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ウェドモア条約

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ウェドモア条約(Treaty of Wedmore)またはウェドモアの和約(Peace of Wedmore)は878年、ウェセックス王国アルフレッド大王とヴァイキングの指導者グスルムとの間で戦われたアルフレッド大王後の講和条約。グスルムに対し、ウェセックス領からの撤退とキリスト教への改宗を求めた。後にアルフレッド大王とグスルムの間で締結された両者の領土を画定し貿易や人命金などについて定めたアルフレッド・グスルム条約(Treaty of Alfred and Guthrum, 886年?)とは別のものだが、一般的に混同されることが多く、両条約あわせて「デーンロー」誕生の契機として位置づけるのが通説となっているものの議論がある。

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ウェドモア条約

八世紀末から始まるヴァイキングの活動は九世紀半ばから本格化した。850年代までは個々の集団がブリテン諸島から大陸沿岸にかけて襲撃や略奪を行っていたが、865年、ヴァイキング勢力は複数のデーン人指導者からなる連合を組み、一つの大規模な集団、通称「大軍勢1“The Great Army”古英語”micel here”/または大異教徒軍”The Great Heathen Army”古英語”mycel hæþen here”)」として活動を開始する。ノーサンブリア王国イースト・アングリア王国が「大軍勢」の前に相次いで滅亡し、875年、マーシア王国へ侵攻、傀儡王を立ててマーシア王国の半分を事実上支配下に置いた。

878年1月、ヴァイキングの指導者の一人グスルム率いる「大軍勢」がウィルトシャー北部チッペナムのウェセックス王領に侵攻して占領下に置き、ここを拠点としてウェセックス王国の征服に乗り出した。危機に瀕したアルフレッド大王は一時サマーセットの沼沢地アセルニーに避難した後、態勢を立て直してチッペナム奪還のため軍を整え、5月、エディントンの戦いでヴァイキング軍を降伏させた。

この戦いのあとアルフレッド大王とグスルムの間で結ばれた講和の取り決めがウェドモア条約である。具体的な内容についてはアルフレッド大王に仕えた司祭アッサーが893年頃に著した「アルフレッド王の生涯」に詳しく、アルフレッド大王の命で九世紀末から編纂が開始された「アングロ・サクソン年代記」にも同様の記述がある。

『(前略)人質が受け渡されると、異教徒らは、さらに、すみやかに彼の王国から立ち去るということ、また、彼らの王であるグスルムがキリスト教を受け入れ、アルフレッド王の手で洗礼を受けること、これらのことを約束した。(中略)三週間後、異教徒らの王グスルムは、彼の軍団から選りすぐった三十人の家来をともなって、アセルニー近くのアラーと呼ばれるところまで、アルフレッド王に謁見に来たのである。アルフレッド王は彼を教子として受け入れ、聖なる洗礼盤から彼を抱き上げた。八日目に、聖香油帯を解く儀式がウェドモアと呼ばれる王領地で行われた。受洗が行われたあと十二日間、彼は王のもとに滞在していた。』(2アッサー/小田卓爾訳(1995)『アルフレッド大王伝』中央公論新社、中公文庫、98頁、一部改変の上で引用

エディントンの戦いで降伏した際にヴァイキング軍から多くの人質がアルフレッド大王に預けられ、戦いから三週間後の5月末から6月上旬頃、サマーセット州アセルニーに近いアラーでアルフレッド大王の手でグスルムが受洗した。初期のキリスト教の秘跡では受洗式に続いて堅信礼が行われた。堅信礼では細帯を頭に巻き、一週間後に細帯を解く儀式が行われる。これがサマーセット州のウェドモアで行われ、グスルムの改宗が完了した。「アングロ・サクソン年代記」の890年の条によると、洗礼名はアゼルスタン(Æthelstan)であったという。また、このときあわせてウェセックス王国からの撤退も約束され、880年、グスルムがイースト・アングリアの征服地に帰還することで履行された。この二点がウェドモア条約の内容となるが、条約文書は現存しておらず、また文書化されたかも定かではない。

アルフレッド・グスルム条約

ウェドモア条約の後しばらくして、新たにアルフレッド大王とグスルムの間で恒久的な和平条約が締結された。条約は5つの条項からなり、第一条でウェセックス王国とグスルムの領土(旧イースト・アングリア王国)の境界を画定し、テムズ川から支流のリー川を遡り、源流からベッドフォードを経由してワトリング街道までとした。イングランド南部のうち南西部をウェセックス王国に、南東部をヴァイキング=デーン人の領土に分割する条項である。第二条で人命金、第三条で人身売買の代償を定め、第四条で奴隷や家畜購入時の保証人の必要性、第五条で両国間の貿易の安全保障を取り決めている。条約締結の場所や締結時期については定かではないが、時期についてはウェドモア条約締結後グスルムが帰国した880年から890年のグスルムの死までのいずれかの時期で、特にウェセックス王国によるグスルム支配下のロンドン奪還が実現した886年以降が有力視されている(3田中研治(2015)「<研究ノート>英語史関連文献等における「ウェッドモア協定」の扱いについて」(神戸薬科大学(2015)『神戸薬科大学研究論集 : Libra 15』1-40頁)19-20頁)。

条文の古英語版写本が残されており、”Cambridge, Corpus Christi College 383″としてケンブリッジ大学に収蔵されている。以下は現代英語訳の引用。

“This is the peace that King Alfred and King Guthrum, and the witan of all the English nation, and all the people that are in East Anglia, have all ordainedand with oaths confirmed, for themselves and for their descendants, as well forborn as for unborn, who reck of God’s mercy or of ours.

1. Concerning our land boundaries: Up on the Thames, and then up on the Lea,and along the Lea unto its source, then straight to Bedford, then up on the Ouse unto Watling Street.

2. Then is this: If a man be slain, we estimate all equally dear, English and Danish, at viii half marks of pure gold; except the ceorl who resides on rentedland and their [the Danes’] freedmen; they also are equally dear, either atcc. shillings.

3. And if a king’s thegn be accused of manslaying, if he dare clear himself onoath, let him do that with 12 king’s thegns. If any one accuse that man whois of less degree than the king’s thegn, let him clear himself with xi of hisequals and with one king’s thegn. And so in every suit which may be more thaniv mancuses. [A money of account representing thirty pence] And if he darenot, let him pay for it threefold, as it may be valued.

4. And that every man know his warrantor in acquiring slaves and horses andoxen.

5. And we all ordained on that day that the oaths were sworn, that neitherbond nor free might go to the host without leave, no more than any of them tous. But if it happen that from necessity any of them will have traffic with usor we with them, with cattle and with goods, that is to be allowed in thiswise: that hostages be given in pledge of peace, and as evidence whereby itmay be known that the party has a clean back.”(4Translated in Albert Beebe White and Wallce Notestein, eds., Source Problems in English History (New York: Harper and Brothers, 1915).,Medieval Sourcebook:Alfred and Guthrum’s Peace. Fordham University.)

両条約とデーンロー

「九世紀のウェセックス王国とデーンロー」

「九世紀のウェセックス王国とデーンロー」
Credit: Hel-hama, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

デーンローとは、デーン人の法律を意味し、ブリテン島においてヴァイキングとしてやってきたデーン人ほかスカンディナヴィアを出自とした人々が移住・征服しデーン人の法律が施行されていた領域を指す。九世紀後半には旧ノーサンブリア王国からイースト・アングリア王国にかけてのブリテン島東部の広い範囲に広がっていた。

デーンローという言葉の初出は1008年、ヨーク大司教ウルフスタンがイングランド王エゼルレッド2世のために起草した法典でイングランドにおける旧ウェセックス王国地域の法と旧デーン人居住地域の慣習を比較して使用した語で、十二世紀頃から旧スカンディナヴィア人支配地域全体を指す言葉として使われるようになったものである。このため同時代には登場しない言葉であった(5田中研治(2015)33-35頁)。なお、同時代にデーンロー地域を総体として捉える概念があったのか否かについては議論がある(6原征明(2005)「【研究ノート】ヴァイキングとアングロ・サクソンイングランド再考――デーンロウ(Danelaw)地帯をめぐって(1)――」(東北学院大学学術研究会『東北学院大学論集. 経済学158 』391-408頁))。

ウェドモア条約およびアルフレッド・グスルム条約をデーンロー成立の契機と位置づける見方が通説となっているが、前者はあくまでエディントンの戦いの休戦とグスルムの受洗を定めたもので、後者はデーンローとされる領域のうちブリテン島南東部とウェセックス王国の間の境界を定めたものに過ぎず、デーンロー地域全体の境界には特に触れられていない。このため、両条約をもってデーンロー成立の契機とする見方については疑問視する見解(7田中研治(2015))があり、むしろ九世紀後半のブリテン島に比較的安定した政治状況を作り、イングランドの政治的共同体とキリスト教文化にスカンディナヴィアの人々を統合する基礎を形成したと評価されている(8Meyer, Maria Melanie.(2008). The Treaty of Alfred and Guthrum – Sociolinguistic Background and Linguistic Analysis,Munich, GRIN Verlag.)。

参考文献

脚注