2021年12月14日
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ロベール2世(フランス王)

ロベール2世(敬虔王、仏 Robert II le Pieux )はカペー朝第二代のフランス王(在位996年10月22から25日の間-1031年7月20日)。父はカペー朝初代フランス王ユーグ・カペー、母はアキテーヌ公ギヨーム3世の娘アデライード・ダキテーヌ。972年頃オルレアンで生まれ、1031年7月20日、ムランで亡くなった。敬虔王(le Pieux)の異名はフルリィ修道士エルゴ(ヘルガルドゥス)がロベール2世の伝記『ロベール敬虔王の生涯』で彼の敬虔な面を強調して描いたことに由来する(1岡地稔著「付録 あだ名リスト」71頁(岡地稔(2018)『あだ名で読む中世史―ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる』八坂書房)/エルゴによるロベール2世の伝記の書名は佐藤賢一(2009)『カペー朝 フランス王朝史1』講談社、講談社現代新書、42頁)。

ランスの神学者ジェルベール・ドーリャック(仏 Gerbert d’Aurillac 、945頃-1003。2後のローマ教皇シルウェステル2世(在位999-1003)ロイン、ヘンリー・R.(1999)『西洋中世史事典』東洋書林、274頁)の下で学んで教養を身につけ、987年7月3日、父ユーグ・カペーがフランス王に選出されると同年12月25日、共同王として即位した。ユーグ・カペーにとって後継者との共同戴冠は脆弱な王権の世襲化を成し遂げるための苦肉の策だったが、以後、フィリップ2世によってフランス王権の急速な拡大がなされるまで代々後継者を共同王として即位させる慣習が続いた(3宮松浩憲著「第四章 カペー朝・封建時代」(柴田三千雄(1995)『フランス史(1)先史~15世紀 (世界歴史大系) 』山川出版社、184頁))。

「フランス王ロベール2世の肖像画」

「フランス王ロベール2世の肖像画」(Merry-Joseph Blondel,1837,ヴェルサイユ宮殿美術館収蔵, Public domain, via Wikimedia Commons)

結婚問題

「ロベール敬虔王の破門( L'Excommunication de Robert le Pieux)」(ジャン=ポール・ローランス(Jean-Paul Laurens),1875,オルセー美術館収蔵, Public domain, via Wikimedia Commons)

「ロベール敬虔王の破門( L’Excommunication de Robert le Pieux)」(ジャン=ポール・ローランス(Jean-Paul Laurens),1875,オルセー美術館収蔵, Public domain, via Wikimedia Commons)

988年、イタリア王ベレンガーリオ2世の娘でフランドル伯アルヌール2世の未亡人ロザーラ・ディタリー(仏 Rozala d’Italie 、フランドル伯ボードゥアン4世の母)と結婚したが、ロザーラはかなり年長で子供も生まれず、お互いそりがあわなかったようで、ロベールはブルグント王コンラートの娘でブロワ伯ウードの妻ベルト・ド・ブルゴーニュ(仏 Berthe de Bourgogne)に好意を抱くようになった。

ユーグ・カペーの死とともに、ロベール2世は夫を失い未亡人となったベルトとの結婚を進めようとするが、ブロワ伯家は当時カペー王家最大の支持者であったアンジュー伯家と対立関係にあったから、ブロワ伯未亡人と王との結婚はアンジュー伯を怒らせ離反させる危険性があった(4ライス、ローラン(2018).「非力な王のまことに目立たぬ死 ユーグ・カペー――九九六年」(ゲニフェイ、パトリス(2018)『王たちの最期の日々 上』原書房、57頁))。また、ロベールの父方の祖母とベルトの母方の祖母は姉妹であったから、近親相姦にあたるとして教会に無効と判断される可能性もあった。997年、結婚を強行するが、時の教皇グレゴリウス5世によって破門を宣告され、後に七年の改悛の業に緩和、師のジェルベールが教皇に就任(シルウェステル2世)したことで五年に短縮される(5佐藤賢一(2009)44頁)。結局、教皇シルウェステル2世の反対とベルトに子供が生まれなかったこともあって、1001年に離婚した。

1003年、アルル伯およびプロヴァンス伯ギヨーム1世の娘コンスタンス・ダルル(仏 Constance d’Arles )と結婚する。コンスタンス妃はアンジュー伯フルク2世の娘アデライード・ダンジューを母としており、アンジュー伯家との関係強化につながる結婚であるとともに、アデライードは西フランク王ルイ5世との結婚経験もあり、カロリング王家との繋がりを得られる結婚でもあった。コンスタンス妃との間に嫡男ユーグ、次男アンリ(フランス王アンリ1世)、ロベール(ブルゴーニュ公ロベール1世)など四男二女の子供が生まれている。ただ、コンスタンス妃は気性が激しく、1010年、ロベール2世はローマ教皇セルギウス4世を訪れて結婚無効を訴えているが、却下されている(6佐藤賢一(2009)45頁)。

神の平和運動と異端弾圧

カール大帝死後の内戦と王国の分裂、ヴァイキングの侵攻などによってフランク王権の弱体化が進んだ結果、諸侯・城主層が台頭して各地で戦いが繰り広げられ九世紀頃から無秩序状態が続いた。これを憂いた聖職者たちが中心となって十世紀末頃から始めたのが農民や教会の財産を保護し、貴族層に停戦を呼びかける「神の平和」運動である。領内の治安維持や他領主との争乱に苦心していた大規模領主層や王権の回復を目指す諸王がこれを支持して十一世紀頃にかけて大きな運動として展開するが、王権の強化を目指すロベール2世もこの運動の最大の支持者のひとりとなっている(7松本宣郎(2009)『キリスト教の歴史(1)初期キリスト教~宗教改革』山川出版社、 宗教の世界史、144頁)。

フランク王権の弱体化と社会の無秩序化によって、フランク王権を庇護者としていた教会が新たに封建諸侯に頼るようになり教会の世俗化が進んだことで、教会の不正や聖職者の堕落が広がり、これに対して教会改革運動が盛り上がった。クリュニー修道院などを中心とした福音的・禁欲的な修道院生活を目指す運動とともに、民衆の間では個々にキリスト教の教えを解釈する動きが見え始める。このような教会の権威に服さない民衆の信仰運動は多くが異端として罰されるようになった。特に西暦1000年頃から「異端」の動きが活発化していく(8野口洋二著「第九章 中世のキリスト教」(柴田三千雄(1995)440頁))。

ロベール2世も教会との協調関係から異端の弾圧を度々行っている。特に大きなものとしては1022年、オルレアンでの異端弾圧がある。

『サント=クロワ大聖堂参事会員のひとりとサン=ピエール参事会教会の総長にして王妃コンスタンスの聴罪司祭を務める僧、いずれも非常に教養があり聖性の模範とされていたこのふたりの高位聖職者が、まぎれもない宗教セクトを作り、十人ほどの聖職者と数人の一般信徒を引きずりこんだとして告発されたのである。謀議の最中に逮捕され、ロベール信心王[在位は九九六頃~一〇三一]が主宰する公会議に出頭したふたりは、公式に身分を剥奪され、信奉者たちとともに、一〇二二年のクリスマスの日に火刑に処された。裁判が終わり、王が聖堂を立ち去ろうとしたそのとき、王妃コンスタンスは持っていた杖を振り上げ、彼女の聴罪司祭の片目を潰した。』(9ロクベール、ミシェル(2016)『異端カタリ派の歴史 十一世紀から十四世紀にいたる信仰、十字軍、審問』講談社、講談社選書メチエ、81頁

ブルゴーニュ公領継承権の獲得

五世紀、ゲルマン人の大移動に際してブルグント族が建国したブルグント王国は後にフランク王国に臣従、フランク王国の分裂により東西に分断され西フランク王国に属する旧ブルグント王国西部がブルゴーニュ公領、東フランク王国に属する東部がブルグント伯領となった。初代ブルゴーニュ公リシャールの子ラウルは西フランク王となったが後継者が無く弟ユーグ黒公、その義弟ジルベールと続いたのちブルゴーニュ公家は断絶、ロベール家(カペー家)に継承権が移り、ジルベールの娘婿だったユーグ・カペーの弟オトンがブルゴーニュ公となった。そのオトンの系統もオトンの子尊者アンリの死(1002年)によって断絶したことで後継者争いが勃発した。

候補者は尊者アンリの甥フランス王ロベール2世と、尊者アンリの養子ブルグント伯オットー=ヴィルヘルムである。両者の争いは十三年におよび、1015年、ロベール2世がブルグント伯軍を撃退してブルゴーニュ公領継承権を獲得し次男アンリに統治を託した。1031年、ロベール2世の死とアンリの即位にともない、三男ロベールがブルゴーニュ公位に就いて1361年のフィリップ・ド・ルーヴルの死まで続くカペー=ブルゴーニュ家の支配がはじまることになる。以後、ブルゴーニュ公家はカペー王家に忠実な領邦として大きな力となった(10カルメット、ジョゼフ(2000)『ブルゴーニュ公国の大公たち』国書刊行会、13-25頁)/朝比奈誼著「II古代から中世へ」(饗庭孝男(1998)『フランスの中心 ブルゴーニュ 歴史と文化』小沢書店、43-54頁))。

王位継承と死

1017年、ロベール2世は長子ユーグを共同王として戴冠させたが、1025年、ユーグが亡くなり、1027年、今度は次男ヘンリを戴冠させる。父王同様、王在任中の後継者の戴冠の慣習を彼も続けた。1030年、コンスタンス王妃に使嗾されたアンリとロベールの二人の王子が反乱を起こし、ロベール2世はボージャンシーに籠城。二人の反乱を鎮めることができないまま、1031年7月20日、亡くなった(11佐藤賢一(2009)45-46頁)。

彼の時代はいまだカペー家の影響力はパリ周辺に留まりその支配体制も脆弱であったが父王から受け継いだフランス王位は子に引き継がれて王位継承に成功した。フランス王としてはその異名の通り敬虔さで知られて結婚問題でのいざこざはありつつもローマ教会との関係を維持し、神の平和運動や異端狩りなどの宗教政策を通して外交的にも存在感を発揮した。当時のフランスでは城塞建築ブームが訪れ、中小領主が城を拠点とした支配領域「シャテルニー」を確立して経済力を蓄え地位の上昇を果たし始める「領主制の時代」を迎え始めていた(12渡辺節夫「第六章 中世の社会――封建制と領主制」(柴田三千雄(1995)281-289頁))。ロベール2世の治世はフランス社会が大きく変貌する時代に当たっていたのである。

妻子

  • ロザーラ・ディタリー(Rozala d’Italie)最初の妻、イタリア王ベレンガーリオ2世の娘、フランドル伯アルヌール2世の未亡人
  • ベルト・ド・ブルゴーニュ(Berthe de Bourgogne)二番目の妻、ブルグント王コンラートの娘、ブロワ伯ウードの妻
  • コンスタンス・ダルル(Constance d’Arles)三番目の妻、アルル伯およびプロヴァンス伯ギヨーム1世の娘
  • アリックス(Alix de France)コンスタンス・ダルルとの子、ヌヴェール伯ルノー1世妃
  • ユーグ(Hugues de France)コンスタンス・ダルルとの子、フランス共治王
  • アンリ(Henri I)コンスタンス・ダルルとの子、フランス王アンリ1世
  • アデル(Adèle de France) コンスタンス・ダルルとの子、ノルマンディー公リシャール3世妃、のちフランドル伯ボードゥアン5世妃
  • ロベール(Robert de France)コンスタンス・ダルルとの子、ブルゴーニュ公ロベール1世
  • ウード(Eudes)不明

また、ダマルティン伯マナセ(Manassès de Dammartin,1037没)の妻コンスタンスをロベール2世とコンスタンス妃の間の子とする説も有力である(13Wikipedia contributors, ‘Robert II le Pieux’, Wikipedia, The Free Encyclopedia, 5 December 2021, 18:29 UTC, https://fr.wikipedia.org/w/index.php?title=Robert_II_le_Pieux&oldid=188586003 ,.

参考文献

脚注

Kousyou

「Call of History - 歴史の呼び声 -」主宰者。世界史全般、主に中世英仏関係史や近世の欧州・日本の社会史に興味があります。

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