ソ連の崩壊により北アジア・ユーラシアの考古学研究は九〇年代後半から二〇〇〇年代にかけて様々な発見が相次ぎ非常に大きく進歩している。本書は、日本人として現地に赴きモンゴル史上の様々な発見をリードしている著者が、近年の様々な研究成果を盛り込み、あらためてチンギス・カンと彼の打ち立てたモンゴル帝国草創期についてまとめた、非常に面白い一冊だ。
これまでヴェールに包まれていたチンギス・カン以前のモンゴル史に始まり、モンゴルの軍事・政治・社会・生活・信仰、そして様々な遺跡からわかるモンゴル帝国の実情まで広く深く描かれているが、やはり面白かったのは「ヘルレンの大オルド」と伝わるチンギスの都としてほぼ確実視されているアウラガ遺跡の話だろう。
『アウラガ遺跡はモンゴル中東部、ヘルレン河上流のヘンティ県デリゲルハーン郡にある十三世紀の集落跡で』(P85)、1967年に発見されていたが、本格的調査が進んだのは九十年代後半からのことだ。著者白石氏率いる日本とモンゴルとの合同調査団によってチンギスのものと思われる霊廟を始め建物の遺構や様々な埋蔵物など多くの発見がなされた。
特に興味深いのが巨大な鍛冶工房の跡で、『ここから出土した木炭の放射性炭素年代は、十二世紀から十三世紀後半の値を示していた。まさしくチンギスの生きていた時代に、この工房は操業していた』(P86)という。さらに詳細な調査の結果、『製錬→精錬→鍛冶という、原料から製品まで一貫した工程の鉄器生産が行われていたことを示す、おびただしい数量の鉄滓などの製鉄関連資料を収集』(P87)することができ、ここがかなり大規模な軍需工場であった可能性が高いという。
さらに、アウラガ遺跡から見つかった鉄の産地が、ここから約一三〇〇キロ離れた山東半島や長江流域であることも明らかになり、どうやら鉄の産地である山東からアウラガまで大規模な鉄の輸送ルートが確立され、この地で武器が大量生産された後、最前線へと次々と送られていたと推定されている。
また、2001年からアルタイ山脈のゴビアルタイ県シャルガに調査団が入り、2004年、同地で城塞跡が発見、「ハルザン・シレグ遺跡」と名付けられ、これがチンギスが側近の鎮海に造らせたと伝わる兵站基地「チンカイ城」であることが濃厚となり、アウラガ遺跡と最前線をつなぐネットワークの役割を果たしていたとかんがえられるようになった。同様に、天山山脈越えの要衝ビシュバリク、その西のアルマリク、後に首都となる同じくチンギスの命で拠点が築かれたカラコルムなどが、大オルドとして推定されるアウラガ遺跡からいずれも等距離で築かれており、ユーラシアにまたがるモンゴル軍の進軍・補給ネットワークが浮き彫りになってきている。
『等間隔に拠点が設けられたことによって、進軍や補給などのスケジュールが立てやすくなった。戦争がシステム化されていった。
鉄→交通→後方支援、この三つの確保と連携、それがチンギスの”勝利の方程式”だった。彼の戦略は、そのすべてに用意周到であった。』(P100)
補給網・輸送網を確立し、資源確保から製造、供給まで高度にパッケージ化して、中央集権的に再編成され、最新鋭の武器を装備し、十分な兵站が確保された軍を高速移動させる、というチンギス・カンの戦略が、彼の築いた体制から、遺跡を通して浮き彫りになる。その、考古学と歴史学の鮮やかなリンクが、本当に面白い。
また、オルドというと、僕の世代なんかはコーエーのゲーム「蒼き狼と白き牝鹿」をやりこんだこともあってハーレム的なイメージが強いが、もっと多義的なものであったようだ。『後宮と生計基盤を合わせた組織であり君主の生活を支え』(P115)、側近や近衛師団もあって権力の中枢でもあり、『あるときは実視できない制度・組織をあらわし、またあるときは実視できる構造物に用いられる。実際にみえるもの、それは宮廷の場であり、そこにある宮殿を指す』(P115)。
アウラガ遺跡には鍛冶工房だけでなく、おそらくチンギスの宮殿だったと思われる天幕を建てた跡も2001年に発見されており、漢地とモンゴル高原を結ぶ主要幹線道路が通り、華北で生産された陶磁器や、中央アジア以西のソーダガラス製のガラス器など各地の品々も多数発見されているなど、物流ネットワークの中心でもあったようで、様々な状況証拠がどうやらヘルレンの大オルドであったという予測を補強しているようだ。
そして、その大オルドは豪奢とは程遠い質素な作りでもあったらしい。
『後世の人間は「世界征服者」に対して必要以上に重厚長大であることを要求している。豪奢な生活をしていたはずだと決めつけている。それは一種の先入観である。今までのチンギスに関する考古資料はけっして多くない。もちろん略奪や散逸で失われたもの、長い間に腐敗してしまったものが多いはずだ。発掘品だけからチンギスのすべてを語れるとは思っていない。だが、おぼろげながら彼の実像がみえてきた。その管見によるチンギスは驕れる支配者ではなく、質実剛健な遊牧民の姿をしていた。』(P139-140)
モンゴル帝国とチンギス・カンについては、どうしても軍事偏重のイメージで捉えられがちなのだが、近年のモンゴル史の研究は本書も含めて、もっと多様なネットワーク社会としての有り様を浮き彫りにする方向になってきているなぁと思う。このあたり、多分学校では習わない範囲のお話でもあるだろうから、かなり新鮮な気持ちで読めるんじゃなかろうか。