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日本史(書籍)

「喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)」清水 克行 著

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現代社会でも法制度としては無いが慣習として少なからずみられる『ケンカした両者に対して、その正否を論ぜず同等の処罰を与える』(P4)法、すなわち「喧嘩両成敗法」の成立の歴史を、十五世紀の室町時代から戦国時代にかけての社会に焦点を当てて描いた、非常に面白い一冊。

中世室町期社会は一言で言うと自己救済社会であった。闘争は日常茶飯事で、対立を解決するために当事者はまず力の行使を率先して行い、小さな闘争が一気に政権を揺るがすほどの大事件にまで発展しうる。同書では様々な事件が紹介されているが、特に当時の社会を理解する要素が詰まった面白い事件が応永二十六年(1419)六月の事件であった。同書から簡単に要約して紹介しよう。(以下同書P69-72よりまとめ)

京都の本結屋(髪を結う紐を売る商人)に主人の命で注文した本結を受け取りに来た下女は、注文した商品がまだできていないことに怒り、苦情「悪口」を述べると、その「悪口」に怒った本結屋は下女を殴打の上で足蹴にし、さらに彼女の髪を切ってしまった。

屈辱を受けた下女は主人の元に帰るや事の次第を報告、主人は貴族三条公光に仕える若侍で、怒り心頭の彼は主家に報復を願い出ようと三条家に急ぐ。これに対して本結屋は実は幕府近習関口氏と主従関係を結んでおり、下女主人の動きを察知した彼は関口氏家臣の同輩に連絡、仲間数人とともに三条家付近で下女主人を待ち伏せして襲撃する。下女主人も応戦し本結屋を含めた相手数名を倒して自身も絶命した。

これに怒ったのが三条家の下女主人の同輩たちで、関口氏配下の集団に復讐戦を挑み、両勢力は京都一条室町の大路で市街戦を展開、多数の死傷者を出し数で勝った関口氏が勝利を収めるが、その勝利に酔った勢いで三条邸を襲撃、これを見かねた足利一門の名門吉良俊氏が三条氏側に助勢、関口氏は足利一門今川氏の庶家で、今川氏の本家筋が吉良氏だったから、さすがに関口氏は撤退せざるをえなくなった。この事件を受けた四代将軍足利義持は関口氏当主を譴責、三条氏の自重と奮戦を賞賛したという。

ちょっとした商人と下女の諍いが殺し合いになり市街戦になり武家と公家の攻防から足利一門を巻き込んで最後は室町殿まで登場するという室町オールスターズ総出演な怒涛の展開の事件だが、実はこういう事件は珍しくなかったようだ。これには十五世紀当時の社会が持っていた三つの特徴がある。

第一に強い名誉意識である。これは武家だけでなく庶民に至るまで身分の別無く持っており、体面を傷つけられることに対して強い憤りを覚えていた。これは主従関係という秩序の維持より重んじられることも少なくなかったため、後の「下剋上」の気風を生む要因ともなっていた。上記の例でも悪口を言われた本結屋、殴打の上髪を切られた下女、下女主人などいずれも体面を傷つけられての暴力行為に及んでいる。

第二に復讐を正当と見なしていた点が挙げられる。親族を殺された復讐を行う親敵討や妻を寝取った間男を殺害する女敵討などは当時の慣習として正当性が認められ、また、自害時に復讐したい相手のことを書き残す復讐としての切腹も見られていた。上記の例でも同輩を殺された三条家の臣たちが復讐戦に挑み、それを当然のこと受け止められている。

第三に所属集団の損害を自己の痛みとして受け止める集団主義の存在である。当時は武家も公家もそれぞれの屋形は幕府も介入できない治外法権的空間であった。ゆえにトラブルがあったときに逃げ込める有力な武家・公家の屋形を持つのは安全保障として当然のことで、諸身分とも武家や公家と主従関係を結び、その集団に対する帰属意識・同胞意識が強く存在していた。ゆえに、上記の例のように、一商人でも武家と主従関係を結び、各々の紛争が一気に各々の所属集団を巻き込んでの大規模な対立に発展しやすかった。

上記の三つの特徴とともに、公権力の法とは別の様々な法慣習が存在しており、多元的な法秩序の衝突が紛争に拍車をかけたとされている。幕府も諸々の紛争処理法を定めてはいたが、基本的には慣習に従うかたちでの体制維持を進めており、紛争抑止の手法は上からではなく、当事者間の折衝を通して形成されていった。

復讐を正当なものとして認める観念がある一方で無暗な殺人を良しとしない観念もまたあり、その対立する二つの観念の間で、当事者双方の損害を同等とすることを重視するようになり、復讐の行き過ぎを戒める衡平感覚と、損害を等価となるよう調整する相殺主義が発展、「折中の法」と呼ばれる双方に過失が認められないときは、損害を二分させる慣習法が広く見られた。また、紛争を仲裁する「中人制」、犯人の身代りとして、殺されるのではなく相手の名誉心を満たすために送られる「解死人制」などが存在していた。

中世社会においては『「真実」や「善悪」の究明はどうでもよく、むしろ彼らは紛争によって失われてしまった社会秩序をもとの状態にもどすことに最大の価値を求めていた』(P130)と考えられている。ゆえに、「折中の法」の発展として、戦国時代に分国法として「喧嘩両成敗法」が登場することになるが、「喧嘩両成敗法」はいずれも応戦をしなければ、負傷した側が勝訴とされる旨の条件付きであった。基本的には両成敗をすることではなく、紛争の防止の方に目的があったとされる。

従来、「喧嘩両成敗法」は中央権力による『強圧的な秩序形成策』(P196)とする見方が強かったが、むしろ『社会のなかで形成された紛争解決の法慣習の蓄積』(P196-7)であり、複数あった紛争解決策の中の一つであったという。「喧嘩両成敗法」は紛争解決策の有力な一つとして法慣習の蓄積の上に成立して拡大したが、一方で戦国時代から江戸時代へと『「自力救済から裁判へ」というかたちに収斂』(P197)していく過程で、公権力の裁判重視の姿勢と矛盾することともなり、江戸時代には喧嘩両成敗法は制度としては採用されなくなっていく。しかし、社会には両成敗を求める意識が強く残ることともなり、現代社会までその理非を問わず、双方の損害を同等とすることを良しとする喧嘩両成敗的法思想が根強く残り続けた。

以上のようなプロセスを、資料を丁寧に読み解くことで鮮やかに描いており、法思想史、日本中世史、また裁判や紛争、法と秩序について学びたい人には絶好の一冊になっている。特に喧嘩両成敗の歴史を振り返ることで浮かび上がる”秩序維持か真理究明か”という基本的と言って良い問いは、現代社会の司法制度を考えるためにも今こそ非常に有用な問いかけになるのではないかと思う。

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