「トップ記事は、月に人類発見!―十九世紀、アメリカ新聞戦争」

一八三三年九月二日深夜、二十三歳の若き印刷工の青年ベンジャミン・デイは自宅兼印刷所の作業所で一生懸命新聞を刷っていた。といっても、全くオリジナルの新聞だ。

様々な新聞からかき集めて面白おかしくリライトした事件記事、嘘の企業広告、でっちあげの作り話・・・当時の新聞は上流階級向けのお硬いものしかなく、縦九十センチ×横六十センチの大きさで、価格も六セントと高額なため労働階級は手が出せない。そこで、労働階級向けに娯楽と事件と性に特化したコンパクトで低価格な新聞を出せば、大儲け出来るはずだと考え、それを実行に移したのだった。若くして結婚した妻は二人目を妊娠し、印刷工の仕事は実入りも少なく生活は苦しい・・・その目論見は大当たりだった。瞬く間に、彼の出した新聞「ザ・サン」はニューヨーク一の発行部数を誇るタブロイド紙の草分けとして知られるようになる。

ところで、現在の英国大衆紙「ザ・サン」は1964年に創刊されたもので、この「ザ・サン」は1833年に創刊し1950年に廃刊したアメリカの大衆紙なので直接のつながりはない。しかし、米国大衆紙「ザ・サン」の成功が大衆紙としての「ザ・サン」のイメージを確立している。

本書は1830年代、その「ザ・サン」が1835年にでっち上げた月に人類が発見されたという嘘記事を巡るドタバタ劇を中心として、タブロイド紙の隆盛を経て新聞が広く浸透していく様子を描いたノンフィクションである。本編450ページに及ぶボリューミーな一冊だが、全ページ一瞬も目が離せないぐらい面白い。

嘘、デマ、でっち上げ、面白おかしくセンセーショナルな記事満載の「ザ・サン」は創刊三ヶ月でニューヨーク一の発行部数となると、「ザ・サン」の成功を真似て同様のタブロイド紙が次々創刊され、熾烈な競争が始まった。各紙競って真偽よりも刺激的で扇情的で暴力的で娯楽色豊かな記事を書くことに努める。そんな中、「ザ・サン」編集主幹リチャード・アダムズ・ロックがでっちあげたのが「天文学的大発見」と題した月面に知的生命体が発見されたとする記事だった。

かの哲学者ジョン・ロックの遠縁にあたるという「ザ・サン」編集主幹リチャード・アダムズ・ロックは、高名な天文学者で当時ベストセラーになっていた天文学入門書の著者ジョン・ハーシェルの関係者をでっちあげると、ハーシェルが月に豊富な自然や建造物、一角獣やグリフォンや知性を持ったヒトコウモリといった生き物を発見、論文を発表するという嘘記事の連載を始め、これが読者を惹きつけた。いや、惹きつけたどころの騒ぎではなく、文字通り熱狂させた。この連載で「ザ・サン」はロンドンの高級紙「タイムズ」すら抜いて約二万部を売上げ、世界一の新聞へ躍進する。

精緻な科学的・天文学的知識を盛り込んで練り上げられた嘘記事だったため、信じる人が続出、ライバル紙もこぞってこの記事に追随し、後にでっちあげが露見しても「ザ・サン」は訂正することはなかった。

このあたりのライバル紙の対応が面白くて、話題とわかるや何食わぬ顔でまるごと記事を転載している。「イブニング・ポスト」紙は「せっかく信じていた読者の心を揺り動かし、記事の信憑性を疑ってもらっても困るので」(P304)と言い、「コマーシャル・アドバタイザー」紙は「多くの友人の希望に応えて」(P305)と言い訳し、「デイリー・アドバタイザー」紙は「社会全般の注目を集め、いたるところで転載される、こういう記事はこれまでなかった」(P305)とそれらしい論評を添えつつ、それぞれ転載した。

一方で「ヘラルド」は創業者・編集主幹のジェイムズ・ゴードン・ベネットがかつて「ザ・サン」の面接に落ちて創刊した大衆紙だったから、この記事に噛み付いた。ザ・サン編集主幹ロックのでっちあげだと、証拠は無いが名指しで批判し、ロックの過去の性的スキャンダルをでっちあげて挑発しつつ「この裏事情をざっくばらんに公」にするなら「『ヘラルド』は喜んで紙面にひと枠を提供」しようとふっかけた。これにロックが乗って月面記事については巧妙に論点をずらしつつ、ベネットのロックに対する人格批判に異議申し立てを行い、逆にベネットの矛先をずらして喧嘩上手なところを見せる。面白いのは、ベネットの「ザ・サン」批判が読者のニーズに合致したことだ。

「ジェイムズ・ゴードン・ベネットは『サン』は嘘つき新聞だ、大衆の信用を得るにふさわしくないイカサマ紙だと、激しく攻撃し続け、その過程で『ヘラルド』に新たな読者層を獲得した。今朝はベネットがなんと言うだろうと、それを知るだけでも一ペニーを出す価値があると、そういう興味が市民の中に生まれたのだ。」(P324)

売上のためなら記事の信憑性など歯牙にも掛けず、一方で読者にウケるために全力でクリエイティビティを発揮し精緻なストーリーを組み上げ、話題に便乗して剽窃も転載も迷うこと無く、批判と攻撃そのものを娯楽に昇華させ、ひとたび相手の弱点をみつければ全力で叩き、自身の過失は何が何でも認めず話題そらしのネタ探しに余念がない、そんな新聞メディア勃興期、ジャーナリズム誕生以前の混沌とした様が浮き彫りになっていて、実に興味深い。

嘘記事に使われた天文学者ジョン・ハーシェルは南アフリカで天体観測に注力していたが、この話を聞いて大笑いした後、毅然として警鐘を鳴らす文章を科学誌に寄稿したという。その一節は、現代まで通じる警鐘だ。

「わたしが恐れているのは、どんなにばかげた話であろうと、いたる所で、形も様々に報道されれば、いつの日か正しいものとしてまかり通ってしまうのではないかということです。」(P344)

「ザ・サン」の嘘記事に衝撃を受けた人物の一人にまだ無名時代のエドガー・アラン・ポーがいる。彼もまた、ジョン・ハーシェルの本に影響を受けて月面旅行の小説「ハンス・プファールの無類の冒険」を1835年に発表していたからだ。後にウェルズやヴェルヌにも影響を与えSFの源流の一つとして評価される本作だが、ポーはロックの記事に剽窃されたと考え、さらに記事が、彼が続編として構想していた内容そのままでもあったことで続編を断念。しかし、何より自身の作品よりこのでっちあげ記事のほうが遥かに話題になっていることにプライドが大いに傷つけられた。この怒りを抑えきれず、やがて「ザ・サン」に対し鮮やかな復讐を行う。このエピソード知らなかったので、すごく面白かったし、復讐劇の痛快さったらないな。

有名な話っぽいが、1844年、彼は、気球に乗って三日間で大西洋横断した人物の嘘記事を描き上げると何食わぬ顔で「ザ・サン」に持込み、「ザ・サン」はこれを掲載、あまりの面白さに多くの人が騙された所で、すかさずネタばらしの記事を他紙に掲載して「ザ・サン」は記事を訂正せざるを得なくなった。「軽気球夢譚」として知られるポーの嘘新聞記事風冒険小説だ。ちなみにポーはロックについて「わが国でも稀有な”疑う余地のない天才”」(P373)と高く評価していたという。

また、「ペテン師のプリンス」を自称する興行者フィニアス・テイラー・バーナムの話も面白い。心理学用語「バーナム効果」の元ネタになった人物だ。バーナムは職を転々とする山師だったが儲け話には天才的な嗅覚を持っていたらしい。彼が見つけ出したのが自称161歳、初代大統領ジョージ・ワシントンの乳母だったと言う黒人老女ジョイス・ヘスで、1835年、バーナムは彼女と契約して見世物として米国各地を興行してまわった。ザ・サンをはじめとする新聞を巧みに誘導してやらせ記事を次々と書かせ、謎の黒人老女ジョイス・ヘスブームを巻き起こす。ジョイスが死ぬと多くの観客の前で公開解剖を行い、その場でジョイスの実年齢が75歳以下だと判明しても、巧みに言い逃れて、その後も興行者として大成功を収めた。若くしてメディアを巧みに、狡猾に活用してみせる様が実に面白い。そして、様々な登場人物がことごとく哀れな末路を迎える中で、唯一の成功者でもある。

ベンジャミン・デイは1837年に不況の中で「ザ・サン」を売却して多額の資産を得たが、その後起こした事業はいずれもぱっとしなかった。ポーが天才とまで評したリチャード・アダムズ・ロックはザ・サンを退職後、念願の政治問題中心の新聞社を立ち上げたがこれがうまくいかず、またでっちあげ記事で一発当てようとするがかつての冴えは消え、ホラ吹きとしての烙印が消えず新聞記者を引退、表舞台に二度と出ること無く税関職員として貧しい生活とアルコール中毒に苦しみながら残りの生涯を送り、「ヘラルド」を「ザ・サン」を超える大衆紙に育て上げたジェイムズ・ゴードン・ベネットは、フィニアス・テイラー・バーナムの口車に乗って二十万ドルを騙し取られ、失意のうちに引退したという。

「ザ・サン」は、嘘記事とともに、労働者の権利拡大や待遇改善に熱心で、またほとんどのメディアが奴隷制賛成の中で唯一奴隷制反対の論陣を張って、アメリカ共和主義の牙城として機能していたという点も非常に興味深い。メディアとして奴隷解放宣言へと至る道筋をつけた功績もあるようだ。弱者に寄り添い大衆に阿ることで大きな影響力を持つ、メディアの一つの姿が本書から見えてくる。一方、新聞の売り子に児童を使って新聞業界全体に広め大きな社会問題になる契機を作ったのも「ザ・サン」であるという。

また、ロックは後に嘘記事「天文学的大発見」の真意について後に「宗教が社会を支配し、知的生活に害を及ぼす傾向」(P418)に対する風刺として書いたという主旨の記事を発表している。本書は、アメリカ建国以来の啓蒙主義精神を背景とした宗教と科学との対立の構図の中で、十九世紀初頭のアメリカ社会でこの嘘記事が広がった理由を問うことで、このでっちあげ問題をアメリカ社会史の中に位置づけている。

黎明期の新聞の混乱模様から、現代にも通じる様々なメディア像が見えてくるし、何より読み物として面白い。映画化ネタに悩むハリウッド向けの格好の題材だと思うので新聞狂騒曲をおもろうてやがてかなしき路線で映画化お願いします。上手くつくればオスカーも夢じゃない。

ちなみに原題は” The Sun and the Moon: The Remarkable True Account of Hoaxers, Showmen, Dueling Journalists, and Lunar Man-Bats in Nineteenth-Century New York ”(「太陽と月――でっちあげ屋、興行師、決闘する新聞記者、月に暮らすコウモリ人間、十九世紀ニューヨークのびっくり仰天の実話」(直訳題はP459より))で、副題部分はさておき、邦題より原題の方が太陽とザ・サンのダブルミーニングになっていて洒落ている。

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