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トリノウァンテス族

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トリノウァンテス族(Trinovantes / 英語読みでトリノヴァンテスとも表記される)は鉄器時代からローマン・ブリテン時代にかけてブリテン島南東部、現在のエセックス州・ハートフォードシャー州・サフォーク州にかけての一帯に居住していた部族。大陸から移住してきたベルガエ人の一派とも言われるが定かではない。首邑はカムロドゥノン(1ローマン・ブリテン時代の属州首都カムロドゥヌム、現在のコルチェスター市)。部族名は諸説あるが「活気のある人々」を意味するケルト語の組み合わせと解釈されている(2Trinovantes – Roman Britain”)。

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トリノウァンテス族の歴史

「ローマ支配以前のブリテン島南部諸部族勢力地図」

「ローマ支配以前のブリテン島南部諸部族勢力地図」
Yorkshirian , CC BY-SA 4.0 ,via Wikimedia Commons

トリノウァンテス族の名はユリウス・カエサルの「ガリア戦記” De Bello Gallico”」に初めて登場する。「ガリア戦記」によれば、当時テムズ川以北に勢力を誇ったカッシウェッラウヌスによってトリノウァンテス族の王であった父を殺されたマンドゥブラキウスがカエサルの下に亡命しており、紀元前54年の第二次ブリテン島侵攻時、現地のトリノウァンテス族はカエサルにローマ軍によるトリノウァンテス領の防衛およびマンドゥブラキウスの帰国と即位を請願した。トリノウァンテス族は人質や穀物の供出と引き換えにカエサルの支援でマンドゥブラキウスは帰国して王となったという(3Julius Caesar, De Bello Gallico, 5.20/カエサル(1994)『ガリア戦記』講談社、講談社学術文庫、168頁)。

史料に現れるトリノウァンテス族の王はマンドゥブラキウスが最初となるが、ガリア戦記の写本の中にはマンドゥブラキウスの父の名としてイマヌエンティウス(Imanuentius)やイマヌウェンティトゥス(Imanuventitus)等と書かれているものがある(4カエサル(1994)200頁)。ただし、彼らについてはガリア戦記以外に言及がなく貨幣などの考古学的な面でも裏付けることはできない。

「ハートフォードシャー州ブラウイングで発見されたBC30-BC10年頃のアッデドマルス王の金貨」(1919年発見)

「ハートフォードシャー州ブラウイングで発見されたBC30-BC10年頃のアッデドマルス王の金貨」(1919年発見)
Credit:© The Trustees of the British Museum ,Museum number 1855,0820.1, Creative Commons Attribution-NonCommercial-ShareAlike 4.0 International (CC BY-NC-SA 4.0) .

トリノウァンテス族の支配地域周辺から多数出土している貨幣から、紀元前30年頃から前10年頃にかけて、アッデドマルス(Addedomarus)という人物が支配していたことが明らかになっており、この時期、マンドゥブラキウスに替わってアッデドマルスがトリノウァンテス族の王となっていたと考えられている。

また、発行された貨幣の分布状況から、同王時代、トリノウァンテス族の首邑はハートフォードシャー州ブラウィング(Braughing)から現在のエセックス州コルチェスター市にあたるカムロドゥノン(カムロドゥヌム)へ移ったとみられるが、考古学的な調査では、最も古いカムロドゥノンの遺構は紀元前50年代に遡ることが明らかになっており(5big history: crossing the Rubicon” , The Colchester Archaeological Trust online, 10 January 2015.)、トリノウァンテス族の首邑がいつ頃からカムロドゥノンになったかは明確ではない。

紀元前15年頃から前10年頃にかけて、隣接するカトゥウェッラウニ族の王タスキオウァヌスがカムロドゥノンで貨幣を発行していることから、トリノウァンテス族はカトゥウェッラウニ族の勢力拡大によって首邑カムロドゥノンを奪われていたとみられる。紀元前10年頃、アッデドマルス王の子ドゥブノウェッラウヌス(Dubnovellaunus)が王位を継ぎ、同時期にカムロドゥノンを奪還したが、後にカトゥウェッラウニ族クノベリヌス王によって再度カムロドゥノンを奪われ、トリノウァンテス族もカトゥウェッラウニ族の支配下に入った。

ローマ皇帝アウグストゥスの治世を記録した「神君アウグストゥス業績録” Res Gestae Divi Augusti”」に、西暦8年頃アウグストゥス帝の元を請願に訪れたブリタニアの王としてアトレバテス族のティンコマルス王とともにドゥブノウェッラウヌス王の名が挙げられており(6Res Gestae Divi Augusti 32)、おそらくカトゥウェッラウニ族の圧迫に関してローマに助けを求めたとみられる。

西暦43年、ローマ軍のブリテン島侵攻が開始、クラウディウス帝自ら率いるローマ軍はカトゥウェッラウニ族が占拠していたカムロドゥノンを攻略し、同地でブリトン人諸部族の王11人を臣従させた。以後、カムロドゥノンはカムロドゥヌムと名を変えクラウディウス神殿やローマ軍の駐留基地などが築かれて属州ブリタニアの州都へと変貌する。

クラウディウス帝のブリタニア侵攻(43年)
「クラウディウス帝のブリタニア侵攻(Claudian invasion of Britain)」は西暦43年、クラウディウス帝の命でアウルス・プラウティウス率いるローマ帝国軍がブリテン島へ侵攻、現地のブリトン人部族と交戦して服従させた戦争のこと。後にクラウディウス帝自ら親征し、ブリテン島南部をローマ帝国の属州とした。以後、属州の支配地域は拡大し、五世紀初頭(409-410年頃)にローマ帝国軍が撤退...

属州体制下でトリノウァンテス族は被護王国(Client Kingdom)の一つとしてローマ帝国の支配に忠実だったが、西暦60年、イケニ族の女王ボウディッカの反乱に際してはこれまでの親ローマの方針を一変させて反乱軍に参加した。タキトゥスによれば「この蜂起はトゥリノバンテス族を謀叛にそそのかした」(7Tacitus, Annals 14:31/タキトゥス(1981)『年代記(下) ティベリウス帝からネロ帝へ』岩波書店、岩波文庫、200頁)という。翌61年、ボウディッカの反乱が鎮圧されて以降、トリノウァンテス族がどうなったかは定かではない。

「西暦43-47年のローマ軍侵攻と各部族の地図。黄色は各部族の貨幣発行拠点」

「西暦43-47年のローマ軍侵攻と各部族の地図。黄色は各部族の貨幣発行拠点」
Credit: my work, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons

「ブリタニア列王史」での再利用

十二世紀、ジェフリー・オブ・モンマスによって創作された「ブリタニア列王史” Historia Regum Britanniae”」でトリノヴァンテスの名前は伝説の都市名として再利用された。同作ではトロイア戦争の英雄アエネアスの末裔でブリタニア王国の創始者となった伝説の初代王ブルートゥスが築いたブリタニアの都で、「トロイア・ノヴァ=新トロイア」の意味を込めて名付けられたという。後にカッシウェッラウヌス王をモデルにしたブリタニア王カッシベラウヌスの弟ルッドが「ルッドの街」を意味する「カールルッド(Kaerlud)」に変えたことで一族の対立を招いたという(8Historia Regum Britanniae 1.16 / ジェフリー・オヴ・モンマス(2007)『ブリタニア列王史 アーサー王ロマンス原拠の書』南雲堂フェニックス、35頁)。

同作で描かれるカエサルのブリテン島侵攻では前述のルッドの子でマンドゥブラキウス王をモデルにしたトリノヴァントゥム公アンドロゲウスという人物が登場し、カッシベラウヌスと対立してカエサルに助けを求め、のちに臣従する展開が描かれている(9Historia Regum Britanniae 3.19,4.1-10/ ジェフリー・オヴ・モンマス(2007)86頁、91-104頁)。

参考文献

脚注

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