フランス革命前夜、十八世紀のフランスにおいて禁書、海賊版を流通させる地下出版の国際的なネットワークがあった。誹謗中傷、反権力、ゴシップ、性的・政治的ポルノ・・・およそ低俗とされる様々な出版物が、スイスなどフランス国外で印刷され、密輸業者によってフランスに運び込まれ広く行き渡る。その著者となったのが啓蒙思想家に憧れながら、啓蒙思想家になれず、階級社会の底辺でうごめく三文文士たち、いわゆる「どぶ川のルソー」たちで、食い詰めた彼らの活動が、やがて革命を準備していく。
本書は「猫の大虐殺」で名高い歴史家ロバート・ダーントンが幅広く史料を渉猟して1982年に書き上げたフランス革命研究の基本書の一つで、後にアナール学派を代表する歴史家ロジェ・シャルチエとの論争でも話題になった。しかし残念ながら絶版。(2015年10月に岩波人文書セレクションから再販されました)
ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、ルソーなどに代表されるフィロゾーフ(啓蒙思想家)たちは閉塞した階級社会の中で上流階級に受け入れられて地位的上昇を遂げる。そんな成功者たちに憧れて多くの人びとが文筆業で食っていこうという夢を抱くが、それは非常に狭き門だ。コネクションを駆使して成り上がるごくごく一部の人びとを除き、大半は三文文士として食うや食わずの生活を送り、あるものは売れ筋の誹謗中傷パンフレットや貴族たちのゴシップ記事で糊口をしのぎ、あるものは警察のスパイとして活動したり、政府の意を汲んだ御用文書を書いたりして、食いつなぐ。ミラボー、マラーといったフランス革命の「元勲」たちがこのような三文文士であったことはよく知られている。
『文筆家のどん底生活はきつい。そのきつさは、心理的な犠牲者を出すことになった。というのは、「文芸界の排泄物」とでもいうべきこの連中は、単に失敗に直面するだけでなく、自らの退廃にも直面せねばならず、しかもそれにたった独りで立ち向かわねばならなかったからである。失敗は孤独をうみ、そしてどん底ぐらしの環境は住民を孤立させるのにふさわしかった。』(P36)
書いても書いても一向に成功への道が開かれない彼らワナビーは、次第に権力への憎悪を募らせる。啓蒙主義は基本的に体制順応的な思想であったし、フィロゾーフたちも別に体制転覆を目指していたわけでも無い。ダーントンが描くのは、そんな啓蒙主義と革命とを接続する役割を果たしたのが、彼ら三文文士たちであったのではないか、ということだ。すなわち『ルソー主義の粗野でジャコバン的な解釈をパリのサン・キュロットに注ぎ込む、イデオロギーの媒体としての機能を果たした』(P52)のが、「どぶ川のルソー」たちだと。
『どん底世界の粗野なパンフレットは、感覚においてもメッセージにおいても、革命的であった。それは、アンシアン・レジームを腹の底から憎み、その憎しみに心うずく者たちの情念を表現していた。究極のジャコバン革命が、その真実の声を見出したのは、満ち足りた文化エリートの洗練された抽象的観念のうちにではなく、こうした身体の奥底から発する憎しみのうちにだったのだ。』(P53)
ダーントンは、広く流通した誹謗中傷文書、特に王権や教会、貴族たちに関するスキャンダラスなパンフレットや書物が、王権や教会の権威を失墜させ、「脱神聖化」を推し進める要因になったと考えている。書物を軸にしたアンシアン・レジームの崩壊を、文字通り地下に蠢く文士たちの生き様と、地下出版・流通のメカニズムを通して描いていて、非常に面白い。
革命によって一気に権力者になった彼らは、アンシアン・レジーム時代の自身の黒歴史を抹消しようとやっきになり、あるいは、その過去を暴くことで政敵の追い落としをはかるなど、熾烈な権力闘争を繰り広げた。どん底から頂点へ、そして断頭台へ、まさに革命を体現した。
本書の冒頭で引用されている一節が実によくあらわしている。
『この怒り狂ったアジテーションは、どこから来るのか。クラブやカフェでさかんに民衆を煽り立てている群なす貧乏書生や法律家たち、また、無名の作家や飢えた三文文士からなのだ。彼らこそは、こんにち民衆が身に帯びている武器を造り出した温床なのである。
――P・J・B・ジェルビエ 一七八九年六月』
このような誹謗中傷、告発的文書の流通が革命の火種の一つになったというダーントンに対して、ロジェ・シャルチエは「フランス革命の文化的起源」においてダーントンによる史料研究を評価しつつ、疑問を呈している。
『ダーントンの主張どおりとすれば、辛辣で冒涜的な禁書がふかく浸透したことと、国民の敬愛の念を国王に保証してきた信仰体系が摩耗していったこととの結びつきは、緊密なものといえるだろう。
しかし、このような見方においては、読書は、おそらくそれがもっていない力と効果とを、あたえられているのではないだろうか。』(シャルチエP124)
として、『無礼きわまるパンフレット文学の大量の流布と、王政のイメージの崩壊とのあいだに関係があったにしても、それはおそらく、直接的なものでも必然的なものでもなかった』(シャルチエP125)という。すなわち、『それにさきだって王にたいする象徴的・感情的離脱がすでに完成し、それらの書物をうけいれ、理解し、もっともなことだと考える精神状態になっていたからこそ、可能であった』『それらの書物は、こうした亀裂をうみだしたどころ、あその亀裂によってうみだされたもの』(シャルチエP130)だとされる。
つまり、誹謗文書の流通が人びとの考え方を変えたのではなく、日常的な考え方の変化が誹謗文書を受け入れる土壌となっていたということだ。このシャルチエの批判に対するダーントンの応答文書は日本語訳されていないのでその後のやりとりはわからないが、「革命前夜の地下出版」の訳者解説によると、読者である『彼または彼女を包み込んでいる文化の枠組みが(中略)作用している』(P340)ことを強調しているという。
三文文士たちによる誹謗中傷文書を始めとした地下出版とフランス革命前夜における社会的影響との関係がどのようなものであるかについては議論があるにしても、地下出版を通して形成された公共圏で主に流通していたのは確かに憎悪と対立、分断に拍車をかけるような様々な文書であり、民衆たちがそれを受け入れる土壌が出来上がっていて、革命前夜を特徴付けていた。