)122頁
  • 4
    Tacitus, Agricola 5.タキトゥス(1996)126頁
  • 5
    Tacitus, Agricola 6.タキトゥス(1996)131頁
  • 6
    Tacitus, Agricola 24.タキトゥス(1996)179頁
  • 7
    ロジャーズ、ナイジェル(2013)『ローマ帝国大図鑑』ガイアブックス47頁、タキトゥス(1996)180頁
  • 8
    Tacitus, Agricola 24.タキトゥス(1996)179頁
  • 9
    Tacitus, Agricola 24.タキトゥス(1996)180頁
  • 10
    Tacitus, Agricola 25.タキトゥス(1996)181頁
  • 11
    現在の場所は不明。名前がよく似たグランピアン山脈のどこかと考えられているが諸説ある
  • 12
    Tacitus, Agricola 30.タキトゥス(1996)190頁
  • 13
    Tacitus, Agricola 35.タキトゥス(1996)200頁
  • 14
    Tacitus, Agricola 36.タキトゥス(1996)201-202頁
  • 15
    Tacitus, Agricola 37.タキトゥス(1996)203-204頁
  • 16
    Tacitus, Agricola 37.タキトゥス(1996)205頁
  • 17
    南川高志(2015)『海のかなたのローマ帝国 古代ローマとブリテン島 増補新版』岩波書店、世界歴史選書109-110頁
  • 18
    Tacitus, Agricola 39.タキトゥス(1996)207頁
  • 19
    Tacitus, Agricola 42.タキトゥス(1996)216頁
Kousyou

「Call of History - 歴史の呼び声 -」主宰者。世界史全般、主に中世英仏関係史や近世の欧州・日本の社会史に興味があります。

Kousyouをフォローする
ヨーロッパ史
スポンサーリンク
History Encyclopedia-オンライン世界史事典-
タイトルとURLをコピーしました