「中世武士の城 (歴史文化ライブラリー)」齋藤 慎一 著

戦国時代の城として一般的に思い浮かべられる、壮麗な天守、堅固な石垣、張り巡らされた水掘・・・などの城の姿は実は江戸時代のものだ。天守も石垣もなく、水掘ではなく空堀で、土塁や地形を利用して削られた斜面、河川などに守られ、一時的ではなく恒常的に武士が住まう施設としての要害が戦国時代に一般的な城の姿ではある。しかし、この城もその登場は十五世紀半ば頃からのことで、地域や状況によって多種多様な姿を取る。

では「中世武士の城」とはどのようなものであったか、本書では主に東国の様々な城の姿から、特に武士たちが本拠とした本城について、十六世紀に本格化した要害としての城以前、十三世紀から十五世紀末頃までの城の一つのモデル化が試みられており、中世の城を理解したい人には格好の一冊となっている。

本書で描かれる中世武士の城について、戦時体制を前提とした恒常的な城館の登場は十五世紀中頃で、それ以前は、平時から戦時に移行した際に臨時的に「城郭」が設けられた。史料上「城郭を構える」という語で表現される。戦闘が終われば城郭は破却される。日常的に武士が暮らす「屋敷」は軍事性が低かった。

「城」という語は多義的だが、武士の居住空間としての「城」のモデルとして、著者は屋敷と、極楽浄土の装置と現世利益の装置としての寺社の組み合わせを描く。掘を巡らせた惣領屋敷、庶子・家臣の屋敷、馬場や的場など鍛錬の場とともに、極楽往生を願う彼らのための阿弥陀堂と浄土庭園など浄土仏教系施設と、地域支配装置としての現世利益を叶える観音信仰、熊野信仰の神社・寺院、あるいは「大般若波羅密多経」を納めた経堂などがあり、聖地としての山・谷を背後に抱く。武士たちが模索したのは安穏であった。『地域の武力装置としての武家と極楽往生・現世利益の装置としての寺社が、バランスをとって支配装置を構成し』(P206)、『総体として地域社会と向き合っていた』(P206)。

戦国時代に突入すると、恒常的な「要害」は必要不可欠となり、本拠としての「城」を守るために要所要所に「城郭」が構えられた。当初は安穏を希求し、安全を保証する本拠と、軍事的施設としての要害との間に距離があったが、次第に本拠地もまた要害化するようになり、かつて別の意味であった「城」と「城郭」とは重なり合うようになっていく。その過程で戦国時代の本格的な城館が登場し、やがて大規模な近世の城へと発展していくことになる。

「城」の主要構成要素として寺院を重視して全体像を描いているのが非常に興味深い。戦国時代の城も、決して軍事一辺倒ではなく、極楽往生・現世利益の装置としての宗教施設が城内に設けられていた。

ところで、本書のモデルの例として十二世紀三浦氏の居城衣笠城について取り上げられていて、衣笠城は山城ではなく『衣笠山を聖地として東西の谷に展開した屋敷・寺社の総体』(P184)という指摘は色々と目からうろこだった。城址を歩くときに、このような十五世~十六世紀を画期とする城のあり方の変化を理解しておくとおかないとでは、大きな違いがあるなとあらためて考えさせられる。

著者が繰り返し書いているように『本書で描いた本拠のモデルは唯一絶対的なモデルではない。描写した以外の本拠のモデルが必要で、多様な本拠の景観が描かれる必要がある』(P206)。その多様性にこそ、中世の城の特徴があるのだろう。東国と西国ではまた違うし、九州も特徴的で、東北はまた独自の発展を遂げたことは、四半世紀ほど前の本だが最近読んだ石井進編「中世の城と考古学」でも描かれていた。また、アイヌのチャシ、琉球のグスクなども、その姿については様々な説があり論争と研究が重ねられている。このあたりの各地域・時代・状況ごとの城については本書の網羅するところでは無いが、それだけに読後、様々な城の違いについてさらに興味が湧いた。

中世日本を、城、地域社会、宗教、戦争というキーワードで理解する上で押さえておきたい知識が詰まった本の一つではないかと思う。

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