「オカルトの帝国―1970年代の日本を読む」一柳 廣孝 編著

映画、TV、小説、アニメ、マンガ、ゲームなどのサブカルチャーから宗教・思想さらには日常生活の隅々までオカルトは薄く広く拡散している。日本におけるオカルトの広がりのルーツを辿ると1970年代に行き着く。では、現代日本という「オカルトの帝国」の原風景といえる1970年代のオカルトの大流行はどのようなものであったのだろうか。「閉ざされた知であるオカルトが白日の下にさらされた1970年代」を描く論文集である。

ただし、絶版。ひと通りネット書店を見て回っても購入することは出来ないようなので、興味がある方は図書館か古書店で。

目次
第一部 オカルトの日本
  第一章 オカルト・ジャパン・シンドローム――裏から見た高度成長
  第二章 小松左京『日本沈没』の意味
  第三章 ディスカバージャパンと横溝正史ブーム
第二部 メディアのなかのオカルト
  第四章 エクソシスト・ショック――三十年目の真実
  第五章 「ノストラダムス」の子どもたち
  第六章 宗教書がベストセラーになるとき
第三部 表象としてのオカルト
  第七章 <霊>は清かに見えねども――「中岡俊哉の心霊写真」という<常識>
  第八章 一九七〇年代の「妖怪革命」――水木しげる『妖怪なんでも入門』
  第九章 オカルト・エンターテインメントの登場――つのだじろう「恐怖新聞」
第四部 オカルトの現代史へ
  第十章 円盤に乗ったメシア――コンタクティたちのオカルト史
  第十一章 メディアと科学の<聖戦>――一九七四年の超能力論争

公害病の恐怖

本書によれば、1970年代初頭のオカルトブームの背景として、大きな影響を与えることになるのが、1950年代後半、朝鮮戦争特需を契機とした高度成長の影で顕在化した公害病であったという。当初、水俣病は原因不明の「全近代的な憑き物筋といった家系や祟りなどと結び付けられたり、『うつるから道を通んな』と罵られるなど」(P21)、「血筋などによる遺伝ないしは伝染性の奇病」(P23)として扱われる。

このような「憑き物」について、戦後まもなくの時期に、大きな復権があったともいう。敗戦を契機にした人心の不安定な時期、祈祷師の横行、顕在化する家族問題や復員による結婚など、憑き物の俗信が「明治・大正ごろの記録にあるような状態にまで逆戻りしたかの感があった」(P64)。戦後の混乱の中での迷信の復活、相次ぐ核実験による放射能の脅威、そして原因不明の公害病への恐怖などが1950年代から60年代に人びとの間に広がり始める。

「公害も放射能も目には見えず、ただひたひたと人々の生命をむしばんでいく。そのことへの恐怖心は、たまたま奇形という現象を伴った水俣病に収斂され、やがてメディアに表象されたオカルトへと像を結んでいく。」(P23)

さらに様々な公害病とともに「らい病(ハンセン氏病)」(のち「ハンセン病」に改名)に対する偏見と差別もまた、原因不明の奇病への恐怖と通底していた。1960年代後半になってやっと公害病の原因が究明されるようになるが公害問題への着手の遅さは、社会不安を増幅させるに足る時間を与えた。

このようななかで恐怖のモティーフは「外部からの恐怖」と「内部からの恐怖」へと二極化、テレビやマンガなどを通してオカルト的な物語・言説が盛り上がっていく。その嚆矢として1961年、楳図かずおが恐怖マンガで登場し、「外部からの恐怖」として1966年「ウルトラQ」に始まるウルトラシリーズ、「内部からの恐怖」として1967年「幻魔大戦」がそれぞれ先駆となって、二極化しながら定着していった。

日本の伝統文化の再発見

もう一つが高度経済成長の終焉にともなう、日本の伝統文化の再発見というムーブメントである。高度経済成長の影で顕在化した公害と環境破壊は科学と進歩の負の側面を実感させ、「物質的な豊かさは手に入れたが、本当に大切な心の豊かさを失った」(P67)という民話に見られる話型があらためてマーケティング手法として取り入れられた。1970年、電通は国鉄の「ディスカバージャパン」「美しい日本と私」というコピーでキャンペーンを企画して国鉄、雑誌、メディアなど広いタイアップで大々的に古き伝統的日本の再発見を提唱した。

この「日本再発見」の文脈から、民俗学や美しい自然、秘境そして1950年代の金田一耕助シリーズを代表とする横溝正史作品のブームが仕掛けられる。「憑き物」「血の因縁」など戦後復興した俗信をテーマにした一連の横溝作品が再発見されたのは、「科学の『理』を装った非科学性を軸」(P76)としていることにあるという。オカルトブームにおいて心霊写真が科学的に解明されるように、不可思議な「血」の因習にまつわる事件はその不可思議さはそのままにして金田一耕助によって「科学的」に解明される。再発見された伝統的な日本の風景と重ね合わされるようにして、「美しい日本と私」のイメージにそって消費された。柳田國男の「遠野物語」や宮本常一の「忘れられた日本人」なども、この文脈の中で注目を集め、やがて日本の原風景として定着するが、同時に70年代オカルトブームの底流となっていく。

国家主義オカルトから平和主義オカルトへ

また、米国のオカルト・スピリチュアリズムの影響も大きい。戦前戦後と、日本のオカルトは米国の流行とほぼパラレルに進行した。二十世紀初頭、米国で神智学の影響が強いメタフィジックス運動が流行すると、日本では大本教が、1930年代に国粋主義的オカルト運動が流行すると日本でも神政龍神会などの天皇メシアニズムや霊的国家論、万教帰一思想が台頭した。

戦後日本の大きな特徴が「敗戦に伴う天皇=メシアニズムの消滅、そしてその空白を埋める大義としての『平和』の出現」(P244)であったという。戦前は大政翼賛会の幹部で全ての宗教がすめらみこと信仰の下で統一されるべきとする万教帰一思想を唱えていた下中弥三郎は戦後、天皇から平和へ看板をかけかえて世界連邦創設を唱えた。

「世界一家の思想は日本の神ながらの思想であり、この日本こそ世界政府創設のイニシャチブをとるべきである、米英にも追随せず、ソ連・中共にもおもねらず、自主独往、世界連邦の建設をもって日本外交の柱とせよ」(P245)

「天皇」と「平和」を入れ替えただけだったが、「戦前の天皇メシア論者から戦後の社会主義者まで、みんなが翼賛できる都合のいい価値であった」(P256)。同様の「平和」を大義とする動きはかつての国家主義的オカルトから大本教や創価学会など新宗教まで広く見られることになり、「平和」を大義としてUFOや超能力、陰謀論、終末予言なども抱合したオカルト的な主張を行う団体が次々と登場して一つの潮流を形成した。

本書で紹介される1957年に結成されたUFO崇拝の新興宗教「宇宙友好協会(CBA)」は興味深い。生長の家の信者幹部を多く抱えた同団体はアダムスキ的平和主義・植民地解放を唱えていたが、やがて、古代に宇宙人と連携しようとした九州古代国家対大和朝廷という構図を唱えて天皇制批判を行い、反共主義の生長の家と対立、決別したという。最近話題の右派団体日本会議のルーツとして生長の家が挙げられていることも踏まえると、このあたりの60~70年代オカルトの底流は非常に興味深く、現代まで脈々と流れているようだ。現代では右派と左派として分けられがちな潮流を遡るとオカルトを媒介にして一体のものとして存在していたわけだ。あと、かつてはスピリチュアル寄りだった幸福の科学の教義が国家主義へとシフトしていったあたりも、ここまでオカルトの源流を遡るとさほどおかしなものでもないな、とも思わされる。

公害病に象徴される恐怖の具現化、日本の伝統文化の再発見、国家主義から国際協調主義までオカルトを媒介にして接続する大義、これらが高度経済成長の終焉とともに、「現代科学への不信を背景とした、『物質文明に虐げられた自然の復権』という図式」(P170)を共通の論理として1970年代初頭から同時多発的に「オカルト」を顕在化させたという流れが見えてくる。

オカルトブーム

こうして登場した超能力、UFO、心霊写真、妖怪、血の因縁、終末予言などの様々なオカルトが、急速に普及したテレビと出版というメディアを通じて拡散する。また、新新宗教の教祖たちが出版する書籍がベストセラーになりはじめたのもこの頃のことだという。経営の神様松下幸之助と後に麻原彰晃が師事した阿含宗管長桐山靖雄との主張の類似の指摘は非常に興味深い。彼らを始め当時の仏教関連書にいたるまでみな「終末論的な問題意識とセットになった『真の文明』への社会改革」というモティーフがみられ、松下も桐山もその社会変革のために自己変革を特に重視するという点で良く似ているという。

エクソシストの公開を契機として大きな盛り上がりを見せる70年代のオカルトブームはやがて超能力を巡ってメディアが用意した超能力の「信奉者(ビリーバー)」対科学の「信奉者(ビリーバー)」という極端な二項対立の構図の中で煽られ、やがて沈静化していくが、この演出された対立は、和製オカルトに特徴的な、受け入れるが信じないという二律背反的な態度を広く行き渡らせることになった。

その後、オカルトは大衆文化として根付き、一方でサブカルチャーからメインストリームまで豊饒な文化を提供し、他方で疑似科学やカルト宗教などへのアクセスを容易なものとして、現代へと繋がっていく。

米国の宗教右派運動などと同様に、やはりマスメディアの影響力の大きさがオカルトの隆盛に多大な貢献をしていることがよくわかる。同時に、日本社会におけるオカルトとの親和性の高さは、当時のようにいくつかの要因がトリガーとなって一気に噴き出すことにもなるのだろう。現に、物質文明や秩序や多数派への異議申立ての手法としてオカルトに有用性・有効性を見出す文化というのは確かに広く薄く行き渡っていて、これまでも繰り返し発現してきたことが、本書を読んで改めて認識させられた。

あと秘められた超能力とか、闇の勢力と戦うというような、いわゆる中二病的イマジネーションもこの時期のオカルトブームと切っても切り離せないと思うのだけど、おそらく思春期の自意識高い妄想のありようも70年代オカルトブームの前と後とでがらっと変わってそう。

非常に興味深い内容の論集なんだけど、本書へのアクセスは非常に限られているので、機会があれば読んでみると、有用な現代日本を捉える視点を得ることができるんじゃないかと思います。

あわせて、欧米の動向から現代日本への潮流の理解としては大田俊寛著「現代オカルトの根源 (ちくま新書)」、また、源流としての英国の心霊主義運動については吉村正和著「心霊の文化史—スピリチュアルな英国近代」なども参考に。また、続編として1980年代のオカルトの動向を描いた「オカルトの惑星―1980年代、もう一つの世界地図」という論集もあるがこちらは未読。

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