2021年12月14日
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フィリップ・ド・コニャック

フィリップ・ド・コニャック(フランス語”Philippe de Cognac”)はイングランド王リチャード1世の庶子。後にフィリップ・ザ・バスタード(Philip the Bastard)の名でウィリアム・シェイクスピアの史劇「ジョン王」の主要登場人物として描かれた。1180年頃生-1201年以降没。

フィリップ・ド・コニャックの生涯

「リチャード1世の肖像画」(メリー=ジョセフ・ブロンデル作、1841年、ヴェルサイユ宮殿美術館収蔵)

「リチャード1世の肖像画」(メリー=ジョセフ・ブロンデル作、1841年、ヴェルサイユ宮殿美術館収蔵)
Public domain, via Wikimedia Commons

フィリップ・ド・コニャックについてわかっていることは非常に少ない。フィリップは後のイングランド王リチャード1世の庶子として1180年頃に生まれ、1190年代末までに成人を迎えた。母は不明だがアキテーヌ地方出身の女性であるという(1ペルヌー、レジーヌ(2005)『リチャード獅子心王』白水社57-58頁)。

父リチャードは1169年、フランス王ルイ7世の娘アデライードと婚約したが、リチャードの父ヘンリ2世はアデライードを人質として利用するため、リチャードとの結婚を進めようとしなかった。リチャード自身も乗り気ではなかったようで、ヘンリ2世がフランス側の再三の要請にこたえて1177年、結婚の実現に前向きになっても、リチャードは先延ばしにしていた(21177年、ローマ教皇の調停でルイ7世とヘンリ2世が会見し十字軍への参加同意などとあわせてリチャードとアデライードの結婚を進めることについても合意している(ルゴエレル、アンリ(2000)『プランタジネット家の人びと』白水社、文庫クセジュ63頁))。このリチャードとアデライードの結婚問題がアデライードの姉マルグリットを妃とするリチャードの兄ヘンリ若王の不満となり(3ペルヌー(2005)50-51頁)、1183年におきた兄弟対立の遠因の一つになっている。結局不履行のまま人質状態におき続け、婚約から22年後の1191年に婚約解消した。フィリップはこのリチャードの長い独身期間の間にできた庶子である。

リチャード1世はフィリップをフランス南西部アキテーヌ公領ジャルナック領主の娘アメリ・ド・ジャルナックまたはコニャック(4フランス語” Amélie de Jarnac ”,”Amélie de Cognac”,英語”Amelia of Cognac”アメリア・オブ・コニャック)と結婚させた。フィリップにはジャルナック領内のコニャック城が与えられたことからフィリップ・ド・コニャックと呼ばれる。しかし、妻アメリが亡くなると、リチャード1世はコニャック城を取り上げ、有力武将のロバート・オブ・ソーナム(Robert of Thornham)(5ロバート・オブ・ソーナムはリチャード1世の信頼厚い有力武将。第三回十字軍に参加し1191年のキプロス征服で艦隊の指揮を執るなど軍功多数。アンジュー地方のセネシャル(代官、在任1196-99)。1211年没。)に与えた。なお、コニャック城は後にフランス王フランソワ1世(1494年生)の生誕地として知られることになる。

1199年4月6日、父リチャード1世がリモージュ副伯アデマール5世(Adémar V de Limoges)の反乱の渦中で流れ矢に当たって亡くなった。リチャード1世に仕えた年代記作家ロジャー・オブ・ハウデン(Roger of Howden)の「年代記(Chronica)」によれば、フィリップ・ド・コニャックは父の復讐のため、同年、アデマール5世を殺害したという(6Roger of Howden, Chronica, vol. 4, p. 97.)。ただし、アデマール5世が1199年中に亡くなってはいるものの、フィリップによる殺害が事実かどうかは定かではない。

その後のフィリップについて、1201年のパイプ・ロール(財務記録)に”Et Philippo f. R. Ricardi 1 m. de dono R.(And to Philip, son of King Richard, one mark as a gift,リチャード王の子フィリップへ贈り物として一つの印)” とあるという(7文面はWikipedia contributors, ‘Philip of Cognac’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 15 November 2021, 01:34 UTC, https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Philip_of_Cognac&oldid=1055293976 [accessed 6 January 2022]より。出典とされているのは” Pipe Roll for the Third Year of the Reign of King John.”)。この記録を最後に、十三世紀の早い時期に亡くなったとみられている。

シェイクスピア「ジョン王」のフィリップ・ザ・バスタード

フィリップ・ド・コニャックは1590年代に執筆されたウィリアム・シェイクスピアの史劇「ジョン王(ジョン王の世と死” The Life and Death of King John”)」の中でフィリップ・ザ・バスタード(Philip the Bastard,庶子フィリップ)ことフィリップ・ファルコンブリッジ(Philip Faulconbridge)の名で登場して広く知られることになった。同作ではレディ・ファルコンブリッジ(Lady Faulconbridge)という架空のキャラクターをフィリップの母としている。

参考文献

脚注

  • 1
    ペルヌー、レジーヌ(2005)『リチャード獅子心王』白水社57-58頁
  • 2
    1177年、ローマ教皇の調停でルイ7世とヘンリ2世が会見し十字軍への参加同意などとあわせてリチャードとアデライードの結婚を進めることについても合意している(ルゴエレル、アンリ(2000)『プランタジネット家の人びと』白水社、文庫クセジュ63頁)
  • 3
    ペルヌー(2005)50-51頁
  • 4
    フランス語” Amélie de Jarnac ”,”Amélie de Cognac”,英語”Amelia of Cognac”アメリア・オブ・コニャック
  • 5
    ロバート・オブ・ソーナムはリチャード1世の信頼厚い有力武将。第三回十字軍に参加し1191年のキプロス征服で艦隊の指揮を執るなど軍功多数。アンジュー地方のセネシャル(代官、在任1196-99)。1211年没。
  • 6
    Roger of Howden, Chronica, vol. 4, p. 97.
  • 7
    文面はWikipedia contributors, ‘Philip of Cognac’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 15 November 2021, 01:34 UTC, https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Philip_of_Cognac&oldid=1055293976 [accessed 6 January 2022]より。出典とされているのは” Pipe Roll for the Third Year of the Reign of King John.”
Kousyou

「Call of History - 歴史の呼び声 -」主宰者。世界史全般、主に中世英仏関係史や近世の欧州・日本の社会史に興味があります。

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