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「神の平和」運動

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「神の平和(ラテン語: Pax Dei, 英語:Peace and Truce of God, フランス語:Trêve de Dieu )」運動は10世紀~11世紀にかけてフランスで起きた宗教運動。カール大帝(シャルルマーニュ)死後、後継者争いによる内戦とヴァイキングの侵攻によってフランク王国が分裂・無秩序化した結果、新興領主・城主層が台頭、私闘(フェーデ)が相次いだことから、農民や聖職者など非戦闘員の財産を保護し、私闘を禁じるよう求めた聖職者主導の民衆運動として始まった。その後、一週間のうち水曜から月曜までの四日間及び祝祭日での戦闘を禁じることを騎士たちに誓約させる「神の休戦」へと発展した。この運動は王権の支持を受けて広がり、暴力の抑止に十分とは言えないまでも一定の成果を上げ、騎士道理念へと昇華されるとともに、キリストの戦士として異教徒と戦う十字軍の機運を高めることになった。(1木寺廉太著「神の休戦」(大貫隆, 名取四郎, 宮本久雄, 百瀬文晃(2002)『岩波キリスト教辞典』岩波書店,230-231頁)

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神の平和運動の展開

カロリング王権と大諸侯が弱体化して地方の城砦を中心として周辺の村落を含んだ小規模地域を支配する城主層が台頭して相争う乱世となったため、彼らの私闘(フェーデ)を抑止し、その被害から教会の財産や多数の民衆を守ることを目的として、10世紀後半、ブルゴーニュ、アキテーヌ、ラングドックなど東フランスから南フランスにかけての一帯を中心に「神の平和」とよばれる運動が広がった。その始まりとしては989年、シャルーでボルドー大司教が主催し五人の司教をはじめとした聖職者や修道士、男女の俗人を集めた宗教会議であるとされる。(2野口洋二著「第九章 中世のキリスト教」(柴田三千雄(1995)『フランス史(1)先史~15世紀 (世界歴史大系) 』山川出版社,443頁)/なお、通説では989年のポワティエ伯領シャルーでの宗教会議を嚆矢とするが、松本宣郎(2009)『キリスト教の歴史(1)初期キリスト教~宗教改革 (宗教の世界史)』山川出版社,144頁では972年オーヴェルニュ地方オーリヤック・コレと975年サンジェルマン・ラプラドを最初の例に挙げている。

同会議では以下のことが定められた。

(1)教会に侵入したり、教会から何かを強奪しないこと。違反すれば破門。
(2)農民やその他貧者から雄牛、雌牛、驢馬、山羊、豚などを掠奪してはならない。賠償しなければ破門。
(3)武器を携帯せずに歩いている聖職者や家に住んでいる聖職者を襲ったり傷つけたりした者は、その聖職者の方が罪を犯しているのでなければ、贖罪しないかぎり、「神の神聖な教区から追放されねばならない」。(3山内進著「第8章 ヨーロッパ法システムへの転撤」(勝田有恒,森征一,山内進 編著(2004)『概説西洋法制史』ミネルヴァ書房,109頁

以後、領地の支配力強化や治安維持を目指すフランス王・ドイツ(神聖ローマ)皇帝・諸侯の支持を受けて東フランスから南フランス、さらに北フランスやドイツにまで広がり、次々と同様の決議が各地で行われた。1030~50年代にかけて、会議の誓約内容は一週間のうち水曜から月曜までの四日間及び祝祭日での戦闘を禁じることを騎士たちに誓約させる「神の休戦」へと発展した。(4野口洋二著「第九章 中世のキリスト教」(柴田三千雄(1995)443頁)

これら神の平和/神の休戦を世俗の側から進めたのがドイツ(神聖ローマ)皇帝たちで、1103年、ハインリヒ4世によるマインツでの帝国平和令を嚆矢として以後中世末期まで度々発令される「ラント平和令」が知られる。(5山田欣吾著「第4章 叙任権闘争の時代」(成瀬治, 山田欣吾, 木村靖二 編著(1997)『ドイツ史(1)先史~1648年 (世界歴史大系)』山川出版社,196-198頁)

神の平和運動の影響

聖職者、騎士、農民(十三世紀)

「聖職者、騎士、農民(十三世紀)」(Source “Cleric, Knight and Workman representing the three classes”, a French School illustration from Li Livres dou Santé (late 13th century, vellum), MS Sloane 2435, folio 85, British Library/Bridgeman Art Library.,Unknown authorUnknown author., Public domain, via Wikimedia Commons)


「神の平和」運動と同時期に提唱されるようになったのが「祈る人(聖職者)」「戦う人(王・貴族・騎士)」「耕す人(農民・市民)」という三身分である。カンブレー司教ゲラルドゥスは「神の平和」運動に批判的だったが、それは社会が「祈る人」「耕す人」「戦う人」の三身分で構成されており、祈る人である聖職者と耕す人である民衆たちの運動が王権に属する事柄を求めていることを危惧してのことであった。

「聖職者は祈るために、国王は戦うために任命されている。それゆえ、力によって騒擾を抑圧し、戦争を阻止し、平和な交際を広げるのは国王の任務である。祈ることで勝利へと導くように、国王をして祖国の安全のために勇敢に戦わせるのが司教の任務である。それゆえ、この決議はすべての者にとって危険である。」(6「カンブレー教会史」(1024-36)の孫引き。山内進(2017)『増補 十字軍の思想 (ちくま学芸文庫)』筑摩書房,68頁

ゆえに、ゲラルドゥスは神の平和運動を批判する文脈で社会が「祈る人」「耕す人」「戦う人」の三身分で構成されていることを明らかにして、その職分を各々守ることで秩序を確立するよう説いたが、その三身分の確立に大きな影響を及ぼすのが、まさにこの神の平和運動であった。(7山内進(2017)67-69頁
すなわち、神の休戦は週四日の休戦を定めたが残り三日の戦闘行為を容認したとも解釈できる、限定的な平和運動であり、結果として騎士たちの地位を保証するものとなった。また、これまで聖職者の武装や戦闘行為は珍しくなかったが、この運動を経て聖職者たちの武装解除が進み、同時に彼らの支配に服する非武装の農民層の出現も促し、身分の分離が進むことになった。(8松本宣郎(2009)145頁

これらは「理念の面からみれば、キリスト教による戦士のアイデンティティの公認」(9松本宣郎(2009)145頁)といえる。このようなキリスト教的な戦士のアイデンティティはやがて弱者を守る騎士道というモラルへと昇華されていくが、教会はこの騎士道理念の形成に積極的に関与した。騎士叙任式など宗教的儀礼が取り入れられて、神の戦士として騎士が位置づけられていく。(10松本宣郎(2009)146頁

神の平和運動が騎士のアイデンティティを確立させていく過程で重要な決議が1054年ナルボンヌでの司教会議である。同会議では神の休戦を定めるにあたって「キリスト教徒にキリスト教徒を殺させるなかれ。キリスト教徒を殺すものが、キリストの血を流すことになるのは疑いの余地がないからである」(11ギース、フランシス(2017)『中世ヨーロッパの騎士 (講談社学術文庫)』講談社,32頁)としたが、これによって、騎士たちはキリスト教徒以外を殺すことは正当化されることになる。すなわち、神の平和運動は十字軍の思想へと導かれていくのである。

1095年11月27日、教皇ウルバヌス2世はクレルモン宗教会議において十字軍勧説演説を行ったが、教皇はまず神の休戦による騎士たちの団結を唱え、続けて聖地奪還と異教徒討伐を訴えている。(12八塚春児(2008)『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い (NHKブックス)』NHK出版,37-38頁

残酷な戦乱を終わらせ平和をもたらすべく始まった運動は、異教徒の殺戮を正当化する聖戦の理念へと帰結していった。

参考文献

脚注

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