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マルカム2世(スコットランド王)

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マルカム2世(Malcolm II , 954年頃生-1034年11月25日没)は十一世紀初めのアルバ(スコットランド)王。在位1005-1034年。ケネス2世の子。前王ケネス3世を殺害して即位、1018年カラムの戦いでイングランド軍に勝利しスコットランド東南部を獲得、ストラスクライド王国を従属させるなど勢力を拡大した。タニストリーに代わり自身の直系子孫による相続を目指し孫ダンカン1世に王位を継承させた。

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治世

1005年3月25日(1日付は伝承として伝わっているだけで確実ではない(Dunbar, Sir Archibald Hamilton (1906). Scottish Kings: A Revised Chronology of Scottish History, 1005-1625, with Notices of the Principal Events, Tables of Regnal Years, Pedigrees, Tables, Calendars, Etc. D. Douglas. p. 293.))、現在のパース・アンド・キンロス行政区クリフ市の西に位置するモンジーベアード(Monzievaird)湖の湖畔で従兄弟のケネス3世王率いる王軍と戦い勝利、王を殺害して即位した(モンジーベアードの戦い)。戦いに至る経緯は定かではない。

マルカム2世はのちのスコットランド王国の中核となるロージアン地方を始めとしたスコットランド東南部への積極的な領土拡大に成功した王として知られる。即位直後の1006年、イングランド北東部の主要都市ダラムを包囲してノーサンブリア伯ウトレッドに撃退されたのが記録に残る初期の軍事行動である。

「700年頃の<a href=

ノーサンブリア王国地図」” width=”973″ height=”981″ /> 「700年頃のノーサンブリア王国地図」
Credit: Ben McGarr, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons

「中世スコットランド王国草創期の諸勢力(Mormaerdom)」

「中世スコットランド王国草創期の諸勢力(Mormaerdom)」
Public domain, via Wikimedia Commons

ロージアン地方は現在のスコットランドの首都エディンバラ市を含むフォース湾南岸地域にあたり、アングロ・サクソン人の来寇以降アングル人が中心となって定住、七世紀半ばからはノーサンブリア王国に統合された。ノーサンブリア王国崩壊後はイングランド、ヴァイキング(デーン人)、アルバ(スコットランド)が支配権を巡って争った。1006年、イングランド王エゼルレッド2世は旧ノーサンブリア王国にノーサンブリア伯を置きウトレッドを伯に任じたが、1016年、アングロ・サクソン王朝が倒れてデーン人による北海帝国が成立、同じ年ウトレッド伯も亡くなっている。即位したばかりのクヌート大王は空位となったノーサンブリア伯領を二つに分け、南部にヨーク伯領、ロージアン地方を含む北部にバンバラ伯領を置いた。

1018年(1016年説もあり)、マルカム2世はストラスクライド王国と連合してロージアン地方へ侵攻、ツイード川の南側にあるカラム村(Carham, Carham on Tweed)でノーサンブリア人の軍勢を破り、ロージアン地方を併合した。以後、ロージアン地方はスコットランド王国が恒久的な支配下とし、マルカム3世カンモー(在位1058-93)時代にエディンバラ城の築城が開始、デイヴィッド1世(在位1124-53)時代に王の居城となり、スコットランド王国の中核地域となる。

カラムの戦いの後ストラスクライド王国を従属させたとみられ、次のダンカン1世即位にあわせて併合(2Strathclyde | historical kingdom, Scotland, United Kingdom | Britannica、木村正俊(2021)71頁/ストラスクライド王国の終焉時期については諸説あり、完全にスコットランドへ併合されたのではなく存続していたとみる説もある)、ロージアン地方とあわせてスコットランド南東部に勢力を拡大した。

また「アングロ・サクソン年代記」の1031年の条に、北海帝国のクヌート1世がスコットランドを訪れた際、マリ王マクベスら二人の王とともにスコットランド王マルカム2世が臣従の挨拶に訪れたという記録がある(3「アングロ・サクソン年代記」1031年の条” This year went King Knute to Rome; and the same year, as soon as he returned home, he went to Scotland; and Malcolm, king of the Scots, submitted to him, and became his man, with two other kings, Macbeth and Jehmar; but he held his allegiance a little while only.”(Ingram, James Henry(Translator)”The Anglo-Saxon Chronicle“(The Project Gutenberg)/「この年に、王カヌートは、ローマへ行った。また、その同じ年に、彼はスコットランドへ行った。そして、スコットランド王マルコルム[二世]が、彼に臣従した。また、他の二人の王[族]アルバスとイェフマルクも、彼に臣従した。」(大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、177頁))マルカム2世、マクベスとともにクヌートへ臣従の挨拶を行った王Jehmarは十一世紀にギャロウェー、クライド湾沿岸地域、マン島、さらにアイルランドのダブリン周辺などアイリッシュ海をまたぐ海峡国家を築いたリンズ王国の王Echmarcach mac Ragnaill(?-1065頃没)のこと。)。

婚姻外交も精力的に行っており、いずれも即位前のことと思われるが、三人の娘を当時モーマーと呼ばれる独立勢力の有力者たちアソル領主でダンケルド修道院長のクリナン、オークニー伯シグルド、マリ王フィンドレイに嫁がせた。それぞれダンカン1世、オークニー伯トルフィン・シグルドソンマクベスの母となる。

王位継承と死

アルバ王国では王位継承に際して「在位の国王の孫までを含む適齢以上の男子すべて」(4森護(1988)22頁)を対象とした王位継承候補者の間から選ぶ「タニストリー」と呼ばれる継承制度を取っていた。概ね、候補者の最長老あるいは最有力者がつくことになり、二つないし三つの王統から交互に王が選ばれていた。

この伝統的な王位継承方法に対し、マルカム2世は自身の直系の子孫に王位を継承させるという長子相続制度へ転換させた。長女ベソックとダンケルド修道院長クリナンの子ダンカンを次代の王とし、これを確実なものとするため、1033年、前王ケネス3世の子を殺害した。

1034年11月25日、グラミス(現在のアンガス行政区にある村)で死去。おそらくかなり高齢で、954年頃誕生と言われるので80歳前後で亡くなったとみられる。死後、孫のダンカン1世が即位した。

「グラミスにあるマルカム2世の墓石とされるピクトの立石のデッサン」

「グラミスにあるマルカム2世の墓石とされるピクトの立石のデッサン」(From Shakespeare’s Tragedy of Macbeth, 1898. by Harper & Brothers. Engravings included. Edited by William J. Rolfe.)
Credit: Pamla J. Eisenberg from Anaheim, USA, Public domain, via Wikimedia Commons

「ダンカン1世の肖像画」(1684-86年頃、ヤコブ・デ・ヴェット作、ロイヤル・コレクション)

「ダンカン1世の肖像画」(1684-86年頃、ヤコブ・デ・ヴェット作、ロイヤル・コレクション)
Credit: Jacob de Wet II, Public domain, via Wikimedia Commons

参考文献

脚注

  • 1
    日付は伝承として伝わっているだけで確実ではない(Dunbar, Sir Archibald Hamilton (1906). Scottish Kings: A Revised Chronology of Scottish History, 1005-1625, with Notices of the Principal Events, Tables of Regnal Years, Pedigrees, Tables, Calendars, Etc. D. Douglas. p. 293.)
  • 2
    Strathclyde | historical kingdom, Scotland, United Kingdom | Britannica、木村正俊(2021)71頁/ストラスクライド王国の終焉時期については諸説あり、完全にスコットランドへ併合されたのではなく存続していたとみる説もある
  • 3
    「アングロ・サクソン年代記」1031年の条” This year went King Knute to Rome; and the same year, as soon as he returned home, he went to Scotland; and Malcolm, king of the Scots, submitted to him, and became his man, with two other kings, Macbeth and Jehmar; but he held his allegiance a little while only.”(Ingram, James Henry(Translator)”The Anglo-Saxon Chronicle“(The Project Gutenberg)/「この年に、王カヌートは、ローマへ行った。また、その同じ年に、彼はスコットランドへ行った。そして、スコットランド王マルコルム[二世]が、彼に臣従した。また、他の二人の王[族]アルバスとイェフマルクも、彼に臣従した。」(大沢一雄(2012)『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、177頁))マルカム2世、マクベスとともにクヌートへ臣従の挨拶を行った王Jehmarは十一世紀にギャロウェー、クライド湾沿岸地域、マン島、さらにアイルランドのダブリン周辺などアイリッシュ海をまたぐ海峡国家を築いたリンズ王国の王Echmarcach mac Ragnaill(?-1065頃没)のこと。
  • 4
    森護(1988)22頁
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