鎌倉幕府の成立が「イイクニ(1192)つくろう鎌倉幕府」ではなくなったという話は随分と広く知られるようになってきた。しかし、もう一つ鎌倉幕府の成立に関して、大きく見直されていることがあることはあまり知られていないのではないか。それは、「三方を山に囲まれた天然の要害ゆえに頼朝は鎌倉を本拠地とした」という通説が近年否定されてきている、ということである。
まず、「序章 都市鎌倉研究の現在」では通説であった武家の都としての鎌倉城塞都市説が近年の研究でどのようにして否定され克服されてきたかという研究史がまとめられ、続けて都城のような都市計画の存在も否定されつつある研究状況が概観された上で、成立期の鎌倉の評価をめぐる様々な論考が紹介される。また、鎌倉の都市域の解明、鎌倉の葬送に関する考古学的研究の成果と今後の課題、鎌倉と外部のつながりなど、その章題の通り都市鎌倉研究の現在が見通せる。
じつは鎌倉には、頼朝が本拠地を定めた草創期から幕府滅亡に至るまで臨時の防衛・軍事施設はあっても恒常的な軍事施設は見られなかったという見解が主流となっており、ほぼ考古学的な調査でも裏付けられつつある。(ほぼ~つつある、と進行形なのは、一部の遺構についてまだ議論があるからであるが、非常に限定的である)
また、本書ではなく本書で紹介される別の論文、岡陽一郎「幻影の鎌倉城」(五味文彦・馬淵和雄編『中世都市鎌倉の実像と境界』高志書院、2004年)ではこれまで鎌倉を要害の地としたとする根拠となった吾妻鏡の一節「当時の御居所、指せる要害の地に非ず、また御曩跡に非ず、速やかに相模国鎌倉に出でしめ給うべし、常胤門客等を相率い、御迎えの為参向すべき之を申す。(当時御居所非指要害地、又非御曩跡、速可令出相模国鎌倉給、常胤相率門客等、為御迎可参向之申之、)」(『吾妻鏡』治承四年九月九日条)についても、当時頼朝がいた安房国の安西景益の宅が「当時御居所」で「非指要害地」であったのであって、「要害に対応するのは鎌倉全体ではなく、そこにあった同種の施設」(岡P45)として、鎌倉全体を要害の地としたものではないとして否定している。実際、これまでの説はこの一節と玉葉の「鎌倉城」表記などを前提として、武士の都という思い込みから鎌倉全体を要害として敷衍させて三方を山に囲まれて・・・と論じていた点で、根拠は薄かった。
「軍事政権の所在地であるがゆえに、これまで多くの史料や遺構が軍事性を前提にして考えられてきたが、鎌倉を城塞的に評価することに対して、現在の研究はかなり否定的だといえよう。」(P5)
それほど多数の関連書籍を読んだと胸を張れるわけではないが、それでも様々な都市鎌倉の書籍・論文等に目を通しても、鎌倉が要害であるという前提は崩れてきているように思われる。
「第一章 成立期鎌倉のかたち――鎌倉の道・館・寺――」では近年の研究成果を踏まえ、六浦道と由比ガ浜海岸沿いの東西道という東西に延びる二本の街道を主要幹線道路としてその東西道同士をつなぐ今小路道・小町大路と現在は消滅した杉本から名越へと抜ける犬懸坂の三本の南北道の道沿いに館と寺が散在する都市として鎌倉を描いている。鶴岡八幡宮から由比ガ浜へと南北に延びる若宮大路に貫かれて栄えた鎌倉というイメージは一新されている。
「第二章 移動する武士たち――田舎・京都・鎌倉――」では文献史料に現れる三つのエピソードから、御家人たちが鎌倉に集住せず複数の地域とのつながりを持ち、一か所にとどまらない移動する存在であったことをあきらかにし「在地領主」概念の見直しを迫る。
「第三章 都市の地主――『浄光明寺敷地絵図』にみる中世鎌倉の寺院――」では、寺院が地主として武士に屋敷や土地を貸し出し、さらに借主の武士がさらに庶民や下層民に又貸ししていたという都市鎌倉の土地所有の在り方を論じている。中世ヨーロッパのシトー会修道院との類似の指摘は興味深い。
「第四章 北条政子の居所とその政治的立場」では頼朝時代から三代将軍実朝没後の尼将軍時代までの北条政子の居館の変遷から、頼朝の妻としての立場がどのように変化していったかを考察している。政子が居館を移動させることで、移動先となった勢力を優位にさせ、あるいは「騒動の渦中にあってあえて自分の身体を移動させることで、事前に騒動を鎮静化させ、結果的には北条氏に優位な状況をもたらした」(P133)ことをあきらかにする。
「第五章 都市鎌倉における永福寺の歴史的性格」では、頼朝が奥州合戦後に建立した寺院である永福寺の役割について、都市鎌倉および鎌倉幕府における同寺の重要性をあきらかにする。特に同寺の三つの性格として以下の点をあげている。
(1)奥州合戦に限らず治承・寿永の内覧全体において敵味方の区別なく戦闘で犠牲となった人々を供養し、
(2)内覧をとおして頼朝に敵対した結果命を落とした敵方の人々を鎮魂する意味がこめられており、同時に
(3)内覧の勝利宣言という意味合いをもっていたこと、(P203)
「第六章 鎌倉幕府の大将軍」では内乱や外敵への対抗として戦時に鎌倉幕府が任命した「大将軍」の人選から、「大将軍」に任命されたのが「執権(得宗)・引付頭人、あるいはその名代などの人物」(P197)であり、鎮西探題など実質的な「大将軍」と類似の役職についても同様で、征夷大将軍がすべて親子二代限りで断絶していたこととの類似で鎮西探題も親子二代までしか継承されず、新たに幕府中枢から任命されていたことが指摘されている。また、西国で鎌倉幕府から派遣された「大将軍」の支配が確立していたゆえに、のちに足利尊氏が将軍家を称して西国の武士を糾合しやすくする土壌となっていたのではないかという指摘は興味深い。
近年の都市鎌倉研究は考古学的調査の成果と文献史学の深化によって随分とこれまでの通説や一般的な認識から離れた中世都市鎌倉のありようを明らかにしてきており、本書はその都市鎌倉研究の最前線を丁寧にまとめた一冊になっている。
著者秋山哲雄氏の著作として、「都市鎌倉の中世史―吾妻鏡の舞台と主役たち (歴史文化ライブラリー)」(吉川弘文館 2010年)が同様のテーマで鎌倉を描いており、あわせて読むとより理解が深まると思う。同著では本書の第二章で取り上げられた娘を愛してしまった父親の話が深掘りされているので面白い。また、本書で取り上げられていて、この記事でも紹介した五味文彦・馬淵和雄「中世都市鎌倉の実像と境界」(高志書院、2004年)についても別記事で紹介するつもりである。
参考書籍
・秋山哲雄著「都市鎌倉の中世史―吾妻鏡の舞台と主役たち (歴史文化ライブラリー)」(吉川弘文館 2010年)
・河野眞知郎著「中世都市 鎌倉 (講談社学術文庫)」
・五味文彦・馬淵和雄編「中世都市鎌倉の実像と境界」(高志書院、2004年)
・齋藤慎一・向井一雄著「日本城郭史」(吉川弘文館 2016年)
・齋藤慎一著「中世武士の城」(吉川弘文館 2006年)