まぁ絶版なので最初は書評書かなくてもいいかと思ったのだが、やはり本書の幕末史における重要度から言っても紹介しておく方が良いかなと。2007年の本なので、たぶんあと五年か十年かしたら中公文庫なり講談社学術文庫なりから再販されるんじゃないかと思うが、とりあえず良い本なので、古書なり図書館なりで一読おすすめします。一応、先日紹介した同じ著者の「江戸幕府崩壊 孝明天皇と「一会桑」 (講談社学術文庫)」2~5章で同時代の大まかなアウトラインはつかめます。
天皇の地位の急激な上昇
日本近世・近代政治史上最大のテーマ、それは「天皇は何故これほど急激に地位を向上させたのか」ということだ。
豊臣氏を滅ぼした徳川幕府は元和元年(1615)、禁中並公家諸法度を制定して天皇と朝廷を事実上支配下に置いた。表面上幕府と朝廷は対等という体裁を整えてはいたが摂関家以下公家は将軍に臣従し、武家伝奏を通じて朝廷統制が行われ天皇位も将軍の承認が必要となる。また各藩とも朝廷への接触は固く禁じられ、江戸時代を通じて各藩で天皇・朝廷についての理解も興味も非常に薄まっていく。天皇と朝廷は十万石程度の小大名クラスとして生き延びているだけで、その権威は幕府の支配を正統化するだけの道具でしかなく、完全に非政治主体となっていた。
その転換期として主流となっているのが十八世紀半ば、垂加神道に心酔した下級公家が幕府と摂関家の支配打破を唱えて弾圧された宝暦事件(1758)と軍学者山県大弐が古代の天皇政治を理想として江戸攻略を唱えたことで死罪となった明和事件(1767)である。水戸学、垂加神道といった尊王思想が、十八世紀半ば以降の幕藩体制の動揺と結びついて天皇・朝廷と幕府のあり方に変化を及ぼし始める。このような背景で即位した光格天皇(天皇在位1780~1817、院政1817~1840)は古代天皇を理想として朝廷権威の復権に努め、『自分は天照大御神・神武天皇以来の神聖な皇統に連なる日本国の君主』(P29)であると捉えるようになった。
十九世紀に入り、肥大化する一方の幕府財政赤字と社会不安に加えて、対外情勢が緊張の度合いを高めていくと、鎖国下であっても諸外国の中の日本を意識させられざるをえない。日本が諸外国に優越するものはなにか?その問いの中で、江戸期を通じて思想的に形作られてきた”万世一系の皇統”という尊王思想に注目が集まり始める。徳川将軍家を頂点とした身分制度の矛盾は天皇の下での平等を希求する観念にも結びついて不遇な中下層の公家に行き渡り素朴な庶民の信仰も呼び覚まして、忘れられたはずの天皇・朝廷の存在を考えさせるようになる。
豪胆な決断をせざるを得なくなった柔弱な天皇
そんな背景でペリーが浦賀沖に来航すると、天皇・朝廷と幕府の関係(朝幕関係)は大きく変わり始めた。その主体となったのが孝明天皇(天皇在位1846~1867)で、彼の一挙手一投足が幕末の政治状況を大きく動かしていくことになった。このような流れの中で、孝明天皇の人柄から幕末政治における役割に至る様々な面について近年大きく注目が集まっている。
近世史家の間では光格天皇の意志を受け継ぐ豪胆な天皇という評価がある一方で、本書ではその豪胆説に対して様々な史料を下に批判を加え、繊細で、ともすれば優柔不断にも見える優しい性格の天皇像を浮き彫りにしていて、非常に興味深い。優柔不断で気配り人である孝明天皇が、何故、激しく外国人排斥を叫び、それを頑なに貫いたのか。孝明天皇がこれほど強く攘夷に拘らなければ幕末の情勢はもっと違ったものになったはずで、彼を攘夷主義に走らせた要因を、主に孝明天皇と関白鷹司政通、そして朝廷の諸公家、井伊直弼、徳川斉昭、幕閣、薩摩・長州などを中心とした諸勢力の関係性の中に求め、ペリー来航から安政の大獄へ至るプロセスを丁寧に解きほぐしていく。
豪胆な性格ゆえに豪胆な決断をしたのではなく、幕末期特有の状況が彼を追い込んで豪胆な決断をさせることになったのであり、それがさらに彼を追い込んで攘夷に固執させ、そして彼の苦悩と反比例するように天皇の地位を大きく押し上げていった。天皇の地位の向上は、大きな変化を望まず良好な朝幕関係の維持を目指した彼の意志に反して、その死後。徳川幕府を倒壊させるとともに摂関政治の終焉をもたらしていくという、皮肉な結末へと至る。
みんなの意見を聞いてみる、から始まる混乱
面白いのは、そもそもの始まりが、「大変なことになったのでみんなの意見を聞いてみよう」であるところだ。幕府にしても天皇にしても、黒船が来て開国を要求している!どうしよう?とみんなに聞いてみる。すると、実のところ意見を持っている人というのはそう多くない。現実的な意見も確かにあることはあるが、意見を持っているのは「外国人入れるな!打ち払え!」か「徹底的に開国していきましょう!」という両極端な話がほとんどで、大半は「よくわからないので将軍(ミカド)の判断におまかせします」「みんなでよく話し合うといいと思います」という。こうなると「意見なし」という支持を受けたことになって決断する側の責任だけが一方的に大きくなってくるとともに、決断する人の後ろ盾としても機能して決断者の地位を押し上げる。現実的な落とし所をどうするのか、どうしてもどこかの勢力の意見を切り捨てて行かざるをえないから、対立が対立を呼ぶことになる。
日米和親条約締結を決断した阿部正弘にしても、独裁的な地位を獲得して日米修交通商条約を結び開国した井伊直弼にしても、苦渋の決断の中で攘夷へと走った孝明天皇にしても、みんなの意見を聞く、が彼らの地位を押し上げる一方で、意見が対立しあう者同士の衝突を産みつつ、既存の体制を望むと望まざるとにかかわらず突き崩していくことになった。多くの人びとがダイナミックな変化を望んでいないにもかかわらず、その帰結としてあまりに劇的な変革を呼び起こす。
また、幕末期の天皇や公家に対する「世界史の流れを理解できない頑迷固陋な人間集団(閉鎖的で狂信的な攘夷主義者の集まり)といった評価」(P3)も本書を読めば、というか、近年の幕末史の書籍を読めば概ね否定されていることがわかるだろう。みんな非常に積極的に国際情勢の情報を入手しようと手をつくしている。ただ、情報というのはそれこそ玉石混交、根拠の無いデマや作り話、尾ひれ背ひれがつくだけでなく百倍にも千倍にも膨れ上がって原型をとどめていないものなどで溢れているから、その中からの取捨選択の過程でどう決断するか、というと必ずしもベターなものにすら成り得ないことが多い。そういう困難さもまた、当時の彼らの動向と意思決定から見えてくる。あやふやな情報に右往左往しつつディスコミュニケーションの応酬がどんどん事態を予測不能な状態に追い込んでいく様子もまたリアル。
孝明帝の地位上昇と攘夷
ペリー来航当初、孝明天皇は幕府の和親条約締結に理解を示していた。老中阿部正弘は朝廷にも意見を求めるなど配慮を示し、朝廷も関白鷹司政通を中心に情報収集を行いつつ、国際情勢を踏まえて朝幕関係の維持を再優先におき条約締結の方針で固まっている。条約締結後、孝明帝も安堵の和歌を詠んでいるぐらいだ。
幕府と朝廷のパーフェクトコミュニケーションが大きく崩れる要因は幕閣における路線対立にある。阿部正弘に代わり老中となった堀田正睦が米国公使ハリスの説得で日米修好通商条約締結に傾くと、攘夷主義者の水戸藩主徳川斉昭はこれを阻止するべく幕府首脳とともに朝廷にも働きかけを行い始める。徳川斉昭はとにかく不人気な人で、彼の開国阻止活動は幕府関係者の間で、病弱な将軍家定の後継者として斉昭の子一橋慶喜を擁立しようという陰謀の一貫として捉えられ、拒否反応を呼び起こした。
修好通商条約締結の是非と将軍継嗣問題は朝廷に波及して、特に斉昭はハリスに関してあることないことデマ・悪評を流して朝廷関係者の不安を煽った。様々な幕政の対立や通商条約締結を巡る諸情報のどこまでが事実なのか、適切な判断を行うのは難しい。そんななかでハリス上府(江戸行き)問題が浮上すると、ハリスに押し切られる幕府という構図が朝廷関係者の間にも広がり、彼らはその弱腰姿勢に不満を覚えるようになる。
そんな中、幕府から修好通商条約締結を決断する旨の説明を行う使者が朝廷を訪れる。従来幕府の決定は京都所司代を通じて一方的に通知されるものだったが、挙国一致体制を築くために朝廷を尊重したかたちだ。ところが、ここで、老中の一人がついうっかりオフレコでハリスの悪口を公家にもらしてしまい、これが朝廷内になんとなく広がっていた不安感に火を点けてしまう。
「いや、ちょっと待って下さいよ。もう少し慎重に考えましょうよ」と朝廷側は幕府に控えめに意見を伝え、幕府も「ああしまった」というわけで、幕府もあらためて説得工作を開始するが、あちらを立てればこちらが立たずでこれが難航し、朝廷内の微妙な権力抗争も絡んで、孝明帝はどうも開国(修好通商条約締結)は行き過ぎなんではないかと思うようになるが、どうしたものかわからずすっかりノイローゼ気味になる。そこで孝明帝は多くの人の意見を聞いてみようと考え、まずは朝議に参加しない摂家へ、続いて諮問範囲を朝臣へと広げてみると、『彼らの多くは、通商条約そのものの可否に関しては意見を表明せず、徳川御三家以下諸大名の意見を聞いた上で判断すべきだと返答することになる。また、同様に多かったのは、京都および京都近在での開港開市は避けるべきだとの意見』(P237)で、概ね孝明帝も同様の意見であった。
多くの公家の意見を聞いたことで後ろ盾を得た孝明帝は開国路線の太閤鷹司政通と対決、彼は職を辞すことになり、徳川御三家以下諸大名の意見の再聴取とその結果を朝廷に知らせて欲しいという旨幕府に返答することになった。これに驚いたのが老中堀田正睦で、以後朝廷と幕府との間であれこれ押し問答が繰り返されることになるが、ベテラン政治家であった鷹司政通失脚後、関白に就いた九条尚忠は当初鷹司の失脚を目指して孝明帝に同調していたものの、いざ朝幕関係の間で板挟みになると幕府へ譲歩する方向へ傾き、主体性を今ひとつ確立できない孝明帝もこれに同調する。ところが、関白の譲歩姿勢に対して今度は中下級公卿たちが異を唱えて、次第に圧力集団として組織されるようになり、勅答の変更を申し入れる、関白に集団提訴を行うなど実力行使に出るようになった。
このような下級貴族集団の行動を踏まえて朝廷も強気に出ざるを得なくなり、安政五年(1858)三月、ついに朝廷は通商条約拒否を幕府に通達、このとき、伊勢神宮の神慮に委ねる旨盛り込まれていたことも堀田を驚かせている。
『孝明天皇が苦肉の策として採った諮問範囲の拡大策は、結果として、旧来の摂家による支配体制を大きく揺るがすことになった。そして、それとは裏腹に天皇の存在を際立たせることになった。すなわち、朝廷内にあって、他の誰にも増して、圧倒的に優越する立場となった孝明天皇の許、朝廷は表面的には、上下押しなべて、アメリカとの通商条約締結に反対することで一致することになった。』(P267)
この朝廷の反対がアメリカに伝わると、アメリカは交渉対象として朝廷を捉え幕府を飛び越えて天皇と交渉しようとするようになり、幕府もこれに対して京都を重視せざるを得なくなって、後に京都と江戸に幕府を分裂させることになった。
一方、幕府では対朝廷問題でミソをつけてしまった堀田を罷免し、井伊直弼が大老に就任、徳川斉昭を幕閣から排除した上で徳川慶福(家茂)を将軍継嗣と決定し、日米修好通商条約締結に向けて一気に進めていくことで一致した。最早、朝廷の反対は無視してしまおうと言うわけで、安政五年六月、勅許を得ないまま日米修好通商条約が締結される。
井伊直弼にしてみれば、これまでの朝幕関係のあり方から大きくはずれてかなり譲歩して色々意見を聞いてきたし、それに留まらず諸藩の意見もとりまとめてきた、そもそも朝廷は幕府に政治を委任しているのだからこれ以上朝廷の言うことを聞く必要は無い、ということになるのだろう。逆に孝明天皇にしてみれば、開国は行き過ぎで現状維持が最優先されるべきであり、こんな重大事を幕府は大して人の意見も聞かず強引に進めようとしているし、開国したことで起こる悪い影響はよく考慮されるべきで、もっと話し合う必要があるんじゃないのか、ということになるわけで、すれ違いがすれ違いを呼んで、どんどん悪い方へと転がり落ちていく。
勅許なしの日米修好通商条約締結に怒り心頭(史料上「逆鱗」という言葉が使われる)の孝明帝は水戸藩を始めとする諸藩と幕府に対し開国阻止とその意思表示としての自身の退位を記した勅書「戊午の密勅」を下し、水戸・一橋グループを始め日本中の勤王派がこの井伊直弼のやり方に異を唱えて尊王攘夷の嵐が日本中を覆い始めると、井伊直弼はさらなる強硬策に出る。安政の大獄である。攘夷活動家や朝廷の廷臣も多く捕らわれて、朝廷も孝明帝も大きなダメージを負い政治的発言を封じられるが、日本中に攘夷の象徴として天皇が強く印象づけられることになり、その地位は下がることはない。以後、井伊直弼暗殺から武家政治の終焉まで、ノンストップに歴史が動いていく。