明治維新は日本人と犬との関係をがらりと変えた。共同体の中の犬から飼主と飼犬という個と個の関係へと、近代化のプロセスの中で揺れ動く犬を巡る価値観の変化を、幕府からペリーに送られた犬から西郷隆盛の犬まで様々な犬たちを追いつつ、洋犬の名前としての「ポチ」の誕生を探っていくことで描いている。
江戸時代初期まで、犬は、座敷犬として価値があった小型犬の狆(チン)を除いては、概ね村の犬「里犬」として共同体で飼われるのが常だった。やがて大名たちの間で鷹狩が盛んになると、鷹の餌としての犬肉が必要となり「御鷹餌犬」として飼育されるようになる。綱吉の生類憐みの令によって犬たちは「飼犬」と「無主犬」に分類されたが無主犬の多くは町中で不特定多数の人から餌をもらって生きる「町犬」で町犬たちは飼主があらわれない限り、各地の犬小屋に保護される。特定の個人の飼主がいることはまれで、基本的には町なり村なり共同体の中で犬も生きて死ぬ、というのが開国までの人と犬の関係性だった。
日本が開国すると、来日した外国人は自身の飼い犬とともに来日することも少なくなかった。洋犬は、日本人からは「カメ」と呼ばれていたという。語源としてカムイン説、カムヒア説、カムミー説などありはっきりしないが、外国人の飼主による犬への呼びかけが転じたものらしい。
文明開化のムードは、その「カメ」をステイタスに押し上げる一方で、英国を手本とした飼主と飼犬の関係に基づく犬の管理政策を採らせることになった。明治五年ごろから順次各府県で「畜犬規則」が定められ、犬たちはあらためて飼犬と無主犬とに分けられ、飼犬であることを示す名札の無い無主犬は捕獲、あるいはその場で撲殺されることになった。明治七年ごろから明治十四年の蓄犬規則改正までをピークとして、各地で多数の野犬の撲殺が行われた記録が残っているという。「野良犬」という言葉の登場も、そもそも飼主という観念がなかったのだから、明治に入ってからのことだ。狂犬病治療法の発見と浸透まで、野犬狩りと殺処分は続けられることになった。
犬の名前のスタンダードが「ポチ」になるのは明治三十八年の尋常小学校唱歌「ポチとタマ」であるらしい。犬はポチ、猫はタマとして歌われたこの曲によって、一般的になるが、それ以前からポチという名前は多く使われていた。ただし、猫にも使われていたし、その逆にタマという犬もいた。では、そもそもの語源は何か、これも諸説あってよくわからないようだ。紹介されているだけでも「spotty(斑点の多い、まだらな)説」「pooch(米俗語で犬の意)説」「petit説」「ぶち説」「ぼち袋(祝儀袋)説」「慣用句のぼちぼち説」「小さい点を意味するぽち説」などなど。
著者はこれらの説を退けつつ、その謎を探る切っ掛けとして当時、横浜で使われていたピジン・イングリッシュ――その土地だけに通じる現地語化した英語――「横浜語」の存在に注目する。英語のわからない日本人と日本語のわからない英米人の間のコミュニケーション手段として、日本語に近い英単語が多く使われた。例えば、英語で”good morning”は日本語だと「おはよう」となるので、横浜語として”Ohio(オハイオ)”が使われるというように。横浜語的ピジン・イングリッシュと「ポチ」という名はどう繋がって来るのか・・・論の立て方として非常に面白かった。
取りあげられる様々な話題が一つ一つ丁寧に調べられていて、様々な発見がある本だ。狆はなぜチンと読むのか?西郷さんと犬の関係は?明治四十三年の犬の名前ランキング、天皇が犬を飼い始めたことで崩れた穢れという禁忌の話などなど。また、とある外国人は綱吉時代の記録(ケンペルの「日本誌」)を読んで日本が動物愛護先進国だと勘違いし、訪れてみたら各地で刀傷を負った犬や無下に扱われる犬を見て失望したという話なんかは同情するもののにやにやさせられる。
あと、ペリー来航時、四匹の狆(ペリーが持ちだしたのは全部で八匹だったとも言われる)が幕府から贈られ、トダ、シモダなどと名付けられたが、その中に「マスター・サム・スプーナー」と名付けられた犬がおり、その由来は先日の記事「ペリー艦隊の日本人、サム・パッチこと仙太郎の生涯」で紹介した日本人水夫サム・パッチからだったという。ところで、本書ではサム・パッチの日本名を三八だったとしているが、実際には上記記事で書いた通りサム・パッチという名前から帰国後三八と呼ばれたものなので、そこだけ気になった。
僕なんかは犬だけはダメ、苦手、というタイプなので何なんだが、現代まで繋がるペットブームの始まりの姿を幕末明治維新史とともに知ることができる絶好の一冊だと思うのでお勧めしたい。同工異曲な内容になるんだろうけど誰か「猫たちの明治維新」も書いてくれないかなー。