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ハンムラビ王

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ハンムラビ王(前1792年~1750年)はバビロン第一王朝六代目の王。ウル第3王朝以来約250年ぶりにメソポタミアを統一して、『ハンムラビ「法典」』の編纂や大規模な運河開削・灌漑事業の実施など古バビロニア王国の草創者となった。

「ハンムラビ法典」(ルーヴル美術館所蔵)

「ハンムラビ法典」(ルーヴル美術館所蔵)
ルーヴル美術館 [CC BY 3.0 ]
上部左がハンムラビ王。右がシャマシュ神

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「ウル第三王朝」滅亡後のメソポタミア

メソポタミアでは紀元前三千年頃からシュメール人都市国家が群雄割拠した「初期王朝時代」、アッカド人による統一王朝「アッカド王朝時代」、シュメール人の統一王朝「ウル第三王朝時代」と都市文明が栄えたが、「ウル第三王朝」は紀元前2004年、異民族エラムの侵攻によって滅亡した。

イシン・ラルサ時代

ウル第三王朝の後継となったのがイシン王朝である。イシン王朝はウル第三王朝最後の王イッビ・シンに仕えたマリ人の将軍イシュビ・エッラがウル第3王朝末期に独立して建てた王朝で、ウル第3王朝を滅ぼしたエラムを撃退したことで信望を集め、以後安定した王朝を築いた。

ウル第三王朝末期、多くの異民族がメソポタミアに侵攻したがその中のひとつセム系アムル人が建てた王朝がラルサ王朝である。「ラルサ王朝表」には初代の王としてナプラヌムという名が挙げられるが、ウル第3王朝時代に建国されたことになり、これは疑問が呈されている1中田一郎,2014年,10頁。ラルサ王家の祖とみられているのは三代目の王とされるサミウム王で、最初に碑文史料を残したサミウムの子ザバヤがラルサに支配権を確立、初めてラルサ王を名乗ったのは五代目のグングヌム王である2前田徹,2017年,272-273頁

このイシン王朝とラルサ王朝がメソポタミア南部の覇権を争った時代をイシン・ラルサ時代と呼んだ。両王朝の抗争は前1794年、ラルサ王リム・シン(在位:前1822~1763)がイシン王朝を滅ぼしたことで終わりを告げた。

エシュヌンナ王国

両王朝に対してエシュヌンナを首都としてティグリス川の支流ディヤラ川の扇状地一帯に勢力を誇ったのがエシュヌンナ王国である。初代ヌール・アフムはアムル人の長としてイシン王イシュビ・エッラのエラム討伐に協力して功があり、エシュヌンナの支配権を与えられた。

前1850年頃に即位したイビク・アダド2世とその子ナラム・シン王(前1810年頃?)の時代に勢力を拡大したが、その死後、後を継いだダドゥシャ王(在位:?~前1779年)はラルサ王リム・シンの侵攻を受けて多くの領土を失い、アッシリア王シャムシ・アダド1世と同盟を結んで対抗していた。

古アッシリア王国の台頭とマリ王国

メソポタミア北部では、ティグリス川中流の都市アッシュルを首都とした古アッシリア王国(上メソポタミア王国)が台頭していた。アッシュルは前2000年ごろに興り、ウル第三王朝に従属していたが、その滅亡後に独立。アムル人の諸族出身のシャムシ・アダド1世(在位:前1813年~1781年/1776年3シャムシ・アダド1世の在位期間の最終年については主に前1781年とする説と前1776年とする説がある。また中田一郎,2014年は前1775年としている。)の治世下で大きく勢力を拡大し、マリ王国やバビロン第一王朝を従属させてメソポタミア北部をその支配下とする強国となっていた。

シャムシ・アダド1世は長子イシュメ・ダガンに領土の東部エカラトゥムとその周辺を統治させ、次子ヤスマハ・アッドゥに領土の西部にあたるマリ王国を与え、自身はシュバト・エンリルにあってその上に君臨していた。

マリ王国も同じくユーフラテス川中流域の都市マリを中心としたアムル系の王国で、ウル第3王朝滅亡後に独立し、近隣遊牧民を支配下において勢力を伸ばしたが、王家の内紛に乗じてシャムシ・アダド1世の介入を許し、以後アッシリアに従属を余儀なくされた。シャムシ・アダド1世在位中はその王子ヤスマハ・アッドゥ(在位:前1785年~1775年)の統治を受け入れ、その死後先王の子ジムリ・リム(在位:前1775~62年)が王位についた。

ハンムラビ王即位時のメソポタミアはイシン王朝を滅ぼしたリム・シン王のラルサ王朝が南部で勢力を拡大し、シャムシ・アダド1世王の古アッシリア王国がマリ王国やバビロン第一王朝を従属させて北部を支配下とし、両大国に次ぐエシュヌンナ王国が両国の間で勢力回復を目指す、という情勢であった。

「ハンムラビ時代のメソポタミア」

「ハンムラビ時代のメソポタミア」
中田一郎(1999)『古代オリエント資料集成 原典訳 ハンムラビ「法典」』より転載

ハンムラビ王の治世

ハンムラビ王の治世は三期に分けられる4中田一郎,1999年,157-158頁
第一期:前1792年~1776年
第二期:前1775年~1763年
第三期:前1763年~1750年
最初の十七年はアッシリア王シャムシ・アダド1世の従属下にあり、シャムシ・アダド1世死後アッシリアの勢力が衰えると自立して第二期の12年で支配領域内の内政に注力、エラムの侵攻を退けて諸国の中で地位を向上させた。前1763年から攻勢に転じてまずはラルサ王朝、続いてエシュヌンナ王国、最後にマリ王国を滅ぼしてメソポタミアの統一を果たした。

即位から古アッシリア王国の崩壊まで

バビロン第一王朝は前1900年頃、アムル人のスム・アブムがバビロンに創始したと伝わる王朝で、ウル第3王朝の滅亡とともに独立、ハンムラビはその六代目の王にあたる。前1792年にハンムラビが即位した時のバビロンはキシュやシッバルなどの都市を勢力下においていたものの、その支配領域はバビロン周辺に留まる小国で、古アッシリア王シャムシ・アダド1世に従属していた。

シャムシ・アダド1世が亡くなるとその支配下にあった諸勢力が一気に独立の動きを見せはじめ、シャムシ・アダド1世を継いだイシュメ・ダガン1世(在位:1781年/1776年~?)はそれを抑えきれず、ヤムハド王国へ亡命中のマリ王国の前王の子ジムリ・リムが王位に復帰して西部領土を喪失、古アッシリアは東部をわずかに残すまでに縮小してしまう。

このときハンムラビ王もアッシリアへの従属から解放されて独立した。

メソポタミア覇権争奪戦争

北方の大国アッシリアの崩壊によってまず動いたのがエシュヌンナ王国である。ダドゥシャ王の後を継いでいたイバル・ピ・エル2世(在位:前1779~65年)は前1772年、ユーフラテス中流域へ侵攻すると、マリ王ジムリ・リムとハンムラビ王は同盟を結んでこれに対抗し、エシュヌンナ軍は撤退した。以後、バビロニア、ラルサ、エシュヌンナ、カトナ、ヤムハド、マリの六王国による勢力均衡状況となった。

前1765年、イラン高原の大国エラム王国による突然のエシュヌンナ侵攻でその均衡は破られた。エラムは諸国へエシュヌンナ侵攻を呼びかけ、バビロン王ハンムラビやマリ王ジムリ・リムらが参加、同年エシュヌンナ王国は滅亡した。この戦いでハンムラビはマンスキム、ウビの二都市を獲得するが、エシュヌンナを併合したエラムはハンムラビに対しこの返還を要求し、諸国へハンムラビ王征討を呼びかけバビロンへと軍を進める。

絶体絶命の危機にハンムラビ王は国内に総動員を命じた上で、マリ王ジムリ・リムとラルサ王リム・シンへ同盟を求めた。ラルサ王リム・シンは様子見を決め込んで動かなかったが、エラムの脅威を感じたマリ王ジムリ・リムはこれに応えて軍を動かし、ヤムハド王とも同盟を結んで連合軍形成を主導した。このとき、ジムリ・リム軍はエラム本隊から包囲を受けているバビロンではなく、エラム別動隊が侵攻してきた親マリ王国の都市ラザマの救援に向かう。この行動にハンムラビ王は不信を覚えたようだが、これが最大の成果へと結びつく。

ラザマを攻撃していたエラム軍の指揮官アタムルムは、元はアラハドという小国の王でエシュヌンナに亡命していたがエラムの侵攻の際、エシュヌンナ王国を裏切ってエラムについた人物である。エシュヌンナ滅亡後、エラム王の信を得て一軍を任されていた。想定外の規模のジムリ・リム軍に驚いたアタムルムはエラム王に増援を求めるがバビロニア侵攻に忙しいエラム王に断られる。追い詰められたアタムルムは、今度はエラム王を裏切ってハンムラビ=ジムリ・リム連合へと下ったのである。アタムルム謀叛というまさかの事態にエラム王も兵を退かざるを得なくなり、腹いせにエシュヌンナで略奪を行った後、イラン高原へと戻っていった。

ハンムラビ王のメソポタミア統一

エラム撃退でバビロン王ハンムラビとマリ王ジムリ・リムの同盟関係が強化され両国の地位が向上する一方、下手を打った結果になったのがラルサ王リム・シンである。リム・シン一族はエラム語名を持つなどエラム王国と関係が深く、軽々に反エラムの立場に立てない理由があったが、バビロニア領土に対して度々略奪を行っていたこともあって、前1763年、ハンムラビ王はラルサ征討を決断する。ハンムラビ軍の侵攻によってラルサ王国では反乱が相次ぎ、前1763年中ごろ、王都ラルサが陥落して一時代を築いたラルサ王朝は終焉を迎えた。同年、ハンムラビ王はエシュヌンナを征服、さらに翌62年初め、ハンムラビの属王アンダリグ王となっていたアタムルムが死ぬとその王位継承に介入して旧領を分割してそれぞれに王を任命した。

前1762年、ハンムラビ王はついにマリ王国へ侵攻する。ハンムラビ王が長年の同盟国だったマリ王国へなぜ侵攻したのかは謎に包まれている。また、盟友であったジムリ・リム王の消息も前1762年十二月の文書を最後に記録上見えなくなる。前1761年七月マリ王国の王都マリへバビロン軍が進駐していた記録が残り、前1760年のハンムラビ治世33年の年名として、前年マリの征服を行ったことが記録されている。その後、ハンムラビ王は王宮を含めマリ市を破壊したと伝わる。

これによって、ハンムラビ王はウル第3王朝以来約250年ぶりに全メソポタミアの統一を実現した。

『ハンムラビ「法典」』

ハンムラビ王はメソポタミア統一の直後、後に「ハンムラビ法典」と呼ばれる碑文を作らせた。1902年、フランスの発掘調査隊がエラムの旧都スサで発見した。発見者シェイルはこれを法律の集大成として「法典( ” code des lois ” )」と呼んだが、後の研究でこれは法律ではなく過去の判決例をまとめた記録であることが判明したため厳密には「法典」ではなく、判例集であるが、慣例によって「ハンムラビ法典」と呼ばれる。多くの研究書では『ハンムラビ「法典」』と括弧書きすることで、字義通りの法典ではなく便宜上の呼称であることを強調した表記がされている。

『(1)ハンムラビ「法典」の本体部分は法律の条文ではなく判決を集めたものである。したがって、ハンムラビ「法典」は、本来の意味での「法典」ではなく判決集である。
(2)ハンムラビ「法典」は、判決を集めた本体部分の体裁からみて、学術書のジャンルに入るものであり、したがって凡例の蒐集・編纂には書記が大きく関わっていた。古代メソポタミアの書記たちは官僚として活躍したばかりでなく、学者として当時の学問の伝統を担っていた。
(3)ハンムラビ「法典」は、法的拘束力を持たなかったが、模範的判決例を教えてくれる手本あるいは手引書としての重要な役割を持っていた。』(中田一郎,1999年,163頁)

古代メソポタミアにおいて現存する限り最も古い「法典」はウル第3王朝初代ウル・ナンム王(在位:前2112~2095年頃)が編纂させた『ウル・ナンム「法典」』である。続くイシン王朝五代目リピト・イシュタル王(在位:前1934~1924年)の『リピト・イシュタル「法典」』、エシュヌンナ王国ダドゥシャ王(在位:?~前1779年)時代に編纂されたと思われる『エシュヌンナ「法典」』があり、『ハンムラビ「法典」』も、これらを受け継いだ内容になっている。

『ハンムラビ「法典」』は前文、282のパラグラフ(条文)、後文に分かれる。碑文作成の目的は、社会正義の実現であることが後文に明記されている。

『強者が弱者を損うことがないために、身寄りのない女児や寡婦に正義を回復するために、アヌムとエンリルがその頂を高くした都市バビロンで、その土台が天地のごとく揺ぐことのない神殿エサギラで、国(民)の(ための)判決を与え、国(民)の(ための)決定を下すために、虐げられた者に正義を回復するために、私は私の貴重な言葉を私の碑に書き記し、(それらの言葉を)正しい王である私のレリーフの下に(直訳:前に)置いた。』(中田一郎,1999年,72頁)

条文は起訴人・証人・裁判官(1-5)、窃盗・横領・強盗(6-25)などに始まり、結婚・家族・相続(128-184)、暴行傷害と傷害致死(195-208)、最後は奴隷に関する条項(278-282)で終わるなど多岐に渡る内容となっている。

特によく知られるのは同害復讐法が採用された暴行傷害・傷害致死に関する条項である。

『196条 もしアウィールム(自由人)がアウィールム(自由人)仲間の目を損なったなら、彼らは彼の目を損なわなければならない。』

『200条 もしアウィールム(自由人)が彼と対等のアウィールム(自由人)の歯を折ったなら、彼らは彼の歯を折らなければならない。』

後世「目には目を、歯には歯を」というフレーズで知られる部分である。このような同害復讐法の採用は同時代としても珍しく、過去のウル・ナンム法典やエシュヌンナ法典では同害復讐ではなく賠償金の支払いに留まる。また、身分差もあって、アウィールム(自由人)がムシュケーヌム(半自由人)の目を損なうか骨を折った場合には銀1マナ(約500グラム)賠償金の支払いで済んだ(198条)。アルドゥム(奴隷)に対しては所有者に奴隷の値段の半額の賠償金を支払う(199条)。

ハンムラビ王死後のバビロン第一王朝

ハンムラビ王はメソポタミアの征服による統一王朝の創始、『ハンムラビ「法典」』の編纂による社会正義の実現とあわせて、大規模な運河工事の実施者としても知られる。やはりメソポタミア統一後、大規模な運河開削、灌漑工事を実施して諸都市に豊穣をもたらした旨の碑文が残されている。

ハンムラビ王死後、息子のサムス・イルナが王位を継いだが、新興の異民族カッシート人の侵入や、諸都市の反乱でハンムラビ王による統一は脆くも瓦解、以後バビロン第一王朝は弱体化しながら四代続き、紀元前1595年、ヒッタイト王ムルシリ1世の遠征軍によって滅ぼされた。

参考書籍

脚注

  • 1
    中田一郎,2014年,10頁
  • 2
    前田徹,2017年,272-273頁
  • 3
    シャムシ・アダド1世の在位期間の最終年については主に前1781年とする説と前1776年とする説がある。また中田一郎,2014年は前1775年としている。
  • 4
    中田一郎,1999年,157-158頁
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