「ノストラダムス―予言の真実 (「知の再発見」双書)」エルヴェ・ドレヴィヨン,ピエール・ラグランジュ著

諸宗教の聖典・経典を除けば、十六世紀フランスの医師・占星術師・詩人であるミシェル・ノストラダムス(1503~66)によって書かれた「予言集」は世界で最も読まれた本の一つに挙げられるだろう。単なるオカルトブームの書籍としてだけでなく、多くの人がその文章に何らかの意味を見出して、それがときに人々の生死を左右するほどの悲劇を呼ぶことにもなった。

ノストラダムスに関しては、世界の終末を始めとする現代までの様々な事件を予言した予言者として信奉するか、インチキ予言者として弾劾するかの二項対立が続き、ブームの中で必ずしも学術的な分析が進められてこなかった経緯がある。運命の1999年も過去のものとなり、近年、ノストラダムスを彼が生きた十六世紀フランスという歴史の中に位置づけて本格的に研究・実証することが出来るようになってきた。その、歴史の中のノストラダムスと彼の予言集はどのようなものとして位置付けられるか、本場フランスのノストラダムス研究の水準を示すコンパクトな入門書として、本書の監修者によるまえがきで紹介されている。

ノストラダムスの生涯

ノストラダムスは当時のフランスでもかなりの知識人であった。モンペリエ大学医学部を卒業し、医師として各地を回ってペストを始めとして様々な治療を行った。『ノストラダムスは、医学を書物による勉強と臨床を組み合わせた技術であると考えていた。』(P18)。実験重視・現場主義の医師としてキャリアを積み、幅広い知識を吸収して人文主義に深く傾倒し、やがて占星術に没頭する。

当時、天体の運行が人体に影響を及ぼすと考えられていたから、ミクロコスモスとしての人体の研究とマクロコスモスとしての天体の研究とは直接的に繋がっている。これが分離し、占星術が退けられることになるのは十七世紀、ガリレオ、ケプラー、ニュートンらに代表される「自然科学」の登場を待たねばならない。ルネサンス期の「魔術師」「占星術師」たちの多くにも言えることなのだが、誕生が百年遅ければ、彼は予言者ではなく科学者として名を残していたかもしれない。時代という知の限界が彼を予言者にした。

占星術という『ひとつの体系的な方法と、さまざまな技法と、固有の合理性によって成立』(P26)する「科学」と持ち前の予知能力――『予知能力とは、神から流出した神秘的なメッセージを直感的認識によって捉えられる力のことである』(P26)――との組み合わせによって、詩の形式で「予言」がなされていく。1555年に出された「予言集」はアンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスのフランス国王夫妻の目に留まって王家お気に入りの占星術師となると名声は限りなく高まり、1566年に亡くなるまで歴代国王、王族に重用された。

ノストラダムスの予言の二つの特徴

彼の予言の特徴の一つに難解であることが挙げられる。『天上の真理の直観的認識は、世俗の人々にさらされてはならない』(P25-6)という信念の元で、当時の人文主義的知識を総動員してその真意を巧妙に隠そうとした。多くの人文主義者同様、彼も無知な民衆を蔑視し自分は『神から選ばれた傑出した知性の持ち主の一員』(P106)だという知的優越感を強く持っていたという。彼の一連の予言は民衆が読むことを全く想定せず、当時の知的エリートに向けて書いたものだ。後に大衆文化を象徴する本になるというのは歴史の皮肉というか。

もう一つの特徴が、当時の世相を強く表して黙示録的終末と不安を掻き立てる内容になっていることだ。1517年に始まる宗教改革は欧州を宗教戦争の嵐に巻き込んだ。フランスでもカルヴァン派プロテスタントが伸張し、アンリ2世は苛烈な迫害を加えるが貴族の中にもプロテスタントが広がり、1559年にはアンリ2世の事故死を契機としてヴァロア朝の命運を断つことになる国内を二分した内戦「ユグノー戦争」に突入する。このような憎悪と対立と流血の時代を強く反映していた。ノストラダムス自身はプロテスタントにも理解を示していたが、そのエリート主義的な見下した態度と、意味深な予言はプロテスタント・カトリック双方から批難された。

『ノストラダムスが描いている未来の歴史の中心には、絶えず異教徒や異端者から脅かされる教会が存在している。繰り返し訪れる災いは、いつもキリスト教徒に対する大規模な迫害から始まる。』(P37)

いわば、彼の予言は同時代への批判的文脈を持つユートピア・ディストピア的な未来予想創作文学の走りの一つと言えるかもしれない。現に彼の予言集にはトマス・モアの「ユートピア」の影響もあるという。ちなみに、有名な「アンゴルモアの大王」については、本書ではアンゴルモア=アングレームで、すなわちアングレーム伯からフランス王になった人文主義者として名高いフランソワ1世(在位:1515~47)のことであり、1999年7月から始まる予言は、彼が傾倒したフランソワ1世的人文主義的君主の再臨による千年王国の誕生を予言したものだとする説が紹介されている。

死後の影響と拡大

彼の死後、十七世紀に入るころには、一方でノストラダムスの予言は模倣やパロディの対象として使われるようになり、他方で「科学」の勃興を背景として厳しい批難にも晒されることになった。十七世紀初頭、すでに現代にも通じる的確な批判を、フランスの司法官ピエール・ド・ランクルが行っている。

『ランクルによれば、ノストラダムスは天体に基づいて予言をしているだけで、魔術を用いたという罪を犯してはいない。むしろ、注釈者たちがノストラダムスに彼自身が考えてもいなかったことを語らせ、彼のあいまいな詩句をさまざまな出来事に勝手にあてはめ、自分の党派や利益にそう形で予言をねじ曲げているという』(P46)

ランクルの批判から四百年、ノストラダムスの予言を解釈しようとする人びとの態度は一貫してこの通りだ。

十八世紀、啓蒙主義の広がりとともにノストラダムスは忘れ去られていくが、十九世紀半ばから始まる近代心霊主義(スピリチュアリズム)の台頭はノストラダムスの再発見をもたらす。神秘主義と交霊術の流行によって、ノストラダムスの予言は一種の霊媒と捉えられ、多くの解釈本が出版された。二十世紀に入ると、科学的合理主義の立場からのノストラダムスに対する批判がなされるが、それゆえに、科学的進歩主義・合理主義に対するカウンターとしてノストラダムスの予言はより重視されていくことになった。ノストラダムスの予言は『「科学的妥当性」の横暴に対する戦いという正当性』(P58)を与えることとなり、人口に膾炙していく。

世界的広がりは1930年代、戦間期から第二次大戦の時代を契機としている。1938年にフランスで出された予言集の注釈書はノストラダムスがヒトラーの失脚を予言したと解釈されており、1940年、ナチス・ドイツ占領下のヴィシー政権において発禁処分となった。一方でナチスの側も占星術を重視していたことから、41年、ノストラダムスの大予言をナチスがヨーロッパを支配することが描かれているとした解釈本を出版、これに対して英国は43年、ノストラダムスが戦争の経過を予言したとするビラをドイツ上空からばらまいた。

一連の馬鹿馬鹿しいが深刻な第二次大戦中のノストラダムス解釈戦争によって知名度は政界的に広がり、戦後、世界中でノストラダムスブームが起きる。

ノストラダムスと日本

本書でも特筆されているのが日本で、特に1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件に言及されている。日本でのノストラダムスの受容は、一柳廣孝「オカルトの帝国―1970年代の日本を読む」によれば1970年代のことだとされている。UFO、幽霊、妖怪、心霊写真、超能力、超常現象などとともに、ノストラダムスの予言も五島勉らによって紹介され、少年誌などにも取り上げられて、大人から子供まで一気に広まった。1970~80年代のノストラダムスを始めとした多種多様な終末予言ブームの洗礼を受けた子供たちは、そこからインスピレーションを得て、一方で様々な創作を行い、他方でテロリズムへと走る。このあたりは、太田俊寛「現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇」に特に十九世紀近代心霊主義の主潮流である神智学からの流れとして描かれていて詳しい。

的中した唯一の予言

本書では、『正しいことが証明された唯一の予言』(P99)として、以下の一節が紹介されている。

『私に何度も死をもたらした人々に反して、存命中も死ぬときも私は不滅であり、さらには死後も私の名は世界中で生き続けるだろう』(P99)

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