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ルーラッハ(スコットランド王)

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ルーラッハ(Lulach, 1058年3月17日没)は十一世紀半ばのアルバ(スコットランド)王・マリ王(Mormaer of Moray)。在位1057年8月15日-1058年3月17日。マクベス王死後、王位を継いだが七か月余りの短い治世で暗殺されて生涯を終えた。異名は「不運な者(スコットランド・ゲール語“Tairbith”1 Skene, William F.,(1867) .Chronicles of the Picts and Scots: And Other Memorials of Scottish History. Edinburgh, H. M. General register house.,p.102.)」。母は後のマクベス夫人グロッホ、父はマリ王ギラコムガン(Gille Coemgáin,在位1029-1032年)。グロッホの父ボイトはアルバ王ケネス2世またはケネス3世の子とみられ、後にアルバ王に即位する正当性があったと思われる。

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生涯

1020年、マクベスの父フィンドレイ王(Findláech, 在位1014以前-1020年)がギラコムガンの兄弟マルカムによって殺害されマルカムがマリ王となる。マルカム死後の1029年にギラコムガンが後を継いだ。ギラコムガン自身もフィンドレイ王の殺害に関わっていた可能性がある。1032年、経緯や実行犯は不明だがギラコムガン王も殺害され、マクベスがマリ王に即位した。この父王の死後、母グロッホがマクベス王と再婚し、ルーラッハもマクベス王の継嗣となった。

1040年、マリへ侵攻してきたアルバ王ダンカン1世マクベスが倒しアルバ王に即位した。マクベス王時代のルーラッハについては記録がなく不明であるが、ルーラッハ死後のマリ王位継承の記録から結婚して息子マエル・スネフタイ(Máel Snechtai,1085年没)と娘がいたことがわかっている。

1057年8月15日、義父マクベスがランファナンの戦いでダンカン1世の子マルカム(後のマルカム3世)に敗れたため、ルーラッハが王位を継いだ。十四世紀スコットランドの聖職者ジョン・オブ・フォーダンが著した「スコットランド年代記” Chronica Gentis Scotorum”」によれば、側近らとスクーンで戴冠式を挙行したが従う諸侯は少なく、それを聞いたマルカムはルーラッハを四か月に渡って捜索させ、ハイランドのストラスボギー(Strathbolgy)地区にあるエッシー(Essy)と呼ばれる場所でルーラッハ一味を発見、全員殺害し、遺体はアイオナ修道院の周辺に埋葬したという(2Skene, Felix James Henry; Skene, William Forbes (1872), John of Fordun’s Chronicle of the Scottish Nation, Edinburgh: Edmonston and Douglas.,pp.193-194.)。

死後、アルバ王にはマルカム3世が即位し、マリ王にはルーラッハの子マエル・スネフタイが就いた。マクベス・ルーラッハ親子死後もマリは独立を保っており、「アングロ・サクソン年代記」の1078年の条にはマルカム3世がマリを攻めマエル・スネフタイの母を捕らえ、一行空白があって、主だった重臣と彼自身は難を逃れたとの記述がある(3大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、240頁)ことからスコットランド王国と戦いが起きていたとみられ、その後もMormaer of MorayからKing of Morayを意味する王号に変えていた点などスコットランド王に対抗心を強く持っていたようである(4Mormaer(モーマー)は十世紀初頭から十三世紀にかけてのスコットランドで各地に割拠していた自立した地方勢力の支配者のこと。詳しくは「モーマー(Mormaer))。1130年、ルーラッハ王の娘の子オエンガス(Óengus)がスコットランド軍に敗れたことでスコットランド王国へ服従、1147年、完全に併合された。

「アイオナ修道院の聖マルティン十字架」

「アイオナ修道院の聖マルティン十字架」
Public domain, via Wikimedia Commons

参考文献

脚注