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ユーグ・カペー(フランス王)

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ユーグ・カペー(仏”Hugues Capet”)はカペー朝初代のフランス王(在位987年7月3日~996年10月22から25日の間)。西フランク王国の有力諸侯ロベール家の当主ユーグ・ル・グランの長男として生まれた。生年には、家督相続した956年に17歳であったとする説と15歳であったとする説の二説(1佐藤賢一(2009)『カペー朝 フランス王朝史1(講談社現代新書)』講談社,35頁)があり、939年ないし941年頃と考えられている。

ユーグ・カペー肖像画(Charles de Steuben 作,1838頃)

ユーグ・カペー肖像画(Charles de Steuben 作,1838頃)/パブリックドメイン画像/ヴェルサイユ宮殿美術館収蔵

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ロベール家の台頭

ロベール家は、もともとライン川中流域を基盤とした一族で、840年ごろフランスに進出、852年、ロベール・ル・フォールが西フランクのシャルル禿頭王によってトゥールおよびアンジュー伯に任じられたことに始まる(2佐藤彰一 著「第三章 フランク王国」柴田三千雄(1995)『フランス史(1)先史~15世紀 (世界歴史大系) 』山川出版社,179-181頁)。勇猛さで鳴らした彼は対ヴァイキング戦争で活躍、861年、「セーヌ川とロワール川中間地域の公」となり(3シャルマソン、テレーズ(2007)『フランス中世史年表 四八一~一五一五年(文庫クセジュ)』白水社, 45頁)、882年頃、ロベールの子ウードがパリ伯に任じられ、888年には再統一したカロリング朝フランク帝国皇帝カール3世が亡くなるとウードが西フランク王として諸侯に推戴された。その後、カロリング家のシャルル3世、ロベール家のロベール1世と、カロリング家と交互に西フランク王を輩出。ロベール家はロワール川以北のフランス北部を支配下とするネウストリア辺境候に任じられ、フランキア大公の称号を得て、ロベール1世の子ユーグ・ル・グランの時代に国政にも大きな影響力を持つ西フランク最大の諸侯として最盛期を迎えた(4佐藤彰一(1995)180頁)。

ユーグ・カペーの即位

ユーグ・ル・グランの死後、ロベール家の家長となったユーグ・カペーだったが、まだ若かったためアンジュー伯ら西部の諸侯が自立化、ユーグ・カペーの支配領域はパリ伯として治めるパリからオルレアンにかけてのイル・ド・フランス地域に縮小した(5佐藤彰一(1995)180-181頁)。一方で名門としての地位は保ち、987年2月、前年に即位したルイ5世によって摂政となるが、同年5月、ルイ5世が後継者無いまま亡くなってしまった(6佐藤賢一(2009)26頁)。

ルイ5世が亡くなったとき、ちょうどサンリスで開かれていた諸侯会議の場で次期国王が議題に上り、ユーグ・カペーと前王ルイ5世の叔父下ロレーヌ公シャルルの二人の候補に絞られた。会議を主導したランス大司教アダルベロンは神聖ローマ帝国ザクセン朝王権を軸としたヨーロッパの統合を目指しており、ドイツとの融和を唱えていたユーグ・カペーの選出を強く訴え、聖俗諸侯の合意を得て、987年7月3日、ユーグ・カペーが新王に即位、「フランキア人、ブルトン人、ノルマン人、アキテーヌ人、ゴート人、スペイン人、ガスコーニュ人の王と宣せられた」(7佐藤彰一 著「第三章 中世フランスの国家と社会」福井憲彦(2001)『フランス史(新版 世界各国史 12)』山川出版社,81-82頁)。

連立王政と王領

ユーグ・カペー即位当時、王といいつつもその支配領域はパリとその周辺(イル・ド・フランス)に限られる非常に脆弱な王権であったため、まずは王位の世襲化を確立し、王領地の支配を確実なものとしていかねばならない。ユーグ・カペーは自分が即位したのと同様の諸侯会議での王の選出によるカペー家支配の断絶という事態を防ぐために即位するとすぐに長子ロベールを同格の王に任命、連立王政を敷いた。王の存命中に王太子が王に即位するという疑似世襲制としての連立王政は、以後、幸いにも直系男子が絶えなかったこともあり、六代に渡って受け継がれることになる(8宮松浩憲 著「第四章 カペー朝・封建時代」柴田三千雄(1995)『フランス史(1)先史~15世紀 (世界歴史大系) 』山川出版社,184頁/佐藤彰一(2001)82頁)。

脆弱なカペー王権を支えたのがサンスとランスの二首座大司教管区を中心とした約20の司教管区と約50の修道院からなる教会ネットワークである。直轄地からの収入を大きく上回り、百五十年余り後に訪れる「王権の覚醒」と呼ばれるカペー王家の飛躍を準備した(9宮松浩憲(1995)185頁)。

991年、ユーグ・カペーは王選の対立候補だった下ロレーヌ公シャルルの反乱を鎮めることでカロリング家の王位継承の可能性を摘んで、996年10月22日~25日の間(10佐藤賢一(2009)41頁/シャルマソン(2007)63頁)で亡くなり、嫡男で共同王だったロベール2世が単独統治を開始、以後フランス革命によってブルボン朝が断絶するまで800年に渡りカペー朝の末裔によるフランス王朝が継続した。

ユーグ・カペーの死因

ローラン・ライス(2018)によると、ユーグ・カペーの死因について触れられている史料は991~998年にかけて書かれたランスのサン・レミ修道院の修道士リシェ『歴史』第四巻一〇八章の一文”Hugo rex, papulis toto cprpore confectus, in oppido Hugonis Judeis extinctus est.”であるという。papulisが小膿疱を意味することから王の死因が天然痘であることがわかるが、議論になったのがJudeisで、これをユダヤ人と解して『「天然痘に罹患した王は自分が所有する城の一つで、ユダヤ人のせいで死んだ」と解釈』(11ライス、ローラン「非力な王のまことに目立たぬ死 ユーグ・カペー――九九六年」(ゲニフェイ、パトリス(2018)『王たちの最期の日々 上』原書房,53-54頁)する見方が強く、ユダヤ人医師の誤診で亡くなったと理解されていたが、現在ではこの見方は否定されて、『Judiesはユダヤ人を意味するのではなく、ユーグが在俗修道士として属していたトゥールのサン・マルタン修道院の所有地で、シャルトルの近くにあった土地の名前をさしている』(12ライス(2018)54頁)ことが明らかとなっている。

カペーの意味

ユーグ・カペーの「カペー(仏 Capet )」は渾名で、通説としては「俗人修道院長が羽織った短い外套を意味」(13佐藤彰一(2001)83頁)するとされるが、史料上は様々な綴りで記録されており、その意味するところも、「頭」「頭、頭目」「頭でっかち」「頭巾、フードつき外套、外套(マント、ケープ)」などの説があり、実際にはどの意味で使われたのかよくわかっていない。(14岡地稔(2018)『あだ名で読む中世史―ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる』八坂書房, 275-276頁

また、わかっている限りで同時代にユーグ・カペーと渾名されていた人物はユーグ・カペーのほかにユーグ・カペーの父大ユーグ(ユーグ・ル・グラン)、ブルゴーニュ大公ユーグの三人がいた(15岡地稔(2018)259頁)。岡地稔によれば、まず十一世紀に入ってユーグ・ル・グランをユーグ・カペーと呼ぶ記録が登場し、十一世紀中ごろブルゴーニュ大公ユーグにカペーの渾名を使用する事例が見られ、十一世紀後半から十二世紀初めにかけてユーグ・ル・グランの子、現在ユーグ・カペーと呼ばれるフランス王ユーグにカペーの渾名をつけた事例が登場するという(16岡地稔(2018)273-274頁)。また、ユーグ・カペーの孫、フランス王アンリ1世にもカペーの渾名をつける事例が十二世紀に登場する(17岡地稔(2018)275頁)。

元々、ユーグ・カペーの父大ユーグをユーグ・カペーと呼んでいたものが息子との混同の中で息子もカペーの渾名がつけられるようになり、一方で息子のユーグにも大ユーグの呼称も見られており、その混同を区別するために、年長を示すマグヌスを父に付与して大ユーグ(ユーグ・ル・グラン)、子のフランス王ユーグをユーグ・カペーと呼ぶことが十四世紀ごろに定着した(18岡地稔(2018)274-275頁)と考えられている。

諸説ある「カペー」の意味として有力なのは大ユーグ、ユーグ・カペーともに有力修道院を勢力下においていたことから、『このいくつもの有力修道院を支配していた状況を、「カペー」というあだ名に象徴させて呼んだもの』(19岡地稔(2018)277頁)とし、その支配下でユーグ・カペーが俗人修道院長であったトゥールのサン・マルタン修道院に葬られている聖マルティヌスが乞食に着せた外套の伝承に縁を持つもので、聖マルティヌス崇敬を西フランク=フランス統治の正統性主張に利用するため、初代王ユーグやその父に聖マルティヌスの外套に由来するカペーの渾名を付けたとする説を岡地は紹介している。(20岡地稔(2018)280-281頁

参考文献

脚注

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