ジャン・ド・メス

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ジャン・ド・メス(Jean de Metz)またはジャン・ド・ヌイヨンポン(Jean de Novelompont)はドンレミ村を出たジャンヌ・ダルクがヴォークルールからシノン城へと赴く際に護衛したヴォークルール城主ロベール・ド・ボードリクール配下の準騎士の一人。ジャンヌ・ダルクの最初の戦友として知られる。1398年生、没年不明。

名前のヌイヨンポン(Novelompont)は出身地であるロレーヌ公領ムーズ(現在のグラン・テスト地域圏ムーズ県)のヌイヨンポン村に由来し、貴族ではないが裕福な家に生まれた。彼の名として一般的に知られているメス(Metz)はフランス北東部の中心都市メス(現在のグラン・テスト地域圏モゼル県メス市)からだが、同市とどのような縁があったのかはよくわからない。

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ジャンヌ・ダルク最初の戦友

ジャン・ド・メスはヴォークルール城を守備するロベール・ド・ボードリクールに仕えていた。百年戦争後半、1420年代のヴォークルールはイングランド=ブルゴーニュ同盟の勢力下一帯にありながら、シャルル7世率いるアルマニャック派に与して度々ブルゴーニュ軍の攻勢を退け続けていた要衝であった。

ヴォークルール城下にジャンヌ・ダルクが現れたのは1428年のキリスト昇天祭(5月13日)の頃だと伝わる(1ペルヌー、レジーヌ/クラン、マリ=ヴェロニック(1992)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍(書評)48頁)。王太子に神の声を伝えにいく、守備隊長の城主ボードリクールに会わせろ、などと騒ぎ立てて一躍有名人となった。ボードリクールは彼女と面会して話を聞いた上で、同席していたジャンヌの叔父デュラン・ラクサールに対し、彼女に平手打ちを食らわせて家に連れ帰るように指示するが、話にならないと思ったジャンヌは、実行できず戸惑うばかりの優しい叔父ラクサールの服を引っ張って退出した(2ペルヌー、レジーヌ(2002)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』白水社110頁、デュラン・ラクサールの証言に、『このロベールは私に、娘を充分ひっぱたいたうえ父親の家に送り返せと、何度か申しました。彼女は、ロベールが王太子のいる場所に連れて行ってくれないことがわかると、自分から私のマントを引っ張って、引き揚げようといいました。』とある。)。

ジャン・ド・メスは、そんな騒ぎを起こす赤い服の少女に興味を持って、『娘さん、ここで何をしようというんだね。王様は国から追い出され、俺たちはイギリス人にならなければならないのかね?』(3ペルヌー(2002)122頁)とからかってみた。しかし、軽い気持ちで話しかけたメスに対し、ジャンヌの返答は実に立派なものだった。

『私はここ、王様の部下の町に来て、私を王様のところへ連れていくか、だれかに連れていかせてくれるようロベール・ド・ボードリクールに頼んだのです。しかし、彼は私にも、私の言葉にも関心を示しません。けれど、四句節の中日までには、たとえ足をすり減らしても王様の許へ行かねばなりません。実際フランス王国を復活させうるものは、国王にせよ、諸侯たちにせよ、スコットランドの王女にせよ、世界に誰もいないのです。私以外に王国を救う者はいないでしょう。が、私は貧しい母の許で糸を紡いでいる方がずっと良いのです。そんなことは私の仕事ではないのですから。けれどどうしても王様のところへ行って、その仕事をしなければなりません。私がそれをすることをわが主がお望みだからです』(4ペルヌー(2002)122頁

重ねてわが主とは誰かと問うメスに、ジャンヌは神様ですと答え、このやり取りに感じ入ったメスは、おそらく騎士道精神を刺激されたのだろう。少々芝居がかった振る舞いで、『信頼の徴として私の手を乙女の上に置いて、神にかけて国王の許に案内しようと乙女に約束』(5ペルヌー(2002)122頁)することで、ジャンヌ・ダルク最初の戦友となった。そして、いつ出発したいのかと問うメスに、ジャンヌは後世繰り返し引用されることになる『明日より今日のほうが、もっと遅れるより明日のほうがよい』(6ペルヌー(2002)122頁)という有名な返答を行った。

そして、女物の服では動きにくかろうと、ジャンヌ自身も男物の服の方がいいと答えたこともあり、彼は己の従者の服を一式ジャンヌに与えた。男装のジャンヌ・ダルク誕生の瞬間であった。

ジャンヌ・ダルクのシノン城行

ジャンヌ・ダルクがヴォークルールから一旦去った後、ヴォークルールはブルゴーニュ軍の攻勢にさらされ、それが一段落した1429年の四句節の始め頃(2月13日頃)、ジャンヌは再びヴォークルールに現れ、そのころにはヴォークルールでも市民の間にジャンヌの支持者が増えており、前回と変わってボードリクールもシノン城行を認めることになった。このボードリクールの変心にはシャルル7世政権中枢――例えば王妃の母ヨランド・ダラゴンやシャルル7世自身ら――の意図など様々な要因が語られる(7オルレアン包囲戦の戦況悪化などの情勢の変化、救世主となる乙女がロレーヌから現れるといった伝承の影響、シャルル7世が面会を欲したとするものや、この頃バール公子となっていた王族ルネ・ダンジューが宮廷に情報提供をしていたというもの、ロレーヌ公シャルルがジャンヌを呼びよせたことにボードリクールが反応したというもの、あるいはヨランド・ダラゴン黒幕説やボードリクールの傀儡説といった眉唾なものまで多岐に渡る。この頃、1429年2月半ばには包囲戦下のオルレアンまでジャンヌの噂が届いていたので、かなり知られるようになっていたことは確かで、その知名度が関係者の意思決定になんらかの影響を及ぼしたのだろう。)が、メスや彼の同志となったベルトラン・ド・プーランジーらの働きかけも少なからず影響があった。

ジャン・ド・メスはジャンヌ・ダルクのシノン城行の護衛部隊を率いることになった。護衛は準騎士ジャン・ド・メスを隊長として、その従卒ジャン・ド・オヌクール、準騎士ベルトラン・ド・プーランジー、その従卒ジュリアン、弓兵リシャール、シャルル7世の伝令使コレ・ド・ヴィエンヌの六名である。

ジャンヌ・ダルク一行は1429年2月22日にヴォークルールを出発して、3月4日にシノン城に到着するまで約二週間、ブルゴーニュ=イングランド派支配地域を含む危険も少なくない行程であった。ペルヌー/クラン(1992)によれば『街道のあちこちに位置している敵の守備隊に遭遇しないよう気を配りながらのこの長旅の構想は、遠国の要塞を固めているこの歴戦の指揮者によって十分に吟味しつくされていた』(8ペルヌー/クラン(1992)56頁)。この点でジャン・ド・メスの功績は大きい。

このシノン城行の道中のエピソードとして有名なのが、ジャン・ド・メスらが証言するジャンヌ・ダルクに性欲を感じたかという話である。

『旅の途中では、ベルトランと私は二人とも毎晩彼女と一緒に寝たのですが、乙女は胴着とズボンをつけたまま私の側で横になっていました。私は彼女に畏敬の気持ちを抱いていたので、彼女を誘惑するような気持ちは起きませんでした。誓って申しますが、私は彼女に対して欲望や肉体的衝動はもたなかったのです。』(9ペルヌー(2002)123-124頁

シノン城到着後、ジャン・ド・メスとベルトラン・ド・プーランジーの二人は、ジャンヌの許を訪れた騎士ゴベール・ティボーにも同様のことを語っている。

シノン城到着後~復権裁判まで

シノン城到着の二日後、1429年3月6日の夕方、ジャンヌ・ダルクはシノン城に呼ばれシャルル7世に拝謁して信頼を得ることになる。このとき、ジャン・ド・メスは官僚の一人で会計検査官(のちの会計院院長)だったシモン・シャルルにこれまでの経緯を語っている。

また、メスらはジャンヌの求めに応じて専属の聴罪司祭として聖アウグスチノ修道会の修道士ジャン・パスクレルの招聘の準備をしており、メス自身かどうかは不明だが、シノン行の仲間たちの中のパスクレルと面識のある誰か複数名がパスクレルの許を訪れている(10パスクレル司祭招聘の経緯については「ジャン・パスクレル」に詳述)。

純潔検査・教会関係者による審問を経て、ジャンヌ・ダルクは武装を整え、副官ジャン・ドーロンの下直属部隊が編制されて包囲戦真っただ中のオルレアン市へ向かうことになるが、ジャンヌ・ダルクとともにジャン・ド・メス、ベルトラン・ド・プーランジーらがオルレアン市のジャンヌ・ダルク宿泊地にいたことはわかっている(11ペルヌー、レジーヌ(1986)『オルレアンの解放』白水社、ドキュメンタリー・フランス史149頁)。しかし、その後どこまでジャンヌ・ダルクに従ったかは不明である。

ジャンヌ・ダルク死後のジャン・ド・メスについてわかることは少なく、1444年または1448年(12ペルヌー(2002)のレジーヌ・ペルヌーによる解説では1448年、フランス語版Wikipédia(Wikipedia contributors, ‘Jean de Metz’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 8 May 2021 17:20 UTC, https://fr.wikipedia.org/w/index.php?title=Jean_de_Metz&oldid=182707318 [accessed 4 January 2022])では” Regine Pernoud, Marie-Véronique Clin, Jeremy duQuesnay Adams et Bonnie Wheeler, Joan of Arc: Her Story, Macmillan, 1999”を参照して1444年としている。他、ウェブ上の情報源では1444年とするものと1448年とするものが混在している。)、シャルル7世によって貴族に叙されたことのみである。1456年のジャンヌ・ダルク復権裁判では同僚のベルトラン・ド・プーランジー、当時ヴォークルール守備隊に属していた騎士たち、ヴォークルール市民らとともに、ヴォークルールとシノン行の旅程でのジャンヌ・ダルクについて語っている。

参考文献

脚注

  • 1
    ペルヌー、レジーヌ/クラン、マリ=ヴェロニック(1992)『ジャンヌ・ダルク』東京書籍(書評)48頁
  • 2
    ペルヌー、レジーヌ(2002)『ジャンヌ・ダルク復権裁判』白水社110頁、デュラン・ラクサールの証言に、『このロベールは私に、娘を充分ひっぱたいたうえ父親の家に送り返せと、何度か申しました。彼女は、ロベールが王太子のいる場所に連れて行ってくれないことがわかると、自分から私のマントを引っ張って、引き揚げようといいました。』とある。
  • 3
    ペルヌー(2002)122頁
  • 4
    ペルヌー(2002)122頁
  • 5
    ペルヌー(2002)122頁
  • 6
    ペルヌー(2002)122頁
  • 7
    オルレアン包囲戦の戦況悪化などの情勢の変化、救世主となる乙女がロレーヌから現れるといった伝承の影響、シャルル7世が面会を欲したとするものや、この頃バール公子となっていた王族ルネ・ダンジューが宮廷に情報提供をしていたというもの、ロレーヌ公シャルルがジャンヌを呼びよせたことにボードリクールが反応したというもの、あるいはヨランド・ダラゴン黒幕説やボードリクールの傀儡説といった眉唾なものまで多岐に渡る。この頃、1429年2月半ばには包囲戦下のオルレアンまでジャンヌの噂が届いていたので、かなり知られるようになっていたことは確かで、その知名度が関係者の意思決定になんらかの影響を及ぼしたのだろう。
  • 8
    ペルヌー/クラン(1992)56頁
  • 9
    ペルヌー(2002)123-124頁
  • 10
    パスクレル司祭招聘の経緯については「ジャン・パスクレル」に詳述
  • 11
    ペルヌー、レジーヌ(1986)『オルレアンの解放』白水社、ドキュメンタリー・フランス史149頁
  • 12
    ペルヌー(2002)のレジーヌ・ペルヌーによる解説では1448年、フランス語版Wikipédia(Wikipedia contributors, ‘Jean de Metz’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 8 May 2021 17:20 UTC, https://fr.wikipedia.org/w/index.php?title=Jean_de_Metz&oldid=182707318 [accessed 4 January 2022])では” Regine Pernoud, Marie-Véronique Clin, Jeremy duQuesnay Adams et Bonnie Wheeler, Joan of Arc: Her Story, Macmillan, 1999”を参照して1444年としている。他、ウェブ上の情報源では1444年とするものと1448年とするものが混在している。