昭和十五年(1940)の国際オリンピック大会は様々な政治的思惑が絡んで東京に決定したが、開催直前になって返上を余儀なくされた。招致活動の開始から返上に至る過程を丁寧に描いた一冊。
1940年オリンピック返上の理由として「日中戦争の影響」と一言で片付けられることが多いが、本書を読むと、むしろ、日本側の準備不足と責任能力の欠如こそが大きな要因であったことがわかる。そのドタバタっぷりは、某アニメの台詞ではないが「なんですか、これ」って言いたくなるレベルだ。
オリンピックには普遍主義と国家主義という二つの顔がある。人種・民族・国家を越えて選手一人一人が参加することに象徴される平等と差別排除の追求、主体となる選手の身体性と結びついて増幅される国家の威信と同胞意識。オリンピックの登場以来、この二つは常に表裏一体であった。1940年の東京オリンピックへ至る過程もこの双面から自由ではない。
そもそもの始まりは、東京市長永田秀次郎である。永田は非常に強いリーダーシップと見識を備えた行政官で、関東大震災からの復興の指揮を取り、1924年退任後、1930年に東京市長に復帰。復興の先を考えているところに、昭和十五年に訪れる紀元二千六百年の祝賀をオリンピックと結び付けてはどうかと職員が提案、これに乗った。「日本は貧弱である」が「今日東西の文化を融合して、世界人類の凡てに貢献すべき、絶好の境遇と才幹を有して居るものは、何としても我国の外には無い」として、日本陸上競技連合会長で、同じくオリンピック招致を考えていた山本忠興らとも協力して積極的に動き始めた。
しばらくはスポーツ界も政府も民意もオリンピック招致に冷淡だったが、1932年のロサンゼルス五輪が一変させた。満州事変、五・一五事件と悪化する国内外情勢の緩和のため、五輪に多数の選手団を送り込んだところ、これが大活躍して五輪熱に火をつける。永田も本格的に招致に乗り出すが、33年、東京市会汚職事件が起きて辞任を余儀なくされた。招致活動は次代の東京市長牛塚虎太郎が中心となった。
本書ではここから、嘉納治五郎と副島道正という二人に注目して描かれている。嘉納はよく知られているように日本柔道の父である。副島は維新の元勲副島種臣の三男で1934年のIOC委員として新任された人物である。二人とも東京オリンピック招致に強い情熱を注いだが、根本的に相容れない面があった。以下は実際に決定後の対比だが、二人の違いがよく現れている。
『嘉納は東京オリンピックを国家的大事業ととらえ、組織委員会も体協や東京市だけでなく、各界を網羅した構成にする必要があると主張していた。東京オリンピックは単にスポーツ競技のみの大会ではなく、日本の文化や精神を各国の人々に理解させ、国民精神の作興に役立つものでなければならぬ、というのが嘉納の信念であった。
これに対し新英米派の自由主義者だった副島は、ナチスの影響が強かったベルリン大会をよしとせず、国家主導を排し、スポーツ精神に立脚した東京オリンピックを脳裏に描いていた。組織委員会も大日本体育協会が中心となって結成すべしと強調していたのである。』(P146)
この二人の考え方の違いが東京オリンピックを巡って非常にドラマティックに展開していく。
招致は、ローマが最大のライバルだったが副島の交渉によってムッソリーニから立候補辞退の言を引き出した。エチオピア出兵に注力したいムッソリーニの思惑が日本への譲歩に繋がったと言われる。日本に接近したいヒトラーもIOCに強く働きかけを行い、1940年の東京オリンピック開催が決定するが、ここからがドタバタ劇の始まりだ。
オリンピックの準備は二・二六事件以降強力に独裁体制を築く軍部の意向が大きく左右することになった。特に難航したのが競技場の建設場所で、東京市は月島埋立地を推し、招致委員会は神宮外苑競技場で申請を果たしていて、一方で月島は風の強さから現実的ではなく、神宮外苑は周辺の代々木練兵場の使用に陸軍が難色を示し、神宮外苑の拡張工事に内務省神社局が反対し・・・とそれぞれセクショナリズムに囚われて一向に会議が進展しない。また、聖火リレーをギリシアからではなく天孫降臨の地宮崎から東京までにしよう、とか突拍子もない「神火リレー」案も宮崎県から飛び出したりして、迷走につぐ迷走を続けた。
神火リレー案、宮崎県学務課で検討中という記事を東京朝日新聞が報じ、陸上関係者もこれに賛同して宮崎県が神火リレー運動を起こし、伊勢神宮のある宇治山田市(現伊勢市)が対抗して伊勢神宮から東京への神火リレーを働きかけ、聖火リレーにかわり国内聖火論が強まって組織委員会が右往左往、聖火リレー中止にしようとしたが、今度はIOCから抗議されてこれまた撤回、今度は満州国を通るかどうかで議論白熱・・・という展開である。
当時の読売新聞の批判が耳に痛い。「(組織委員会では)如何せん、各委員とも排他的の島国根性を露骨に発揮して譲らず、いつの会合も勝手な熱の吹き合ひに終始して纏まらず・・・」(P173)。終わりの見えない日中戦争も影響を及ぼして「情勢が変わったら・・・」と問題を先送りさせ続け、東京オリンピックのメインスタジアム建設予定地が駒沢に決まったのは、実に・・・1938年3月29日。あと二年で一からスタジアムを造り、周辺を整備し、関連施設を各地に用意し、準備万端整えなければならない。二年間、「会議は踊る、されど進まず」を続けていた。
この間、国内では国家総動員法が施行され、日中戦争は泥沼化、オリンピック熱もどんどん冷めて反オリンピック運動が国会議員や軍部でも大きくなる。また国家総動員法を背景に資材不足が明らかになり、競技場着工のめどが全く立たなくなってしまっていた。また、海外でも全く進展を見せない日本のオリンピック準備に心配する声が非難へと高まり、さらに日中戦争に対しオリンピックボイコットの動きも強まり始め、日本の威信はどんどん低下していった。
このような状況でなんとしてでも東京オリンピックをやり遂げることこそ国家の信頼と考える嘉納治五郎と、国際協調の立場から早期に実現可能性を判断して無理なら返上することこそ国家の信頼と考える副島道正との意見対立が深まり、やがて命を賭して世界を説得する嘉納、汚名を一身に背負って政府に決断を迫る副島というドラマティックな展開に至る。
「一九四〇年オリンピックの問題点のひとつは、紀元二千六百年記念として開催したいとの意欲が先行したため、肝心の競技施設を事前にまったく整備しないままに立候補し、しゃにむに招致運動を進めたことである。そのつけがまわってきたというべきだろうが、日中戦争の影響で競技場建設が事実上ストップしたことにより、東京大会は否応なしに開催か中止かの岐路に立たされることになる。
さらに付言すれば、招致の段階で東京オリンピックを紀元二千六百年記念事業の一環と位置づけたことが、その後の情勢変化により、逆に大会開催に困難な状況を生み出したともいえる。日本の軍国主義化が急進するにつれ、オリンピックに内包される国際的、平和的な理念と、「紀元二千六百年」の持つ国家主義的性格との矛盾が激化し、軍部だけでなく政府内部でも、東京オリンピックの意義を認める空気が急速に希薄になっていたのである。」(P235)
戦前の体制に関する様々な「失敗の研究」本があるが、本書も、東京オリンピックの招致から返上へという過程を通して意思決定の不在、利害関係者間の調整不全、問題の先送り、原則論への固執などといった、まさにその「失敗の研究」が描かれているので、そのようなテーマに興味がある方におすすめ。