アイオナ修道院

スポンサーリンク

アイオナ修道院(Iona Abbey)はスコットランドのヘブリディーズ諸島の一つアイオナ島にあった修道院。563年、アイルランド出身の修道士コルンバによって創建され、以後、各地に築かれたコルンバ派修道院の中心として栄えたが、九世紀頃から始まったヴァイキングの侵攻と破壊によって衰退した。十三世紀初頭、ベネディクト派修道院となるが、十六世紀、スコットランド宗教改革にともない解体された。二十世紀に信徒のコミュニティが創設されてキリスト教会として再興、建物も再建され現在は見学も可能な史跡として整備されている。中世前期のブリテン諸島北部地域におけるキリスト教布教と学芸の中心地であり、著名な装飾写本「ケルズの書」はアイオナ修道院で製作が開始されケルズ修道院で完成したものである。

「アイオナ修道院」

「アイオナ修道院」
Credit: DrTorstenHenning, Public domain, via Wikimedia Commons

スポンサーリンク

歴史

聖コルンバの創建

「ピクト王ブリデ1世と聖コルンバ」(ウィリアム・ホール作、1899年頃、スコットランド国立肖像画美術館収蔵) Credit: William Hole, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

「ピクト王ブリデ1世と聖コルンバ」(ウィリアム・ホール作、1899年頃、スコットランド国立肖像画美術館収蔵)
Credit: William Hole, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

563年、アイルランド北東部の有力勢力北イー・ネールの王族であった修道士コルンバが12人の仲間とともにアイオナ島に上陸、ダルリアダ王国のコナル王(在位?-574年)からアイオナ島を贈られ修道院を築いたことに始まる。創建当時の文献資料は七世紀後半、九代目の修道院長アダムナーンが著した「聖コルンバ伝”Vita Columbae”」がほぼ唯一の出典となるが、同書によればコナル王死後、新たにダルリアダ王となったアイダーン王(在位574-608年、ガブラーンの子アイダーン”Áedán mac Gabráin”)の即位に際してコルンバが聖別の儀式を執り行ったという。また、575年、コルンバの仲介でコルンバの出身である北イー・ネールとダルリアダ王国の同盟が成立した。この同盟によってダルリアダ王国は強国として地位を確立する。

コルンバからアダムナーンまでアイオナ修道院長の地位は北イー・ネール王家から出ており、このような有力勢力の後ろ盾を得てアイオナ修道院はアイルランド、ノーサンブリア地方、ダルリアダ王国ピクト王国などのスコットランド地方などブリテン諸島北部地域に多くのコルンバ派修道院を築き、キリスト教布教と学芸の中心地として栄えることとなった。

キリスト教文化の中心地として

ケルズの書(Book of Kells. Folio 34r: Matthew; Chi Rho)

ケルズの書(Book of Kells. Folio 34r: Matthew; Chi Rho)
Public domain, via Wikimedia Commons

アイオナ修道院ではキリスト教の布教活動にとどまらず、古典文学や学問の研究、さらに写本や書籍、年代記等の制作が重要な活動であった。アイオナ修道院を中心としたコルンバ派修道院で製作された装飾写本群は組紐模様、動物的形態、渦巻模様などをモティーフとした美麗なもので、従来はラ・テーヌ文化期の工芸品との類似からケルト文化と結び付けられてきたが、近年では、アングロ・サクソン文化とアイルランド文化が交流、アングロ・サクソン系の動物形態や組紐模様などを取り入れたと考えられている(1ミーハン、バーナード.(2002)『ケルズの書』創元社、9-10頁、91頁/”Book of Kells“,The Library of Trinity College Dublin,Trinity College Dublin.)。これらの装飾写本群の代表作「ケルズの書」は西暦800年前後、アイオナ修道院で製作が開始され、後にヴァイキングの襲来を避けてアイルランドのミーズ州にあるケルズ修道院に移されたあと製作が継続されたものと考えられている。

697年、アイオナ修道院長アダムナーンがアイルランドのバーで行われた教会会議で公布した「アダムナーン法(Cáin Adomnáin)」は女性、子供、聖職者を暴力から保護することを目的として書かれた法(2「索引3」(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会)で、「アイルランドの『ジュネーブ条約』」とも言われ(3O’Dwyer,Máire (2015). Cáin Adomnáin, 697: the Irish ‘Geneva Convention’, History Ireland. Issue 1 (January/February 2015), Volume 23.)、アイルランド全土の聖職者四〇人とピクト王、ダルリアダ王、ノーサンブリア王などブリテン島北部諸王侯とイー・ネール王、レンスター王らアイルランドの諸王侯ら世俗の権力者五一人の計九一人が保証人として署名しており(4田中美穂(2001)「中世初期アイオナ修道院とダール・リアダ王権 : 『聖コルンバ伝』における王の聖別の叙述をめぐる一考察」(『史学雑誌 2001 年 110 巻 7 号』59-60頁))、内容の先駆性とともに、アイオナ修道院の影響力の大きさと、当時のアイルランドおよびブリテン島北部における国際情勢を知ることができる非常に重要な史料となっている。

ヴァイキングの襲撃と衰退

「アイオナ修道院」

「アイオナ修道院」
Credit: Jan Smith from Brisbane, Australia, CC BY 2.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/2.0>, via Wikimedia Commons

八世紀末から九世紀半ばにかけてヴァイキングによるブリテン島への侵攻が本格化すると、アイオナ修道院もたびたびヴァイキングの襲撃を受け、806年には68人が殺害される被害を受けた。814年、ヴァイキングの襲撃を避けてアイオナ修道院に替わってアイルランドのミーズ州にあるケルズ修道院がコルンバ系修道院の中心となった。848年または849年、ピクト王ケネス・マカルピンの命で修道院の遺品や貴重品が安全のためにパースシャーのダンケルドへ移され(5” In the seventh year of his reign [848/9] he transported the relics of St Columba to a church that he had built. “.Chronicle of the Kings of Alba. Fordham University.)、これらを保管するためにダンケルドに新たに建てられた教会が後にダンケルド修道院となりスコットランドにおけるコルンバ系修道院の中心となった(6田中美穂(2017)「アイオナ修道院」(木村正俊/松村賢一(2017)『ケルト文化事典』東京堂出版、152頁))。

この間、アイオナ修道院の建物は損害を受けたものの完全に衰退したわけではなく、歴代のダルリアダ王・スコットランド王および有力者の埋葬地として利用され、48人のダルリアダ王・スコットランド王と、8人のノルウェー王、4人のアイルランド王がここに埋葬されたと伝わっている(7IONA ABBEY. Undiscovered Scotland.)。これが事実であるかどうかは現在は疑問視されているが(8Fraser, JE. “Alexander I, Dunfermline and the Mausoleum of the Gaelic Kings of Scotland in Iona)、歴代スコットランド王の墓所として、聖コロンバゆかりの巡礼地として人気となった。

九世紀半ば、ヘブリディーズ諸島はヴァイキングの支配下となり「キングダム・オブ・ジ・アイルズ(Kingdom of the Isles9島嶼王国、諸島王国などの訳があるが定訳はない。マン島と島々の王国(Kingdom of Mann and the Isles)とも)」が誕生する。その後ケイスネス王・オークニー伯トルフィン・シグルドソンとその後継者らの支配を経て、1079年から1095年までダブリン王国の王族ゴフリド・メーラーナハ(ゴドレッド・クローヴァン10ゲール語:Gofraid Meránach,英語:Godred Crovan/カナ表記はハーヴェー、バーバラ(2012)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(4) 12・13世紀 1066年~1280年頃』慶應義塾大学出版会、91頁参照)の勢力下となった後、1098年、ノルウェー王マグヌス3世の征服によってノルウェー王の支配下となる。1158年、アーガイルの領主サマレッドがヘブリディーズ諸島を征服、1266年のパース条約でスコットランド王国に併合されるまで、その後継者の王朝がアイオナ島の支配者となった。

十二世紀、サマレッドによってアイオナ修道院の近くに聖オラン礼拝堂( St Oran’s Chapel)とアウグスティヌス派修道院が建てられ、1200年頃、サマレッドの子ラナルドはアイオナ修道院をベネディクト派修道院として再興、アイルランド教会の庇護から外れることとなった(11Iona Abbey: History .Historic Environment Scotland.)。1400年代に修道院は大幅な拡張工事が行われたが、1560年代に起こったスコットランド宗教改革によってアイオナ修道院も解体され、廃墟となった。

「アイオナ修道院の聖マルティン十字架」

「アイオナ修道院の聖マルティン十字架」
Public domain, via Wikimedia Commons

再興から現代まで

「1890年頃の廃墟化したアイオナ修道院と聖オラン礼拝堂の写真」

「1890年頃の廃墟化したアイオナ修道院と聖オラン礼拝堂の写真」
credit: Anonymous, marked ‘Iona Cathedral and St Oran’s Chapel’ 265 J.V., Public domain, via Wikimedia Commons

近世以降、廃墟となっても多くの巡礼者が訪れたが建造物の多くは石材として再利用されるなど崩壊が進む。1874年、第八代アーガイル公ジョージ・キャンベルが建築家ロバート・ローランド・アンダーソンに修道院跡の保存を依頼し、1899年、アーガイル公はアイオナ大聖堂トラスト(Iona Cathedral Trust)にアイオナ修道院跡の所有権を譲渡して1902年から本格的な修復が開始された。

1938年、スコットランド国教会の牧師ジョージ・マクラウドの提唱で修道院を再建するための有志のグループ「アイオナ・コミュニティ」が結成され、二十世紀の間かけてアイオナ修道院の建物が再建され、現在まで礼拝と典礼が続くキリスト教コミュニティとして継続している。また、2000年よりヒストリック・スコットランド(現ヒストリック・エンヴァイロメント・スコットランド(Historic Environment Scotland,HES))に建物と関連施設の管理が移り、礼拝の場であると同時に、見学者の受け入れが可能な観光施設となった。2021年には多額の資金調達を受け375万ポンドかけての改修工事を行い、再生可能エネルギー・システムの設置と超高速ブロードバンドの導入など近代的施設として再オープンした(12Sherwood, Harriet (2021). “Scotland’s ‘cradle of Christianity’ on Iona is saved by small mercies“.Guardian. )。

Iona Abbey
An overview of Iona Abbey, a Benedictine abbey that stands on the site of the monastery founded by St Columba, and find ...

参考文献

脚注