「大聖堂・製鉄・水車―中世ヨーロッパのテクノロジー」

ヨーロッパの中世を「暗黒時代」、すなわち「暴力と狂信と無知と停滞の時代」とする見方はすでに否定されている。確かに絶え間なく続く戦争と、キリスト教的世界観の浸透と、ローマ教会の支配が築かれ、ギリシア・ローマ時代の知識が少なからず一時的ながら失われた時代ではあったけれども、後に近代を切り開く土台となる様々な技術のささやかながら着実な革新が繰り返された、ゆっくりと着実な進歩の時代であった。その中世ヨーロッパのテクノロジーとイノベーションはどのようなものであったのか、緩やかな技術革命の千年を振り返る一冊である。

別に中世ヨーロッパが栄光の時代であったとか、産業革命に比肩する技術進歩の時代だったなどと言う訳ではなく、ただただ、後進地であったヨーロッパで中世の千年間で起きていた地道な技術的革新の歩みを描いているに過ぎないが、そこにドラマがあり、面白さがある。ジャレッド・ダイアモンドとかウィリアム・H・マクニールとか好きな人なら文庫サイズという手軽さもあってまぁ間違いなく夢中で読んでしまうと思うし、現に僕は時間を忘れて貪り読んでしまった。さすが、中世ヨーロッパ社会史本に定評があるジョセフ&フランシス・ギースですわ。

「暗黒時代」は、ローマ帝国の統治を黄金時代ととらえる見方から来ている。さらにいうと、「暗黒時代」という呼び方が生まれた十八世紀後半の啓蒙主義を称揚する目的で使われたものだ。栄光のローマ帝国、暗黒の中世、理性と知性の啓蒙主義時代、という対比が背景にある。

本書が描くのは、ローマ帝国時代の技術は概ね失われずその後も継承されたということだ。ギリシア時代の哲学や知識はローマ時代から軽視されていたから、西ローマ帝国の滅亡で滅びたわけではなく、長い衰退の時代にあった。上下水道や道路、大浴場などの公共福祉関連や大規模建築は長く失われたが、これらはむしろ、帝国という中央集権的な体制と富の集積を必要とする技術だった。これらを支える基礎技術は、ことごとく引き継がれて、むしろ着実な進歩を見せる。

古代ローマ時代は新たなテクノロジーをほとんど生み出さなかったが、各地で育った様々なテクノロジーを集積し改良を加えて、「技術の適用範囲を大きく押し広げた」(P59)点に特徴がある。メソポタミアの機械工学、バビロニアの道路舗装技術、エジプトの測量術と灌漑技術、フェニキアの航海技術、ギリシアの錬金術(化学)と占星術(天文学)とラテン語、ペルシアとガリアの農業技術、シリアのガラスや陶芸技術、ゲルマニアの鉱山技術と製鉄技術、アルメニアの水車動力・・・これらの多くはルーツを辿ると少なからず中国に行き着くか、関係ないにしてもすでに先駆者として中国がいるのだが、そういった各地の技術の総合がローマで起きて、特に土木技術と建築技術の分野で花開いた。

西ローマ帝国が滅びたあとも、テクノロジーは失われなかった。まず農業技術の分野で六世紀に革新がおきた。胸当て式ハーネスの登場で数頭の牡牛を一列に繋いで一気に土地を耕すことが出来るようになり、馬鍬の発明で牛よりも長時間働ける馬を使ってより効率的に開墾することができるようになった。製鉄・冶金技術は一時衰えたが、この農具の製造で復活を遂げ、続いて軍事分野で武器防具の開発になくてはならない技術として発展した。還元炉の発明が画期であった。農業技術の発展はローマ時代の奴隷制的大規模農園経営(ラティフンディウム)を崩壊させ、冶金技術の発展が農業と戦争を革新させ、動力革命がこれを支える。

タイトルで並べられている「水車」の登場だ。早くも六世紀にはベネディクト会の修道院で水車が動力として活用され九世紀ごろには大領地に水車が建てられて荘園で粉挽きが行われていたが、普及は十一~十二世紀のことになる。航海術の進歩にともなうヴァイキングの活躍、イスラーム世界の拡大と交流、十字軍と地中海世界で起きた商業革命、そういった諸々で流通と交易と技術移転とが活発化すると農業技術と建築技術のさらなる進歩が経済成長と人口増大を促し、より大きな動力源を水力に求めて、水車が次々と作られるようになった。

中国やイスラーム世界でもすでに水車が発展していたが、ヨーロッパで一気に広まったのは川の流速が非常に速いため、より水力を活用しやすかった点にある。製鉄、繊維、製粉の分野で水車は動力として大いに活用され、水力の利用がダム建設を促した。ダム建設技術はインドから学んだアラブ人がスペインに伝え、スペインからヨーロッパ全土に広まった。ダム建設と水車の技術革新によって水路が整備され、水路はやがて運河へと発展し、運河の発展が内陸水運を活発化させる。十二世紀には水車と並んで風車も登場、水力・風力は蒸気機関の登場まで欧州のエネルギー供給を支えた。

動力源確立の波及効果は絶大だ。水車によって格段に進歩拡大した金属生産技術は金属加工技術へ波及し、金属加工技術の進歩は建築技術の革新を促す。タイトルのもう一つ「大聖堂」の登場がその建築技術の革新だ。

十一~十二世紀の商業の興隆に支えられ、それまでのロマネスク様式でインドや中東の影響で生み出された3つの技術資源――尖塔アーチ、交差リブ・ヴォールト(アーチ型天井)、飛び梁――の集積が「大聖堂」の建築時に「ゴシック様式」を生み出した。金属加工技術の精緻、ガラス加工技術の革新によって洗練されるステンドグラスが飾られなければならないし、ステンドグラスに色付けるには金属酸化物が必要で、これは化学的知識に基づく。そして、大聖堂のような大規模建築は熟練した技術者(エンジナ:エンジニアの語源)と彼らを束ねる親方によるチームがこれに当たらねばならない。職人の組合(ギルド)が形成されるのもこの頃だ。

十二世紀末のヨーロッパは土地の開墾が進み、大規模な城や大聖堂が建てられ、水車・風車による動力革命が起こり、航海技術と造船技術の革新で商業が栄え、手工業が発展して、知の集積として大学が登場しルネッサンスを準備していた。十三世紀になると、複雑化した商業の効率化で商業簿記が編み出され、金融業が盛んになり、地中海世界を中心に都市化が始まり、都市では早くも騒音やごみ処理など都市問題が顕在化し始めて長らく失われた技術であった上下水道の整備と道路の舗装が始まる。どちらも建設だけでなくその維持にも莫大なコストがかかることから実現できないでいた技術だが、ようやくそれが可能となる体制が整い始めていた。

水車は繊維業の機械化を推し進め、毛織物を発展させて劇的なファッションの変化が起こった。また水力は特に冶金技術の発展を促し、やがて十四世紀に伝わる火薬を使った武器、銃と大砲の製造と標準化を可能とすることになり、その技術的優位をもって近代の扉を開くことになる。さらに十四世紀の機械時計の製作はヨーロッパのテクノロジーを世界最先端に押し上げたとして高く評価されている。すでに宋代の中国で時計は完成していたが宋末元初の戦乱でその技術が失われており、中国の時計の図を元にヨーロッパで再発明されたものだった。占星術で利用する目的で作られた機械時計はやがて時間の概念を浸透させ、特に働き方を激変させた。製紙技術と羅針盤の登場による航海技術のさらなる革新がもたらされて、十五世紀の活版印刷術の発明と大航海時代の到来を静かに準備していた。

一方で、十四世紀半ば、黒死病の爆発的な蔓延によってヨーロッパ全土は危機的状況に陥り、十三世紀までに成長が鈍化して解体しつつあった荘園制が完全に崩壊、放棄された耕地が牧草地となり自営農民は多くが小作人となり、あるいは労働者として都市に流れ込み、労働集約的な単作穀物栽培にかわり、土地集約的な牧畜と多様な果物・野菜栽培が浸透、ヨーロッパの農業を激変させた。農業の多様化で災害に強く安定的な農業経済が登場し、やがてくる人口の爆発的拡大を支えるインフラとなっていく。黒死病後に進展して多くの農民を苦しめた囲い込み運動は、裏を返せば繊維産業の成長を証明してもいる。家内工業から工場労働へ。産業革命へと続く劇的な変化が始まったのも中世末期のことだ。

本書の後半ではレオナルド・ダ・ヴィンチというビッグネームの影でいまいち知られていない多くの先行者たちの紹介に多くのページが割かれ、さらに、ダ・ヴィンチの発想を遥かに超えてあっさりと実現していた名も知れぬ技術者も少なくなく、中世ヨーロッパが蓄えてきた積み重ねの厚みを思い知らされる。活発な商業活動に支えられて航海技術と造船の分野で長距離航海が可能なカラック船が登場し、動力革命が支える冶金技術の進歩が安価な農具と武器を供給して軍事技術を進歩させて強力な君主と軍隊とを生み、十五世紀、中世の終わりの始まりへのカウントダウンが開始されて中世ヨーロッパのテクノロジーとイノベーションの紹介は終わる。

中世ヨーロッパのテクノロジーもイノベーションもその殆どは中国、インド、イスラーム世界などの先進的な地域からの借り物を土台、悪く言えばパクリだった。このような世界的規模の技術伝播と借用の流れと、古代からの着実な技術革新の歩みとが交錯していく中で、「アジアの貧しい親類」でしかなかった中世ヨーロッパがやがて世界に優越していく技術的土壌がいかにして形成されたか、「ヨーロッパの中世は『暗黒時代』どころか、人びとが『直観と洞察力を働かせ、失敗と挑戦を忍耐強く繰り返し』ながら、発展を遂げた時代だった」(P374)ことを見事に描いている。

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