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民会(古ゲルマン)

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「民会(ディング,” Thing “)」は古ゲルマン人部族社会において意思決定を行った会議体。『武装能力を有する自由人男子が特定の期日に集まり、部族にとって重要な問題について協議した。』(1シュルツェ、ハンス・クルト(1997)『西欧中世史事典―国制と社会組織 (MINERVA西洋史ライブラリー)』ミネルヴァ書房,18頁)。スカンディナビア半島を中心にアイスランド、ブリテン諸島、フリジア(現在のドイツからオランダにかけての北海沿岸地域)などで見られた。なお、歴史用語としては古代ギリシアのエクレシア(ギリシア語 “ἐκκλησία ”,英語” Ecclesia ”)、共和制ローマ期のコミティア(ラテン語” Comitia “)も同じく民会と訳される。

民会の様子(Source:Müller-Baden, Emanuel (Hrsg.): Bibliothek des allgemeinen und praktischen Wissens, Bd. 2. – Berlin, Leipzig, Wien, Stuttgart: Deutsches Verlaghaus Bong & Co, 1904. – 1. Aufl.) Public domain, via Wikimedia Commons

民会の参加条件は部族に属する武装能力を有する自由身分であることで、年一回か二回の定期集会と、必要に応じて随時開催される臨時集会からなる。主な議題は開戦・和平の決定、重大な裁判、若者への武器の授与、郷や村など個々の地域で裁判権を行使する首長(プリンケプス)および軍事指導者の選出などであった。会議の参加者は全員武装して集まり、賛意を示すときにはフラメア(手槍)を互いに打ち鳴らしたという。

『11 会議(民会)
小事には首長たちが、大事には部民全体が審議に掌わる。しかしその決定権が人民にあるような問題も、あらかじめ首長たちの手許において精査されるという仕組みである。図らざる、そして突発の事件が起こらないかぎり、彼らは一定の時期、すなわち新月、あるいは満月の時を期して集会する。これが事を起こすに、最も多幸なるはじめの時と、彼らは信じているからである。しかし彼らはわれわれのように昼の数を算えることはなく、もっぱら夜の数を算える。これに従って彼らは日取りを定め、これに従って彼らは約束をする。あたかも夜が昼を導くかのようである。ところがここに、自由に由来する彼らの欠点として、彼らは決して一時に、また命令どおりに参集することがない。第二日、あるいは第三日も、集まる彼らの躊躇のために費やされる。集まった彼らがよしと思ったとき、彼らは武装のまま着席する。そしてこのとき、拘束の権を有する司祭たちによって沈黙が命じられる。やがて王あるいは首長たちが、それぞれの年齢の多少、身分の高下、戦功の大小、弁舌の巧拙に相応して、いずれも命令の力よりは、説得の権威をもって傾聴される。もしその意見が意に適わないとき、聴衆はざわめきの下にこれを一蹴する。しかしもし
、意に適った場合、彼らはフラメアを打ちならす。最も名誉ある称賛の仕方は、武器をもって称賛することである。』(2タキトゥス著/泉井久之助 訳註(1979)『ゲルマーニア (岩波文庫 青 408-1)』岩波書店,65-66頁

古ゲルマン人部族社会における民会の地位について、十九世紀、古ゲルマン人社会を一般自由人が主体の比較的自由で平等な社会であると捉える古典学説の中で独立した自由人から構成された直接民主制・原始共産制的な部族社会の最高意思決定機関と考えられていたが、二十世紀に入って古ゲルマン人社会はある程度階層分化がなされ貴族支配が進んでいたとする貴族支配制説が有力となったことで、民会についても、首長たちは『あらかじめ首長たちの手許において精査されるという仕組み』=先議権をもち、民会の決議にかけられる前にあらかじめ議案が精査されて『民会では拒否か承認かの採決だけがおこなわれたので、事実上それは首長たちの下審議で決定したであろう』(3成瀬治, 山田欣吾, 木村靖二 編著(1997)『ドイツ史(1)先史~1648年 (世界歴史大系)』山川出版社,23頁)として、古典学説ほどには重視されないが、それでも部族の主要政策を決定する最重要の会議体であったと考えられている。

『拘束の権を有する司祭たちによって沈黙が命じられる』とある点について、シュルツェによれば司祭が処罰権をもって民会の平和の確保を宣言する「ヘーリング」の儀式のことで、裁判や集会が開催される場所の安全を保障する『古来からの法慣習のひとつであり、全中世から近世初頭にいたるまで維持された』(4シュルツェ(1997)11頁)。このような民会の平和と祭祀の平和の維持から派生した部族平和の保持の観念は中世初期の国王平和の観念へと発展し、後に中世の国王たちが『王国内の平和の守護者』(5シュルツェ(1997)11頁)とみなされるようになったという。

部族は政治組織であると同時に祭祀共同体でもあったから、民会=部族集会は祭祀集会としての顔を持っていた。

『政治組織としての部族と祭祀共同体としての部族の緊密な関係は、いたるところできわめて明確に認められる。政治制度としての部族集会と祭祀集会は、しばしば一致していた。集会開催地は同時に礼拝所であり、部族集会は部族の聖地の近くで行われた。』(6シュルツェ(1997)21頁

『ゲルマーニア 12 司法』では民会における裁判の手続きや法の執行が定義され、裁判権を有するプリンケプスの任命について記されている。また、『13 武装と扈従』では民会によって構成員が武装を受けるに値するかどうか判断された上で武装が与えられ、部族の正員として認められること、身分に応じて若くして指導的立場が与えられ、扈従を率いることなど民会の役割が伺える。

ゲルマン人の部族社会が拡大してフランク王国や東西ゴート王国など広域的な国家が成立していくことで民会のような部族集会の意義は低下し徐々に消滅していったが、スカンディナヴィア半島やブリテン諸島などゲルマン系の影響下で古代の国制が残った地域ではヴァイキングやアングロ=サクソン系諸部族の間で民会に類似の部族集会が存続することになった。

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参考文献

脚注

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