ゴドウィン(ウェセックス伯)

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ウェセックス伯ゴドウィン(” Godwin, Earl of Wessex”、生年不明-1053年4月15日没)はクヌート大王によってウェセックス伯(在位:1020-53)に抜擢され、クヌート、ハロルド1世、ハーザクヌート、エドワード証聖王の四代のイングランド王の下で権勢を誇った新興の有力貴族。エドワード証聖王の妃エディス、イングランド王ハロルド2世の父。

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ゴドウィン家の起源

ゴドウィンが史料に初めて登場するのは1014年、イングランド王エゼルレッド2世の長男アゼルスタン・アシリングの遺言書でエゼルレッド2世の領地であったコンプトンを譲渡するとした記述である。ここでゴドウィンはウルフノースの子ゴドウィンとされている(1鶴島博和(2015)『バイユーの綴織(タペストリ)を読む―中世のイングランドと環海峡世界』山川出版社、215頁、279-280頁)。

ゴドウィンの父ウルフノースは「アングロ・サクソン年代記」の1009年の条に登場するウェセックス地方の領主(セイン)ウルフノース・チャイルド(2” Wulfnoth Cild”小ウルヴノスとも)と同一人物であるとみられる。「アングロ・サクソン年代記」によれば、1009年、イングランド王エゼルレッド2世はデーン人の襲来に備えてサンドウィッチ沖に船団を配備するよう命じたが、このときマーシアのエアルドールマンであるエアドリク・ストレオナの兄弟ブリフトリクとウルフノースが何らかの理由で対立、ブリフトリクがエゼルレッド2世王に訴え出たため、ウルフノースが20隻の船団を率いて脱出、追撃してきたブリフトリクの80隻の大船団が嵐に遭って損害を受けた上にウルフノース船団の焼き討ちにあって壊滅、この報を受けた国王エゼルレッド2世も船団を解散しロンドンへ逃げ帰るという事件があった(3大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、159-160頁/鶴島博和(2015)215頁)。ウルフノースはサセックスを地盤とする海事に長けた勢力の長であったと考えられ(4鶴島博和(2015)215頁)、ゴドウィンもこれを引き継いでサセックス沿岸に強い海上権力を保持していた。

ゴドウィンの台頭

「1045年頃のイングランドの諸侯地図」

「1045年頃のイングランドの諸侯地図」( FREEMAN, Edward Augustus.(1877) . “The History of the Norman Conquest of England, its causes and its results. ” British Library HMNTS 9501.b.18.” )
Credit: The British Library, No restrictions, via Wikimedia Commons

父スヴェン王死後イングランド征服戦争を継続したクヌートは、1016年イングランド王に即位し、1018年にデンマーク王、1028年にノルウェー王を兼ねてスカンディナヴィア半島からブリテン諸島に至る海上帝国「北海帝国」を樹立した。クヌート王はイングランドをノーサンブリア、マーシア、イースト・アングリア、ウェセックスの四つの伯領に分けそれぞれに有力貴族を伯に任じて統治させたが、この一つウェセックス伯に抜擢されたのがゴドウィンであった。

ゴドウィンの台頭過程はよくわかっていないが、伯として登場する1018年の記録があり(5「クヌート王が王妃エマの要請でサセックスにある大司教エルフスタンに譲渡したとき」(鶴島博和(2015)215頁)の記録)、この当時の支配領域はサセックスを超えるものではなかったとみられる(6鶴島博和(2015)215頁)。1019年、クヌート王の義兄弟ウルフ・ソリグリソン(7“Ulf Thorgilsson”ヤールのウルフ(”Ulf Jarl”ウルフ伯)とも呼ばれる)の姉妹と結婚してクヌート王の縁戚となり、1019年から23年にかけてのクヌート王のデンマーク遠征に随行して軍功をあげ、1020年、ウェセックス全土を支配下に収めて名実ともにウェセックス伯となった。

クヌート王死後、息子のハロルド1世がイングランド王に即位したが、1036年、ノルマンディー公国へ亡命していた前王エゼルレッド2世の子アルフレッド・アシリングがエゼルレッド2世死後クヌートの妃となっていた母エマに会うためにイングランドへ渡ってきたが、ゴドウィンは彼を捕らえると失明させてハロルド1世に引き渡し、ほどなくして亡くなった。

クヌート王時代にゴドウィンの勢力はケントにまで伸び、ハロルド1世時代には海上交易の拠点であるドーヴァーへの支配を強化している。1038年、ドーヴァーから徴収される税の三分の二が王へ、残り三分の一がゴドウィンへ貢納されている(8鶴島博和(2015)215頁)。ハロルド1世が亡くなるとハーザクヌートの即位を支援し、ハーザクヌート死後の1042年、エドワード証聖王の即位を支持して、1045年には娘エディスをエドワード証聖王の妃としイングランドにおける諸侯の第一人者としての地位を確立した。

エドワード証聖王初期の治世はノルマンディー時代からの家臣団に支えられつつ、ウェセックス伯ゴドウィン、ノーサンブリア伯シワード、マーシア伯レオフリックの三大貴族の均衡の上に成り立っていたが、1043年、ゴドウィンの長男スウェイン・ゴドウィンソンがヘレフォード伯に、次男ハロルド・ゴドウィンソンがイースト・アングリア伯に叙されるなどゴドウィン家の力が増して政権内のパワーバランスはゴドウィン家に大きく傾き、エドワード証聖王を支えるノルマン系家臣団との対立が先鋭化していった。

1051年の政変

1050年10月29日、カンタベリー大司教エアドシージが亡くなると、エドワード証聖王はゴドウィンの近親者エセルリックの就任を拒否してロンドン司教ロバートを任命、両者の対立が表面化した。

1051年9月、エドワード証聖王の義弟ブーローニュ伯ユースタス2世が王との会談のためにイングランドを訪れドーヴァーに滞在した際、現地住民とトラブルとなりブーローニュ伯の家臣が殺害される事件が起きた。報告を受けたエドワード証聖王はゴドウィンに対しドーヴァーの鎮定を命じるとともに軍を招集、ノーサンブリア伯シワード、マーシア伯レオフリック伯の二大貴族も王の下に参集してゴドウィンと一触即発の危機に陥った。続いてエドワード証聖王はゴドウィンの長子スウェインの追放を宣言し、ゴドウィンとハロルド親子の出頭を命じる。形勢不利と見たゴドウィン家一門はイングランドからの逃亡を余儀なくされ、ひとまずゴドウィン一門排除のクーデターが成功した。

ゴドウィン一門の追放後、エドワード証聖王はゴドウィンの娘である王妃エディスをウィルトン女子修道院に幽閉、亡命時代からのノルマンディー出身貴族を多く登用して王権を強化したが、1052年3月、エドワード証聖王の強力な後ろ盾であった母后エマが亡くなると、ゴドウィン派の巻き返しが始まる。

1052年9月、フランドルから密かにイングランドへ上陸したゴドウィンと、アイルランドから船団を編成してきたハロルドが合流して、イングランド南岸の旧ゴドウィン支配下の諸都市を次々と攻略してまわり、ロンドンへと向かう。一方、ゴドウィンを捕捉するべくエドワード証聖王も船団を編成して捜索を命じるが一向に見つけることができないまま、9月14日、ゴドウィン船団はロンドンに姿を現し、テムズ河北岸に軍を展開して戦闘態勢をとった。結局エドワード証聖王とゴドウィンとの和解が成立してゴドウィン一門は復権、一方で、エドワード証聖王支持派の多くは失脚・国外への逃亡を余儀なくされた。

「ゴドウィン伯と子供たちのエドワード王宮廷への帰還」

「ゴドウィン伯と子供たちのエドワード王宮廷への帰還」(十三世紀、ケンブリッジ大学収蔵”The Return of Earl Godwine and his sons to the court of Edward the Confessor, from a 13th-century MS, Cambridge University MS EE.3.59.”)
Credit: AnonymousUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

ゴドウィンの死

政変後、ゴドウィンとエドワード証聖王との関係は良好で協調体制が築かれ安定した政治が始まった(9ジョン・ギリンガムによると「その後のエドワード治世期における政治的な対立軸は、イングランド人とノルマン人との間ではなく、ゴドウィンとレオフリックの家門の間にあった」(ギリンガム、ジョン(2015)「第七章 ブリテン、アイルランド、大陸」(デイヴィス、ウェンディ(2015)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(3) ヴァイキングからノルマン人へ』慶應義塾大学出版会、283頁))という)が、1053年4月15日、ウィンチェスターでエドワード証聖王との会食中ゴドウィンが急死した。「アングロ・サクソン年代記」はそのときの様子を以下のように記している。

「この年の復活祭の日に、王はウィンチェスターにいた。そして、王とともに、太守ゴッドウィン、その息子ハロルドおよびトスティがいた。復活祭二日目の日に、ゴッドウィンは、王とともに食事のテーブルにすわっている時、突然、口も体もきかなくなって、足載せ台のところに倒れた。彼は、すぐ王の部屋に運び込まれた。これで終わりかと思われたが、事実はそうでなかった。しかし、彼はしゃべることもできず、身体の自由を失ったまま、木曜日までこのような状態を続けた後、ついに生命が絶えた。彼はそこの旧修道院に眠っている。」(10大沢一雄(2012)205-206頁)

前年、長男スウェインがエルサレム巡礼からの帰路で亡くなっており、次男ハロルドがゴドウィン家の権力を継承してエドワード証聖王体制を支えた。エドワード証聖王死後の1066年、ハロルド・ゴドウィンソンはイングランド王ハロルド2世として即位し、この継承を不服とするノルマンディー公ギヨーム2世らの挑戦を受けて、ヘースティングズの戦いで敗北、アングロ・サクソン人の王朝に代わってノルマン人の征服王朝が開かれることになる。

参考文献

脚注

  • 1
    鶴島博和(2015)『バイユーの綴織(タペストリ)を読む―中世のイングランドと環海峡世界』山川出版社、215頁、279-280頁
  • 2
    ” Wulfnoth Cild”小ウルヴノスとも
  • 3
    大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、159-160頁/鶴島博和(2015)215頁
  • 4
    鶴島博和(2015)215頁
  • 5
    「クヌート王が王妃エマの要請でサセックスにある大司教エルフスタンに譲渡したとき」(鶴島博和(2015)215頁)の記録
  • 6
    鶴島博和(2015)215頁
  • 7
    “Ulf Thorgilsson”ヤールのウルフ(”Ulf Jarl”ウルフ伯)とも呼ばれる
  • 8
    鶴島博和(2015)215頁
  • 9
    ジョン・ギリンガムによると「その後のエドワード治世期における政治的な対立軸は、イングランド人とノルマン人との間ではなく、ゴドウィンとレオフリックの家門の間にあった」(ギリンガム、ジョン(2015)「第七章 ブリテン、アイルランド、大陸」(デイヴィス、ウェンディ(2015)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(3) ヴァイキングからノルマン人へ』慶應義塾大学出版会、283頁))という
  • 10
    大沢一雄(2012)205-206頁)