「世界史の中のアラビアンナイト」西尾 哲夫 著

アラジン、アリババ、シンドバードの物語に代表されるアラビアンナイト(「千一夜物語」)。世界中で愛されるこの物語は九世紀頃バグダードで誕生し、各地の伝承を取り込みながら十八世紀に欧州に紹介された後、本来の姿から離れて独自の展開をたどるうちに世界文学として確立されていった。その変貌の過程を丁寧に辿ることで、アラビアンナイト成立史を通してヨーロッパとイスラームという異文化の邂逅、オリエンタリズムの増幅と、異文化を通して自文化を内省するオリエンタリズム的文学空間の創出という結実へと至る様を描く非常に面白い一冊。

現存する最も古い千一夜物語「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」の記録は、1947年にエジプトで発見された。行政文書などに混じって発見された紙片には、現在の千一夜物語では語り手シェヘラザードの妹とされるディーナーザードが「楽しいお方」に話をねだる全体の冒頭部分である枠物語が書かれ、その余白にこの紙の持ち主であった公証人のメモとして別添書類の保証人になった旨の一文と年代が記録されており、それを西暦になおすと879年10月であるという。

十世紀の作家や書店主による目録などの記録から、すでに千一夜物語は現在知られるものと近い、暴虐な王に殺されないために理知的な妻が毎夜話を聞かせるという枠物語と様々なエピソードから構成されており、一般的に読まれる物語となっていたらしい。十二世紀のカイロ、十三世紀のマムルーク朝時代にも読まれており、このマムルーク朝において原型が作られた物語が現行の千一夜物語に受け継がれていったとされている。

1704年、千一夜物語を翻訳して欧州に紹介したのがフランスのアラビア語学者アントワーヌ・ガランである。十七世期後半、フランスは対オーストリア戦略からオスマン帝国と接近、相互に人の行き来が盛んだった。1670年、フランスではカルヴァン派とジャンセニストとの論争が激化しており、その論争解決に役立つ資料収集のためにガランはフランス大使の随員としてイスタンブールに遣わされた。以後、1688年まで三度に渡ってオスマン帝国を訪れ、各地を回っている。その過程で彼が見つけたのが「シンドバード航海記」であった。1701年、ガランは「シンドバード航海記」を翻訳し、出版直前というところで「シンドバード航海記」が「千一夜物語」の一部であることを知り、それを含む三巻からなる千一夜物語のアラビア語書籍を手に入れる。歴史的に「ガラン写本」と呼ばれ、十五世紀にシリアで成立したものだとされる。

ガランは1704年から1706年にかけて千一夜物語を七巻にわけて翻訳し出版、大好評を博したが、全部翻訳しても二百三十四夜分しか無い。千一夜というからには続きがあるはずで、これを探したものの見つからず、そのうち版元が、ガランが別に訳したアラビア語の物語と他の翻訳者が訳した無関係の物語をかき集めて千一夜物語八巻として刊行、さらに、1709年、ガランの元を訪れたマロン教徒の人物から聞かされたアラブの物語を元に、ガランは千夜一夜物語九巻~十二巻を刊行した。これが「アラジン」「アリババ」「空飛ぶじゅうたん」などを含む物語である。ガランが書き残しているメモによれば原本となるアラビア語文献があったらしいのだが現存していないため、これら原典不明の千一夜物語のエピソードは「孤児の物語」と呼ばれている。「アラジン」も「アリババ」もどうやらガランが創作したか、あるいは原典があったとしても相当脚色して作られたらしい。そして、これがやたら面白かったことが事態を複雑にしたのだった。

さて、「千夜一夜」なのに二百三十四夜分、後にガランが追加した「孤児の物語」分を長さごとに区切って夜数に含めても五百夜程度でしかないことから、続きがあるはずだと誰もが考えた。しかし、どうしても見つからない。そこで、見つからないなら作っちゃえということで、次々と偽本が作られることになる。

1780年代、シリア出身の修道士シャヴィはガラン写本の続きと称する「アラジン」などを含むアラビア語写本を製作して出版社に持ち込み1788年、翻訳されて「続千一夜」として出版された(「シャヴィ偽写本」)。このせいでアラジンにはオリジナルのアラビア語文献があることになってしまった。続く十九世紀初頭、フランスの東洋語学校の教授に就任したシルヴェストル・ド・サシの門下生たちが次々と千一夜物語の偽アラビア語写本作成に手を染める。門下生サッバーグはバグダードに伝わる写本から筆写したと称してガラン写本の続きにあたる写本を作成するが、これは全くの偽物でバグダードに伝わる写本自体が存在しないものだった(「サッバーグ偽写本」)。しかし、バグダード写本の存在が長く信じられていたという。また、門下生ワルシーはアリババのアラビア語写本を作成するが、これが1910年に発見され、アリババの原典かと勘違いされる事態になり、1980年代に偽写本と判明した(「ワルシー偽写本」)。

これら偽写本ブームの中で、十九世紀初頭、「完全版」の千一夜物語が刊行される。1824年~43年にかけて刊行された「ブレスラウ版」はド・サシ門下のハビヒト、フライシャーによって刊行された一〇〇一話からなる「千一夜物語」だがガラン版に、ハビヒトがチュニジア生まれのユダヤ人から入手した「チュニジア写本」をあわせて作成されたものだが、現在ではこのチュニジア写本の存在は否定されているという。どうやらワルシーがサッバーグの写本を模して作成した偽写本をハビヒトらが参照しつつエジプトで収集された物語群を色々あつめて作られたものらしい。

欧州とは別にエジプトで独自に発展した千夜一夜物語があった。十七世紀以降、エジプトでは製紙業が衰退するが一方でヨーロッパからの輸入は増大、むしろ書籍の流通が急増して十八世紀に入ると書籍が一部エリートだけでなく都市の中流層など一般家庭にも広く行き渡るようになった。読書の隆盛は「話しことば」の文化と「書きことば」の文化とを接続し、『「話しことば」によって伝承されてきた文化が、「書きことば」によって伝承されてきた文化に貫入しはじめ』(P211-212)る。

その中で古くから読み継がれてきた「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」にエジプトの様々な伝承を加えた独自の「千一夜物語」が十八世紀に登場、1835年、カイロで「ブーラーク版」として千一夜分出版されるが、ガラン写本とくらべて雑駁でまとまりがないとされている。というのも、ブーラーク版の元になったのがフランスのゾータンベールによってまとめられた「ゾータンベールのエジプト系伝本(ZER)」で、この中の多くが「サッバーグ偽写本」に基づいているからだ。ゾータンベールはすっかり騙されてしまっていたらしい。ヨーロッパとイスラーム世界とが複雑に交錯しながら千一夜物語が成立していることがわかる。ヨーロッパに伝わったエジプト系千一夜物語は「マンチェスター写本」「マイエ写本」「ウォートリー・モンターギュ写本」などがある。

このエジプトの千一夜物語はイギリスに輸入された。イギリスでは十八世紀初頭にガラン版千一夜物語が英訳されて読まれていた。十八世紀半ば、レヴァント商会付き医師としてシリアのアレッポに滞在していたパトリック・ラッセルは現地で二百八十夜からなるアラビア語の千一夜物語を見せてもらい、これを写しとる(「ラッセル写本」)。このラッセル写本の写し(「ライデン写本」)を元に、1811年、イギリス東インド会社駐在員のアラビア語テキストとしてインドで出版されたのが「カルカッタ第一版」で、英国人が子供の頃から慣れ親しんだ物語を通じてアラビア語を学ぶニーズに応えたもので、1838年には、千一話からなる「カルカッタ第二版」が出版される。これは英陸軍少佐マカンが入手したという「マカン写本」を元に校訂されたとされるが、マカン写本は現存しておらず信憑性に疑問が呈されておりどのような過程で成立したか謎が多い。ただ、カルカッタ第一版、ブーラーク版、ブレスラウ版などとの類似が指摘されていて、これまでの写本・偽写本・エジプトの伝承の寄せ集め的な位置づけになっている。この「カルカッタ第二版」が現代の千一夜物語のベースになった。

1885年、英国のリチャード・フランシス・バートンによってカルカッタ第二版を底本として千一夜物語が出版、「バートン版」として現代まで愛されるアラビアンナイトのスタンダードの一つになった。続いて1899年、フランスのジョセフ・シャルル・ヴィクトル・マルドリュスによって、ブーラーク版と複数の写本を元にした千一夜物語が出版、この「マルドリュス版」もバートン版と並ぶアラビアンナイトのスタンダードである。どちらも底本からさらに脚色されており、これを批判する人も少なくない。

『アラビアンナイトは、中東とヨーロッパという二つの世界において、それぞれの事情と都合にあわせながらそれぞれの物語を紡いできた。ガラン写本の編集者、ブーラーク版の親本となった写本群の編集者、バートン、マルドリュス、それぞれが自らの属する文化が要求するアラビアンナイトを作ったのではないだろうか。
だが、近代ヨーロッパという圧倒的強者が再生産したアラビアンナイトは、シリアで伝承されエジプトで膨張した物語集のある部分については無視し、あるいは知識の欠如によって曲解もしくは意図的に強調し、さらには根拠のない想像を付加したものだった。ヨーロッパにとってのアラビアンナイトとは、魔法が横溢する中東風の異世界幻想であり、栄華と宿命観、官能と残虐が渾然となった東方イメージの増幅器だったといえるだろう。』(P239-240)

だが、この過程を通ったがゆえに、アラビアンナイト=千一夜物語は世界文学にもなりえた。

『近代オリエンタリズムと深くかかわり、ときにはその象徴ともなったアラビアンナイトはオリエンタリズムによってさまざまに変化し、ある時は西洋の夢に奉仕する存在にもなった。だがアラビアンナイトとヨーロッパの文学的接触という観点から見れば、オリエンタリズムによる異文化遭遇(=オリエンタリズム的文学空間の創出)を経由することで、この物語集の普遍化、平準化が促進された面をみすごすことはできない。』(P257)

男尊女卑的なイスラームのジェンダー観の中にあって語り手であるシェヘラザードが知的にも性的にもとれるよう無個性な『アラビアンナイト解釈の文化的背景によって、いかようにも変化する人物』(P255~256)として描かれていたことが、むしろ文明を越境する力をアラビアンナイトに与えたという。元々のガラン写本までのシリア時代の千一夜物語は「命がけで語る物語」という特徴を持っていた。命がけで語ることでシェヘラザードによって聖なる秩序が回復される物語だ。このコアの部分に普遍文学へと至る強さがあったようだ。

本書では、このほか、現代日本のアラビアンナイトに題材を採った漫画「マギ」と「月光条例」が紹介されている。著者はわざわざマギのボーイズラブテーマの同人誌即売会まで足を伸ばし(実際には知人の女性にいってもらい)、人気キャラクターの調査まで行ったりしていて射程の広さに感心させられた。著者が、腹黒い大臣イメージだったジャアファルが初々しい美青年になってまさかの人気一位に・・・とか驚いてるのにやにやさせられる。

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