「琉球国の滅亡とハワイ移民 (歴史文化ライブラリー)」鳥越 皓之 著

1879年、およそ四百五十年に渡り続いた琉球王国は日本に併合(「琉球処分」)され滅亡した。滅亡後の琉球=沖縄は明治政府の支配下で伝統的共同体の崩壊と社会基盤の弱体化を招き、移民が認められた1900年代以降、大量の海外移民が送り出されていった。1940年の統計では海外移民のうち沖縄出身者は五万七千人、数だけなら広島・熊本に次ぐ三位だが、県の人口比では広島3.88%、熊本4.78%に対し沖縄9.97%でとびぬけて多い。全国平均で100人に一人が移民となったが、沖縄は10人に一人の割合であり、1920年代以降沖縄県出身移民は全国の移民の約20%前後を占めた。その中でもハワイへの移民が非常に多い。

本書は著者が1970~80年代に行った、まだ存命の頃のハワイ移民一世~二世への聞き取り調査の記録と、琉球王国の滅亡から二十世紀初頭までの移民を押し出す要因となった社会的背景について描いた一冊である。

本書の記述にあわせて山川出版社の「沖縄県の歴史」(安里進、高良倉吉他編著)も参照しつつ、琉球処分前後の大まかな流れを簡単にまとめておこう。

琉球処分と植民地統治を背景としての移民

江戸時代、日中両属体制(徳川=薩摩の実効支配を受け容れつつ、清国を宗主国と仰ぎ冊封を受ける)下、薩摩主導で導入された身分制度による階級の成立と中国化志向の強化による儒教イデオロギーの浸透とを背景としつつ士族による搾取構造が恒久化し、度重なる飢饉と経済の衰退による農村の疲弊、薩摩からの重税、王の交替が相次ぎ中国からの冊封使の招聘による財政の悪化など琉球王国の衰退は明らかなものとなっていた。

日本で明治政府が成立すると、琉球を取り巻く国際情勢は、極東アジア進出の橋頭保として琉球を植民地としたい英米仏の西欧列強、冊封体制下に置き続けたい清国、西欧列強との対抗のため琉球を専属の領土としたい日本の思惑がぶつかり合うこととなり、台湾出兵を企図する日本はそれと前後しての琉球併合を計画、日清・日琉間の交渉を経て琉球処分を断行する。民衆は圧政からの救済を期待する少数派、清国からの援軍を期待しつつも日本への併合を諦めから受け容れる消極的な大多数、抵抗運動を組織しあるいは清国へ亡命する士族を中心とした一部の徹底抗戦を企図する勢力にわかれた。

明治政府は警察力を強化して抵抗勢力への弾圧を加える一方で、秩序維持の目的から琉球王国時代の土地・租税・地方制度を維持する「旧慣温存」方針で臨むが、これは旧来の搾取構造や社会の矛盾の温存でもあり、県政は行き詰まらざるを得ない。抜本的改革を進めようと政府の「旧慣温存」方針と対立する二代県令上杉茂憲が解任されると、「旧慣温存」は琉球支配の原則となり、旧王家尚氏とその周辺グループへの優遇が一部富裕層の財閥化をもたらす一方で農民層は重税と貧困の中で苦しい生活を強いられ、貧富の格差は拡大し続けた。

琉球処分によって、清国は日本による琉球の一方的併合が日清修好条約違反としてこれを認めず、日本側は譲歩として米グラント大統領の仲介で清国に対し宮古八重山を清国領、沖縄島以北を日本領とする琉球分割を提案、一時は清国もこの分割案を受け容れる姿勢を見せたが、清国内の琉球人を中心に反対運動が起こり、李鴻章ら清国首脳はあらためて対日強硬論を唱え琉球問題を巡る交渉は難航、この解決は日清戦争後の下関条約まで待たねばならない。

1895年、下関条約によって正式に琉球諸島が日本領となると、後に「琉球王」「専制王」と称される奈良原繁知事により琉球語の排除と標準語の励行、皇民化教育など琉球人に対する同化政策が本格的に始められた。同時に、税制改革・土地整理等の近代化政策も断行されるが、奈良原知事の経済政策は支配層・富裕層への資本集中投下と優遇による上からの近代化路線であり、旧慣温存政策の延長としての改革で、どうしても弱者切り捨ての側面が強い。

これに対して、1890年代半ばから琉球人官僚謝花昇、当山久三らが中心となった山林の官有地化(「杣山問題」)に反対する運動を契機として自由民権運動が起こり参政権拡大運動や貧困救済運動へと拡大、しかし奈良原知事による弾圧によって運動の中心組織「沖縄倶楽部」は壊滅し自由民権運動は頓挫する。(謝花は沖縄を追われることとなり神戸で狂死した。)自由民権運動の失敗を受け、謝花の盟友当山久三は海外移民に活路を見いだした。沖縄の自由民権運動は本土のそれよりもより貧民救済色が強く、その実態は「生活保護民権運動」であったとされ、自由民権運動の帰結としての貧民救済のための海外移民の推進であった。粘り強い当山の活動によって奈良原知事も折れ、1900年、ハワイに向けて移民の第一陣が送り出された。

ハワイ移民たちの生活と差別

ハワイに渡った沖縄出身移民たちは、本土や諸外国出身の移民たち同様に過酷な労働、少ない収入、異文化との衝突など移民ならではの苦労をしているが、もう一つ、日本人移民からの差別も経験している。日本人移民は沖縄移民や中国・朝鮮人移民を下に見て差別的な態度に出ることが少なくなかった(もちろん差別せず対等に接した日本人も多かったが)。『この沖縄人差別の根源は、日本人が中国人や朝鮮人を、やはりこのハワイでも差別したように、それは敗北した国家の民への侮蔑であった。』(鳥越P164)。また、ハワイでは日本人は白人から差別され、日本人は沖縄人や中国人、朝鮮人を差別するという連鎖が厳然として存在し、また日本人は国粋主義的教育を受けてきたことで、他の日本帝国圏下からの移民との意識のギャップも強くあった。

本書で紹介される1944年の部外秘とされた米国海軍省資料の記述が興味深い。

『日本人と琉球人(沖縄人)とのあいだの、たいへん近い民族的関係や、言語の類似性にもかかわらず、琉球人は日本人からは民族的に平等だとはみなされていない。日本人は、琉球人たち特有の粗野なふるまいから、かれらを、いわば田舎から出てきた貧乏な親戚みたいなものだと見下し、いろんなところでかれらを差別してきた。ところが一方、琉球人の方は、自分たちが劣っているとは全然感じておらず、自分たち自身の伝統や、中国との長期にわたる文化的紐帯に誇りをもっている。そのため、このような琉球人と日本人との間の動かしがたい関係は、潜在的に不和の種をはらんでおり、そこから政争の具とするものをつくりだすことができるかもしれない。ほとんどたしかなことは、この琉球においては、軍国主義や狂信的な愛国心は、たとえあったとしても、それは大きくなるとはとても思えないことである。』(鳥越P159)

本書ではさまざまな移民たちのそれぞれの人生が語られていて考えさせられることが多い。多くの移民が言及しているのが第二次大戦中の日系アメリカ人部隊に親兄弟子供が入隊して、そして帰らぬ人となったことだ。本国沖縄では殲滅戦となった沖縄戦が、移民先の米国では沖縄人を中心として日系人が「第442連隊戦闘団」や「第100歩兵大隊」に愛国心の表明として志願入隊し、死んでいった。

移民を押し出す要因としての沖縄経済の崩壊「ソテツ地獄」

これまで書いたように、本書は『琉球国の滅亡と移民とが深い関係にある』(鳥越P20)という前提で琉球近代史とハワイ移民の人々のライフヒストリーとを描いているが、その要因となる社会背景の描写は十九世紀末の自由民権運動の失敗までで終わっている。しかし、移民の歴史を追うならば、移民が本格化する1920年代まで視野に入れて描く必要があるのではないだろうか。一般的に、沖縄から移民・移住を生み出す最大の要因として挙げられるのが1920-30年代の沖縄の経済不況「ソテツ地獄」である。

同時期、本土でも第一次大戦後の経済不況に突入し、やがて世界恐慌へとなだれ込んでいくがその沖縄的発現形態が「ソテツ地獄」である。その名の由来は、一般民衆が食糧を手に入れることすらできなくなり、飢えをしのぐためにソテツを食べ、ソテツの調理方法を誤って食中毒死する人も相次いだことからである。文字通り餓死寸前にまで追い込まれた地獄が沖縄を覆った。

沖縄県の歴史P278によれば以下の五つの要因が挙げられる。

『第一に、プランテーション農業に依拠した製糖資本が資本主義的方式で分蜜糖などを生産し、世界の砂糖生産の大半を支配した時期に、沖縄だけは零細農民の経営による含蜜糖(黒糖)生産を主としたこと、第二に、第一次世界大戦前後の世界の砂糖需給構造が輸出国のダンピングなどによって変化し、砂糖の国際市場価格が低迷したこと、第三に、黒糖需要度の高い日本全国の農村が不況により疲弊し、黒糖の需要量を減少させたこと、第四に、沖縄は商品経済への依存度が高く、諸産業の生産力が他府県にくらべて低い水準にあったことなどである。』(P278)

この五つの要因の背景として、琉球王国の滅亡と日本政府による植民地統治を考慮するならば、旧慣温存政策によって農民の資本集中がなされず製糖業の中心は零細農民のままであったこと、さらにその零細農民に対し砂糖消費税を課すなど国家的収奪の対象とし、さらに日本政府の糖業政策は『台湾糖業を重視し沖縄糖業を見捨てる方針へ傾斜』(P269)していた。にも関らず、沖縄の経済の中心は一貫して製糖業に依存するモノカルチャー経済であり続けるしかなかったのであり、1910年代前半で輸出額の75%を砂糖が占めていた。農民は「砂糖を売って米を買う」生活であったから、その砂糖が売れなくなると、彼らは飢えるしかなくなってしまう。

糖価暴落によって輸入超が常態となり、まず地方農村が疲弊する。その結果、農民に貸付けていた金融機関が回収不能となって破綻、金融機関の逼迫は企業倒産へと連鎖、企業倒産によって県内市町村は税収不足となって財政破綻に陥り、地方自治体の破綻は公共サービスの低下をもたらして社会不安を増大させ・・・と負の連鎖が一気に沖縄県全体を覆うことになる。零細農民だけでなく大規模経営農家も減少・没落し、多くの農民が離農を余儀なくされ、離農した彼らは本土への出稼ぎ労働や海外への移民の道を選ぶことになった。

前述したように、日本の沖縄における植民地統治は上層階級優遇による富裕層の育成によって徐々に下層階級へと富を行き渡らせて底上げしていく、ある種のトリクルダウン的な経済政策を理想としていたわけだが、まさにその政策ゆえに不況に対応する社会基盤の脆弱化を招き、植民地統治の破綻を招く結果となったのである。

この結果、1920年代に沖縄からの移民が急増、『一九〇〇年代には年平均一二〇〇人、一〇年代には一七五〇人』(沖縄県の歴史P282)であったものが、『一九二〇年代後半の五カ年間で、沖縄人移民は一万五六八七人(年平均三一三七人)に達し、全国の移民の二〇%前後を占めた』(沖縄県の歴史P282)。移民先もハワイだけでなく中南米から南洋諸島まで幅広い。さらに、この海外移民とは別に本土への『沖縄人出稼労働者は一九二〇年代以降毎年一万人を超え、大正十四(一九二五)年八月の統計ではほとんど二万人に達した』(沖縄県の歴史P283)。

1930年代に入ってこのような崩壊寸前と言っていい沖縄社会救済のための様々な政策が帝国議会でも議題に上り、支援策のための予算が次々計上されるが抜本的改革には至らない。一方で知識人層を中心に大正デモクラシーを背景として社会運動が巻き起こり、やがて労働運動の活発化や民主化運動へと進むが、これを政府は弾圧して市民レベルでの改革も効果を見せない。

このような沖縄社会の苦境の中で沖縄学を始めとする日琉同祖論をよりどころとした日本(ヤマト)の中の沖縄を模索する動きや、伝統的な沖縄文化を再認識して、琉球民族(沖縄人)のアイデンティティを求めるナショナリズム的運動が勃興して現代まで続く大きな潮流となっていく。沖縄と日本の関係はどうあるべきか、という模索は太平洋戦争の勃発によって中断を余儀なくされ、虐殺や強制的な自決を伴う殲滅戦となった沖縄戦を経て沖縄は米軍統治下に入り、軍政の中で再建とさらなる苦しみを味わうことになり、日本への「復帰」後も基地と経済とアイデンティティの問題が大きく圧し掛かっている。

このような流れの中で、二十世紀初頭に琉球からハワイへと渡った人々の生の声をどう読むか、一人一人が向かい合うべきインタビューになっていると思うので、オススメです。

参考書籍・リンク
・安里 進 田名 真之 豊見山 和行 西里 喜行 高良 倉吉 編著「沖縄県の歴史 (県史)
「ソテツ地獄」と県民の暮らし
第442連隊戦闘団 – Wikipedia
第100歩兵大隊 – Wikipedia

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