リチャード・ド・ルーシー

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リチャード・ド・ルーシー(”Richard de Lucy”または” Richard de Luci”,1089頃/1098頃-1179年7月14日1英語版wikipediaでは” Richard de Luci”で立項されている(Wikipedia contributors, ‘Richard de Luci’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 25 December 2021, at 22:28 UTC, https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Richard_de_Luci&oldid=1062047877 [accessed 6 January 2022])。また、誕生年について英語版wikipediaでは1089年、Britannica(Richard de Lucy | English justiciar | Britannica)では表記なく、Geniでは1089頃とするページと1098頃とするページがある。日本語文献では生没年についての情報はみあたらず、この記事ではひとまず「1089年頃」と「1098年頃」を併記した。)は中世イングランドの政治家。ヘンリ1世、スティーヴン王、ヘンリ2世三代のイングランド王に仕え、1154年から死の直前まで宰相にあたる行政長官(Chief Justiciar)としてアンジュー帝国運営の実務を統括した。

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ヘンリ1世、スティーヴン王時代

1130または1131年2月のセー大聖堂(現在のノルマンディー地域圏オルヌ県セーのノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Sées))の憲章にヘンリ1世が彼と彼の母について言及した記録がある(2Wikipedia contributors, ‘Richard de Luci’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 25 December 2021, at 22:28 UTC, https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Richard_de_Luci&oldid=1062047877 [accessed 6 January 2022]/該当部分の記述の出典として” Knowles, Dom David The Monastic Order in England: From the Times of St. Dunstan to the Fourth Lateran Council Second Edition Cambridge: Cambridge University Press 1976 reprint” p. 589が挙げられている。)。続く1135年、アンジュー伯ジョフロワ5世による包囲戦で軍功を挙げたことへの恩賞として、ヘンリ1世からノルマンディー地方ファレーズ総督だったリチャード・ド・ルーシーに対しノーフォーク地方の都市ディス(Diss)が与えられている(3Wikipedia contributors, ‘Richard de Luci’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 25 December 2021, at 22:28 UTC, https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Richard_de_Luci&oldid=1062047877 [accessed 6 January 2022])。

ヘンリ1世死後、後継者に指名されていた王女マティルダとその夫アンジュー伯ジョフロワ5世に対し、1135年、王族モルタン=ブーローニュ伯エティエンヌがイングランドに上陸してイングランド王スティーヴンとして即位したことで、1139年より内戦が勃発。このとき、ルーシーはスティーヴン王を支持し、1143年にエセックスの行政官(justiciar)兼州長官(sheriff)になった(4Richard de Lucy | English justiciar | Britannica)。1153~54年、スティーヴン王の子ブーローニュ伯ギヨーム1世より、エセックスのチッピング・オンガー(Chipping Ongar)市を譲られ、居城オンガー城を築いた(5Wikipedia contributors, ‘Richard de Luci’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 25 December 2021, at 22:28 UTC, https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Richard_de_Luci&oldid=1062047877 [accessed 6 January 2022])。

ルーシーは『現在まで伝えられているスティーヴンの証書のうち一三五通で認証者となっている』(6キング、エドマンド(2006)『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会86頁)ことから、スティーヴン王治世下の重要な閣僚であったとみられている。また、1153年のスティーヴン王とアンジュー伯アンリ・プランタジュネ(後のヘンリ2世)の協定ではウィンザー城とロンドン塔の城代として記録されている(7キング、エドマンド(2006)『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会86頁)。

行政長官への就任

アンジュー帝国

アンジュー帝国
Credit: Cartedaos , CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

1154年、アンジュー、ノルマンディー、メーヌ、ポワトゥー、アキテーヌを獲得したアンリ・プランタジュネは死去したスティーヴン王との生前の約束に基づいてイングランド王に即位し、イングランドからフランスの北部・西部に至る広大な版図を領することになった。このヘンリ2世の支配領域はアンジュー帝国と呼ばれる。

ヘンリ2世は即位に際して有力諸侯・王族五人を顧問官に任じた。スティーヴン王派から第二代レスター伯ロバート・ド・ボーモン、初代アランデル伯(サセックス伯)ウィリアム・ドーヴィニーとリチャード・ド・ルーシー、アンジュー派から母マティルダとヘンリ1世の庶子である初代コーンウォール伯レジナルド・ド・ダンスタンヴィルの五人である(8キング(2006)86-88頁/同書から名前や爵位等一部情報を補足・修正してある。)。

あわせて、第二代レスター伯ロバート・ド・ボーモンとリチャード・ド・ルーシーの二人を、ロジャー・オブ・ソールズベリー死後空席となっていた行政長官に任じ、国政を統括させた。また、1156年、ルーシーはエセックスの高位州長官(high sheriff)にも任じられている(9Wikipedia contributors, ‘Richard de Luci’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 25 December 2021, at 22:28 UTC, https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Richard_de_Luci&oldid=1062047877 [accessed 6 January 2022])。レスター伯が亡くなった1168年以降はルーシーが単独で行政長官職を務めた。

行政機構の整備とベケット事件

ヘンリ2世は内戦の収拾を図り、広大な所領を統治するため改めて行政長官を頂点として司法・財政・行政機構を再編し、領主間紛争の調停のため裁判制度の充実や公文書管理を徹底させ、徴税システムを確立して内政面で目覚ましい成果を上げたが、これを統括していたルーシーの手腕は大きかった。

1162年、ヘンリ2世は前年に亡くなったカンタベリー大司教セオバルドの後任に信頼厚い尚書部長官(Lord Chancellor、大法官)トマス・ベケットを就けると、懸案だった聖職者への裁判権拡充を目指し、1164年、クラレンドン法を制定する。このクラレンドン法の主な起草者としてルーシーは名を連ねていたが、同法を巡ってトマス・ベケットは王と激しく対立し、ベケットはルーシーを「異端的罪悪の考案者」(10キング(2006)101頁)と名指しで批判し破門を宣告した。

ベケットはフランスへ亡命し1170年に殺害されるが、1173年、これを遠因としてトマス・ベケットに師事していたヘンリ若王が王としての権限拡充を求め、諸侯や弟たちを巻き込んで、フランス王ルイ7世と結び反乱を起こす。ヘンリ若王が求めた実権を握っていたのはルーシーであった。

アンジュー帝国の事実上の副王

1173年から74年の反乱においてヘンリ2世がノルマンディー、アンジュー、イングランド北部で反乱軍と戦っていたとき、ルーシーは残りの領土全体にわたってヘンリ2世の支配を維持するために尽力し、反乱鎮圧に多大な功があった。

『リチャード・ド・ルーシー殿は、ほかの者にはできないことですが、戦争を遂行するうえで主君にとって大きな助けとなりました。』(11キング(2006)110頁

ヘンリ若王は弟のアキテーヌ公リシャール(後のリチャード1世)、ブルターニュ公ジョフロワ2世らとともに降伏したが、戦後、ヘンリ2世は行政機構を再編し、この頂点に立ったルーシーは事実上副王と呼べるほどに力を持った。

権限の一つは1176年の裁判改革による国王裁判権の強化と巡回裁判の徹底、州長官の監督で、ルーシーと御猟林長官アラン・ド・ネヴィルがともにこの監督権限を行使した。もう一つが同じく1176年から進められた行政再編成で、アンリ・ルゴエレルによれば『一一七六年以降、ヘンリ2世は行政組織を地方分権化し、「帝国」の各部門の長に自主管理の責任ある長官をすえ』(12ルゴエレル、アンリ(2000)『プランタジネット家の人びと』白水社、文庫クセジュ59-60頁)、この統括者としてリチャード・ド・ルーシーが『摂政としての権威で事にあたっていた』(13ルゴエレル(2000)60頁)という。

1179年の復活祭前後、ルーシーは前年に自ら建てたレスネズ修道院(Lesnes Abbey)に退き、同7月14日に亡くなった。レスネズ修道院はベケットの死に対する贖罪のために建てたものであったという(14Richard de Lucy | English justiciar | Britannica)。

レスネズ修道院( Lesnes Abbey)の遺構

レスネズ修道院( Lesnes Abbey)の遺構
Credit: Ethan Doyle White, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

参考文献

脚注