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パリ条約(1259)

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「パリ条約” Treaty of Paris”」は1259年12月4日にフランス王ルイ9世とイングランド王ヘンリ3世との間で結ばれた条約。フランス・カペー王家に対しイングランド・プランタジネット(アンジュー)王家が臣従礼を捧げることで、ヘンリ2世とアリエノール・ダキテーヌの結婚以来続く両国間の紛争を終結させ、平和的に維持可能な関係をもたらしたが、反面、同条約に内包される矛盾が後の英仏百年戦争(1337-1453)の遠因となった。

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パリ条約の背景

987年、ユーグ・カペーが西フランク(フランス)王に選出されたとき、彼の領地はパリとその周辺(イル・ド・フランス)に限られ、有力諸侯が王の支配を脅かす群雄割拠の戦国時代を迎えていた。1066年、ノルマンディー公ギヨーム2世ウィリアム1世としてイングランド王位に就き、イングランド王国とノルマンディー公領を版図とするアングロ・ノルマン王国を樹立する。1154年、ヘンリ2世がイングランド王として即位し、ブリテン島からフランスの西半分(イングランド王国、ノルマンディー公領、アンジュー伯領、ポワトゥー伯領、アキテーヌ公領、ブルターニュ公領(1166~)と多数の周辺領地)を支配する広大なアンジュー帝国が誕生した。

1180年、フィリップ2世がフランス王に即位すると、アンジュー帝国とフランス王国の対立は激しさを増した。フィリップ2世は国力を蓄え、ヘンリ2世死後、リチャード1世、ジョン王と抗争を続け、1205年までにアンジュー帝国はイングランドとアキテーヌ公領(ガスコーニュ地方)を除きフィリップ2世の支配下に入った。1214年、失地回復をもくろむジョン王の画策による神聖ローマ帝国と諸侯の連合軍をブーヴィーヌの戦いでフィリップ2世軍が破ったことで、初代ユーグ・カペー以来はじめてフランスの大半を統治下に置くフランス王となった。

その後、ヘンリ3世のノルマンディー遠征やポワトゥー伯領のリュジニャン家支配によるフランスからの離反と鎮圧などがあったものの、フィリップ2世による征服地と次代のルイ8世によって併合された南フランスがフランス王国領として維持され、両国関係が対立から交渉へと移るなかで新たな枠組みを必要とするようになった。それが1258年5月28日に合意され、1259年10月13日にイングランド王ヘンリ3世が署名し、12月4日にフランス王ルイ9世によって批准されたパリ条約である。

パリ条約は英仏関係だけではなくガスコーニュへの権利を主張していたカスティーリャ、アラゴン両王との関係からも重要で、1254年にカスティーリャ王はヘンリ3世との交渉でガスコーニュの権利を破棄し、1258年1月にはアラゴン王とフランス王との間でコルベイユ条約が締結され、フランス王はバルセロナ伯領を、アラゴン王は『モンペリエとルーシヨンの権利を放棄することで,両王権の及ぶ範囲を決定している』(1横井川雄介(2008)「13世紀後半のガスコーニュにおける上訴問題と現地領主の上級領主観 : パリ高等法院への上訴の考察を中心に」(『史泉107巻』、40頁)

パリ条約の内容と問題点

「パリ条約」(1259年10月13日付ヘンリ3世署名、フランス国立中央文書館収蔵)

「パリ条約」(1259年10月13日付ヘンリ3世署名、フランス国立中央文書館収蔵)Public domain, via Wikimedia Commons


パリ条約は以下の三つの条件からなる。

  1. イングランド王ヘンリ3世は北西フランスの旧領であるノルマンディー、アンジュー、メーヌ、トゥレーヌ、ポワトゥーへの権利を放棄する。
  2. ヘンリ3世はアキテーヌ公としてガスコーニュをルイ9世から封土として受領する。
  3. ヘンリ3世はルイ9世から新たにリモージュ・カオール・ペリグーの三都市およびリムーザン、ケルシー、ペリゴールの三司教区を受け取る。ただし三司教区にはフランス王とアキテーヌ公どちらに帰属するか選択権が与えられる(2朝治啓三,渡辺節夫,加藤玄(2012)『中世英仏関係史 1066-1500:ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社、71頁)。

概ね条約締結時の現況を追認したこれらの条件は多くの問題を孕んだ。

条件1)は事実上アンジュー帝国時代の大陸領土の放棄だが、これで最もダメージを追うのはイングランド王家ではなく貴族達である。元々英仏双方に領地を持ちフランス側領地は英仏抗争の過程で奪われただけで権利は保持しており失地回復の希望を持ち続けていた。

条件2)によりイングランド王はアキテーヌ公としてフランス王と封建的主従関係を結ぶことになる。封建的主従関係は臣従礼と呼ばれる儀礼によって成立する。臣従礼を行うことによって主君は領地を授け家臣は奉仕の義務を負う封建的契約関係が成立する。主君と家臣それぞれ代替わりするごとに臣従礼が行われ、その都度主従関係が再構築される。

パリ条約に基づくフランス王とイングランド王の場合、両者間で臣従礼の行使をやりやすくするため『イングランド王本人ではなく代理人によって忠誠宣誓を行うこと、長子であるエドワード(のちのエドワード一世)にアキテーヌの封と権利を委譲し、フランス王に対する封建的奉仕義務を負わせること』(3朝治啓三,渡辺節夫,加藤玄(2012)72頁)で合意された。その上でイングランド王は臣従礼上生じる封建的奉仕等は事実上許容されつつ、フランス王は主君として生じる優越権をイングランド王に対して行使する可能性を残すことになった。

条件3)で生じる管轄と境界の曖昧さは1279年のアミアン条約で一部改正されるが、三司教区の特権関係が後に百年戦争の前哨戦とされるサン・サルドス戦争(1323-25)の引き金になっていく。同戦争の発端はイングランド王=アキテーヌ公領のサン・サルドスに三司教区内の修道院の分院が築かれる際、修道院側がフランス王と領主権を分有する契約を結んだことで訴訟となり、これが英仏間の武力衝突へ発展したものだった。このサン・サルドス戦争で対英強硬派として戦争を主導したのがヴァロワ伯シャルル、すなわち百年戦争開始時のフランス王フィリップ6世の父であった。

『一二〇四年の決裂以来放置されていたカペー・アンジュー両家のあいだの関係を修復したこの条約はとくに後者からみてつぎのような問題をはらんでいた。第一にアンジュー家の支配が認められた範囲が明確でなく、第二にアンジュー家はその在仏所領に関する限りカペー家の封建的上訴管轄権のもとにおかれることになり、第三に双方の代替わりのたびにアンジュー家の当主はカペー家の当主に臣従礼をおこなわねばならなかった。』(4城戸毅「第十章 イングランド身分制国家の展開」(青山吉信(1991)『世界歴史大系 イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社、394頁)

支配領域の不明確さは度々権益や領土紛争の原因となり、フランス王は上訴権を背景としてアキテーヌ公領への介入を強化しようとする。これらはガスコーニュ戦争、サン・サルドス戦争などの武力紛争としても現れるようになり、イングランド王は対抗として臣従礼の内容や是非、行う時期などを外交カードとして利用した。特にフィリップ4世死後、フランス王が相次いで変わると代替わり毎の臣従礼をいつ行うか、その内容は形式的な「単純臣従礼 “ hommage simple”」か、奉仕義務を伴う「一身専属的臣従礼 “ hommage lige”」か、等が外交交渉上の大きな議題となっていった。

この関係から生じる政治的、法律的な緊張が1330年代になるとますます厳しくなり、他の様々な要因や利害が複雑に絡み合って、両者間で交渉による解決が不可能となったとき、「百年戦争」が始まることになるのである。

参考文献

脚注

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