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人物

ケニス・マカルピン

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ケニス・マカルピン(英語:Kenneth MacAlpin, ゲール語:Cináed mac Ailpin, 現代スコットランド・ゲール語:Coinneach mac Ailpein/ケニス1世)は九世紀半ば頃のスコットランド地方の君主。ピクト王(在位843年頃-858年2月13日)。スコット人のダルリアダ王国の王家出身で、ピクト王に即位することで両王国の統合を実現した。彼と弟ドナルド1世(在位858-862年)の二人の血統によって継承された王朝(アルピン朝)は、孫のドナルド2世(在位889-900年)の時代以降アルバ王国と呼ばれて後に中世スコットランド王国へ発展した。中世のスコットランド王家は自らの王朝の正統性と権威確立のためケニス・マカルピンを通じて伝統あるダルリアダ王家の末裔と主張、ケニス・マカルピンの逸話も後世に記されたものがほとんどであるため、実像ははっきりしない。

ケニス・マカルピン肖像画(ヤコブ・ヤコブシュ・デ・ヴェット画、1684-86頃、ロイヤル・コレクション RCIN 403356、パブリックドメイン)

ケニス・マカルピン肖像画(ヤコブ・ヤコブシュ・デ・ヴェット画、1684-86頃、ロイヤル・コレクション RCIN 403356、パブリックドメイン)
Credit: Jacob Jacobsz. de Wet , 1684-86 , Royal Collection, RCIN 403356.,Public Domain.

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ピクト王国とダルリアダ王国

ローマ帝国のブリテン島支配が終わった五世紀以降のブリテン島北部では、フォース湾以南にブリトン人が自立して多数の部族国家を形成、フォース湾以北は北東部にローマ属州時代(43年-409/410年)からブリテン島北部の先住民として属州の北辺を脅かしたピクト人が引き続き勢力を持ち、北アイルランドから進出したスコット人が南西部アーガイル地方とノース海峡をまたぐ海峡国家ダルリアダ王国を築いた。

「十六世紀頃に描かれたピクト人のイラスト」(ニューヨーク公共図書館収蔵) Credit:Veen, Gijsbert van, Public Domain, The Miriam and Ira D. Wallach Division of Art, Prints and Photographs: Art & Architecture Collection, The New York Public Library. (1757 - 1772). Habit of a Pict. Ancient Pict. Retrieved from https://digitalcollections.nypl.org/items/510d47e4-81b0-a3d9-e040-e00a18064a99

「十六世紀頃に描かれたピクト人のイラスト」(ニューヨーク公共図書館収蔵)
Credit:Veen, Gijsbert van, Public Domain, The Miriam and Ira D. Wallach Division of Art, Prints and Photographs: Art & Architecture Collection, The New York Public Library. (1757 – 1772). Habit of a Pict. Ancient Pict. Retrieved from https://digitalcollections.nypl.org/items/510d47e4-81b0-a3d9-e040-e00a18064a99


ピクト人の勢力はハイランド地方南東部に南ピクト王国、北東部に北ピクト王国の二勢力に大きく分かれ、北ピクト王国はカイト(Cait),フィダッハ(Fidach)、ケ(Ce)の三王国、南ピクト王国はフォルトリウ(Fortriu)、フィブ(Fib)、キルキン(Circinn)、フォトラ(Fotla)の四王国から構成される(1木村正俊(2021)『スコットランド通史 政治・社会・文化』原書房、50頁/久保田義弘(2013a)「中世スコットランドのピクト王国」(『札幌学院大学経済論集 6』2-3頁))。ピクト人諸王国の中で現在のストラスアーン(Strathearn)あるいはマリ(Moray)からイースターロスにかけての地域を支配(2伝統的にはストラスアーンと考えられてきたが、近年はマリやイースターロスにあった可能性も有力となっている)していたフォルトリウ王国がドゥーン・ネフタンの戦い(685年)でノーサンブリア王国に勝利した結果、南部ピクト諸王国の中でフォルトリウ王国の上級支配権が確立されたとみられ(3「アルスター年代記」の693年の条にブリデ3世死亡とともに「フォルトリウ王(Rex Fortrenn)」の称号が付されているのがフォルトリウ王の初出で、南部ピクト人を従えるようになっていたとみられる(常見信代(2017)「史料と解釈 : スコットランド中世史研究の問題」(『北海学園大学人文論集 (62)』25-52頁)41頁/チャールズ=エドワーズ(2010)66頁)、八世紀、オエンガス1世(在位731-761年)によってピクト王国が統一された。
「西暦590年頃のダルリアダ王国(緑)」 Credit:Briangotts, Public domain, via Wikimedia Commons

「西暦590年頃のダルリアダ王国(緑)」
Credit:Briangotts, Public domain, via Wikimedia Commons


一方、ダルリアダ王国は637年のマグ・ラスの戦いで北アイルランドのイー・ネール王朝に敗れて北アイルランドのダルリアダ領を喪失したことから大きく弱体化、682年にはピクト王国によって首都ドゥナド(Dunadd)を占領されるなどピクト王国に対し劣勢となっていった。「アルスター年代記(Annals of Ulster)」(4十五世紀にアイルランドで編纂された年代記形式の歴史書だが、中世期のアイルランドで作成された他の年代記群同様、「アイルランド年代記(Chronicle of Ireland)」と呼ばれる現在は失われた共通の原本に基づいていると言われ、670年頃以降の記述は同時代的な記録であると考えられている(チャールズ=エドワーズ、トマス(2010)『オックスフォード ブリテン諸島の歴史(2) ポスト・ローマ』慶應義塾大学出版会、374-375頁))によれば、736年、ピクト王オエンガス1世(在位732-761年)の侵攻を受けて敗北し、741年、ピクト王国に従属を余儀なくされた。以後、ダルリアダ王国はピクト王国の宗主権下となり、792年に亡くなったドンゴイルケ王(Donncoirce)を最後にダルリアダ王の記録は途絶え、ピクト王がダルリアダ王を兼ねたとみられている(5久保田義弘(2013b)「中世スコットランドのダル・リアダ王国―― ダル・リアダ王国の伝説と最盛期から衰退までの変遷 ――」(『札幌学院大学経済論集 6』71-72頁))。

「アルスター年代記(Annals of Ulster)」によると、839年、フォルトリウ(=ピクト王国)の王族ら多数の人々が異教徒(ヴァイキング)との戦いで死んだという(6“The heathens won a battle against the men of Foirtriu, and Eóganán son of Aengus, Bran son of Óengus, Aed son of Boanta, and others almost innumerable fell there.”(The Annals of Ulster.U839.9))。この結果、ピクト王国では王位継承を巡る争いが起こり、ダルリアダ王国はピクト王国の支配から脱して再びダルリアダ王家から王を出すようになったとみられている。

スコットランド王家の始祖

元来、スコットはアイルランドの人々を指し、スコット人の住む地域を意味するスコティア(Scotia=スコットランド)もアイルランドのことであったが、十世紀頃からフォース川北部のスコットランド中部地域に住むゲール系スコット人の土地を指すようになり、アルバ王国がアングル人のロージアン地域やブリトン人のストラスクライド王国へ徐々に勢力を拡大していくにつれてアルバ王国の支配地域をスコティアと呼ぶようになった。その後、アレグザンダー2世(在位1214-1249年)の治世下でともと別個に存在していたダルリアダ、ピクト、スコットランド諸王家の系譜が一つながりのものとしてまとめられ、対イングランド戦争が本格化していく十四世紀にかけてスコットランド独自の建国物語が作り出された(7常見信代(2001)「スコットランドと「運命の石」 : 中世における王国の統合と神話の役割(<特集>共同研究報告 : 欧米諸国における多文化の問題と日本の課題(続))」(『北海学園大学人文論集 (19)』69-72頁)/チャールズ=エドワーズ(2010)359頁)。

このような過程でスコットランド王家はアイルランド神話の神々に由来するというダルリアダ王家の末裔(=スコット人)として語られるようになり、ダルリアダ王家の出自といわれるケニス・マカルピンはスコットランド王家の始祖として位置づけられた。ケニス・マカルピンに関する記述はこのようなスコットランド王家が権威付けられていく時期に書かれたものがほとんどであるため、何が事実で何が事実でないかについて様々な議論があり、確実なことはほとんど無い。

生涯

ケニス・マカルピンの父アルピンの名は十世紀末頃に作成されたダルリアダ王家の系譜に登場する。アルピンはダルリアダ王家の出身でダルリアダ王に即位したがピクト王国との戦いで戦死したという。「アルバ諸王の年代記(Chronicle of the Kings of Alba、十四世紀半ば)」にはケニス・マカルピンがピクト王に即位する二年前にダルリアダ王に即位したとあり(8Chronicle of the Kings of Alba (c.850-c.975)” Internet Medieval Sourcebook. Fordham University.)、彼がダルリアダ王位を継承したのは840-841年頃と考えられている(9近年はケニス・マカルピンのダルリアダ王即位が疑問視されており、ダルリアダ王ではなかった可能性もある(久保田(2013a)3頁)。また「アルバ諸王の年代記」にはケニス・マカルピンがピクト人の領土を支配した最初のスコット人とあるがこの部分は後世に挿入された記述である可能性が高いという(常見(2017)36頁))。

839年のヴァキングの攻撃によるピクト王家の断絶後、ウウラド(在位839-842年)、ブリデイ6世(在位842年)の二人の王が相次いでピクト王に即位したがいずれも短命政権に終わった。複数のピクト王名表にはケニス・マカルピン即位後に当たると考えられる時期に他にピクト王を称した三人の王の名が記されており、ピクト王国の支配を分けていたとみられている。最後のピクト王とされるドルスト10世(在位845-848年)死後、ケニス・マカルピンはピクト王国を統一支配下に置いた。十二世紀ウェールズ地方出身の歴史家ギラルドゥス・カムブレンシスは即位前のケニス・マカルピンがドルスト10世らピクト王族をスクーンに招いて酒宴中に謀殺しピクトとダルリアダを統一したという逸話を書き記しているが、史実とは信じられていない。

ケニス・マカルピンは即位後、ピクト王の王宮があったとみられるピクト王国南部、現在のストラスアーン近郊にある王都フォーティヴィオト(Forteviot)に入ったとみられる。ケニス・マカルピンによってピクト王国が征服されたとする見方が伝統的に通説となっていたが現在は疑問視されており、フォーティヴィオトに建っていた高十字架(ハイクロス)のダプリン・クロス(Dupplin Cross)は従来はケニス・マカルピンのピクト王国征服を記念して造られたものと考えられていたが1995年の調査で表面に刻まれた人名がより古く八世紀末から九世紀初め頃のピクト王コンスタンティン(在位789年頃-820年)であることが判明した(10常見(2017)38-40頁)。このダプリン・クロスが破損なく残されている点やフォーティヴィオトに防衛設備などの遺構がみられないことからケニス・マカルピンのピクト王位継承は平和裏に行われたと考えられている(11常見(2017)43頁)。

また、従来はケニス・マカルピンの即位後にスコット人が大量に移住してピクト王国のスコット化が進んだとみられていたが、近年の研究では既に七世紀にはダルリアダ王家とフォルトリウ王家とが婚姻を通じて関係が深まり、八世紀にダルリアダ王国がピクト王国の宗主権下となってからピクト人地域へのスコット人の定住が進んで、九世紀にヴァイキングの襲撃が始まってからはスコット人の移住が加速していたとみられている(12常見(2017)37-38頁)。この過程についてはゲール語のスコットランド地方への拡大要因を巡る議論があり(13Campbell, Ewan.(2001). “Were the Scots Irish?” in Antiquity No. 75 . pp. 285–292.)など)未だ結論が出ていないが、少なくともケニス・マカルピンの征服によるものとする単純な見方は否定されている。

「アルバ諸王の年代記」には848年または849年頃ケニス・マカルピンが聖コルンバの聖遺物をパースシャーのダンケルド(Dunkeld)へ移すよう命じたとの記録がある。これらを保管するためにダンケルドに新たに建てられた教会が後にダンケルド修道院となり、スコットランドにおけるキリスト教布教の中心地として発展したと伝統的に信じられている。一方、”Chronicon Scotorum”によれば、818年に聖コルンバの聖遺物がスコットランドへ移されたとの記述もあり、安全のため二分されたのではないかとも言われるが事実関係は明らかでない(14久保田(2013a)3頁)。

同じく「アルバ諸王の年代記」によれば、ケニス・マカルピン在位中、王はイングランドのノーサンブリア王国を6回侵略し、ダンバー(Dunber)とメルローズ(Melrose)を占領して焼き払った。一方で周辺の諸勢力からの侵攻も受け、ブリトン人のストラスクライド王国によってパースシャーの都市ダンブレーン(Dunblane)が焼き払われ、デーン人(ヴァイキング)によってパースシャーの都市クルーニー(Clunie)とダンケルドが劫略された。

858年2月13日、フォーティヴィオトで病死した。死後、弟のドナルド1世(在位858-862年)が即位し、以後ケニス・マカルピン家とドナルド1世家から王が選出されて継承された(アルピン朝)。ケニス・マカルピンの孫ドナルド2世(在位889-900年)の時代からアルバ王国と呼ばれるようになり、後に中世スコットランド王国へ発展することとなった。

参考文献

脚注

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