「300(スリーハンドレッド)」はペルシア戦争(前500~前449年)でのテルモピュライの戦い(前480年)を舞台に、レオニダス王率いるスパルタ軍300名とクセルクセス王率いる数十万のペルシア軍との激突を描いた、2006年に公開され大ヒットした作品です。
敵は大軍、味方は少数。その劣勢を力で打ち破る爽快感、戦士たちの鍛え上げられた肉体美、次々と押し寄せる敵を粉砕していく大迫力の映像美、そして敵を圧倒しながら大軍勢を前にして勇戦の果てに倒れていく勇者たち、確かにヒロイズムの極致といって良い熱さ極振りなエンターテイメント作品で、見ている間実に楽しめました。いちいちかっこよすぎる。ネットミームとしていまだ見かける”This is Sparta!”とか確かに何かしら使いたくなります。
一方で、テルモピュライの戦いという歴史上の事件を扱いつつ、歴史考証よりもエンターテイメントを常に優先させたつくりになっていることも事実です。重装歩兵ではなく半裸の戦士だし、テルモピュライの戦いに至る背景や他勢力との関係性などはことごとくカットされて、あたかもスパルタ一国でペルシア帝国を相手に戦ったかのような展開です。
また、ペルシア軍の描写も「魔法」と呼ばれる火薬兵器を使うモンクかドルイドかといった風貌の軍勢や二刀流のニンジャライクな不死部隊などをはじめとする異形のモンスターたちと、パンキッシュな風貌のクセルクセス王の退廃と不道徳が支配するハレムな帷幕など、わかりやすく悪の帝国的なデフォルメがされています。この描写については、公開当初、イラン政府から以下のような非難声明も出されました。
イラン・イスラーム共和国国連常駐代表はファルヴァルディーン月2日〔2007年3月22日〕、声明を発表し、同映画に対して抗議した。声明はまず、「この映画はイラン人を邪悪であるかのように想定し、悪・悪徳・破壊の権化であるかのように描いている。これはイランの誇り高き歴史、及び気高きイラン人民に対する明白かつ由々しき侮辱である」と述べた。
同声明は続けて、「この映画はテレビのドキュメンタリーではなく、その内容は主に作り話、フィクションに属するものである。それは過去の歴史に関する一種の想像に過ぎない。さはさりながら、なぜこの映画が、イランの歴史に関する最低限の事実にすら注意を払うことなく、虚偽に基づき、悪しき存在としてイラン人を描き出すといった暴挙に出たのか、その理由を探ることが賢明である」と強調した。
映画『300』に非難轟々(2007年03月25日付 Iran紙)
創作にあたって娯楽性と歴史考証とは、ぶつかり合うところがありますが、確かに本作は歴史的事実よりも娯楽性をはるかに優先した内容になっていることは否めないでしょう。映画は楽しい、しかしながら、この作品を見た後はぜひペルシア戦争やギリシア史に関する書籍に手をのばしてほしいと思います。
「戦争の西洋的流儀(”Western Way of War”)」
本作を考える上で、よい切り口になると思われるのが「戦争の西洋的流儀(”Western Way of War”)」という概念です。ハリー・サイドボトム著(吉村忠典、澤田典子訳)「ギリシャ・ローマの戦争」(岩波書店、2006)によると、「戦争の西洋的流儀」とは、米国の軍事史家ヴィクター・ハンソンが1989年に提唱した概念で「『正面からの決戦によって敵の全滅を目指す』流儀で、『理想的には政治的自由を有する勇敢な重装歩兵による白兵戦の形』の戦争」(P167)と定義され、ハンソンはこの「戦争の西洋的流儀」が「古代ギリシャから現代に至るまで西洋における実際の戦争様式として、つまり『実体』として継続した」(P167)と考えます。
これに対して多くの批判があり、サイドボトムはその代表的な批判者です。サイドボトムは改めて「戦争の西洋的流儀」を以下のように定義します。
「敵の全滅を目指して、正面から決戦を挑もうと欲することであり、理想的には重装歩兵による白兵戦の形で行われる。勝敗を決するものは、鍛錬によってある程度陶冶される勇敢さである。それは、しばしば戦士が政治的自由を持った土地所有者であること、いわゆる『市民兵制度』(すなわち『ポリス市民団=戦士集団』の体制)と結びついている。この『戦争の西洋的流儀』はギリシャ人によって生み出されたもので、ローマ人によって受け継がれ、そして、西欧中世を生き永らえ、ルネサンス期に再び開花し、それ以降近代西欧へと直接伝わっていったと考えられている。」(まえがき)
この「戦争の西洋的流儀」が実体として存在し続けたと説くハンソンに対し、サイドボトムはこれが実体としては存在せず、しかし「現在に至るまでしばしば再創造され」てきた「強力なイデオロギー」(まえがき)でしかないとし、その上でハンソンの説がいかに史料的な裏付けに欠けているかを論じました。
「このイデオロギーを奉ずる者は、必ずしも他者と著しく異なった仕方で戦争をしているわけではない。彼らは、自分たちが他者と異なった戦いの仕方をしている、としばしば心から信じているに過ぎないのである。」(まえがき)
この「戦争の西洋的流儀というイデオロギー」が歴史上初めて登場したのが、「300(スリーハンドレッド)」で描かれたペルシア戦争においてだったとサイドボトムはいいます。すなわち「バルバロイとの明確な対比に基づくギリシャ人の二元論的世界観がペルシャ戦争を通じて確立したのにともなって、『戦争の西洋的流儀』の概念が登場した」(P174)。それはギリシア人がペルシア人をはじめとするアジア人蔑視の観念を強くしたことに大きな要因があるとします。自由のために正々堂々と戦うギリシア人と専制支配者たる王に隷属しその命令の下に戦う臆病なペルシア人、という偏見です。
ギリシア・ローマ時代を通じて、他者――それがときにカルタゴ人であったりゲルマン人であったりする――に対する蔑視を前提として、正々堂々と戦う勇敢なギリシア人・ローマ人というイデオロギーとなり、形を変えて臆病で専制支配を受け入れた敵と自由のために正々堂々と戦う我らという「戦争の西洋的流儀」というイデオロギーが再創造されてきたとしています。これはイデオロギーとしては存在していても、戦争の実態とはかけ離れたものでした。また、自身が考えるほどそこに西洋的な独自性が見いだせるわけでもなく、ペルシア戦争においてペルシア軍も勇敢に白兵戦を戦っていたことをヘロドトスは記述していますし、カルタゴ人やゲルマン人も同様でした。
あくまで「戦争の西洋的流儀」を古代ギリシアから現代まで継続してきた実体としてとらえるハンソンは2001年の著書で「西洋人と非西洋人の間で戦われた、古代から現代までの九つの大戦闘を取り上げ、自由と民主主義を信奉する西洋人がその自由と民主主義を守るために『戦争の西洋的流儀』に則って非西洋人と戦った結果、西洋の軍隊には必ず勝利がもたらされた」(P169)として、1942年のミッドウェー海戦もその「戦争の西洋的流儀」の勝利として取り上げているそうです。
このような絶えず変化するイデオロギーでしかない「戦争の西洋的流儀」を「客観的な現実として無批判に受け入れること、すなわち、古代ギリシャと近代の西欧の間に、戦争の仕方に真正な継続性があったと考えること」(P163)に対し、西洋の自己満足と戦争抑制機能の消滅あるいは弱体という危険があることを説いています。
そのうえで、「戦争の西洋的流儀」の再創造の例としてアカデミー賞も受賞した映画「グラディエーター」(2000年)を取り上げて批判しています。同作品も非常に胸を熱くさせる映画ではありましたが、やはり歴史家からの多くの批評を受けた映画でした。(The Movie Gladiator in Historical Perspective)
「戦争の西洋的流儀」と創作物
「戦争の西洋的流儀」という概念は、これまで多くの人々を惹き付けてきただけに、創作物の設計書として非常に魅力的なつくりだと思います。「自由のために正面から正々堂々戦いを挑む、鍛錬された勇敢な兵士たち」と対称的な「専制者に隷属した臆病で卑劣な敵」。実にわかりやすい。そもそも「戦争の西洋的流儀」の起源となった戦いでもあるわけですが、「300(スリーハンドレッド)」がこの構図そのままに製作していることはもう疑いの余地がないように思われます。それだけにエンターテイメント映画としては(西洋的価値観を共有する側にあっては)面白く、ゆえに歴史映画としては批判されうる作品であるわけです。
実際、「戦争の西洋的流儀」という概念を活用した作品は本作に限らず、ハリウッド映画の大半はまさに自由と平等のために正々堂々戦う勇敢で鍛錬された主人公が、卑劣な専制者とそれに隷属する敵と戦う構図が大なり小なりありますが、空想の世界を舞台とした作品ならともかく歴史映画や戦争映画ではそれが往々にして歴史的事実よりも優先されて描かれる傾向にあるように思います。歴史映画も映画ですから、娯楽性と史実との衝突はやむを得ないですし、史実だけが優先される映画というのもいびつなものとならざるを得ません。できることならば、このような「戦争の西洋的流儀」のテンプレートに落とし込むのではなく、もっと娯楽性と史実との落としどころをぎりぎりまで探った上で作り上げられる作品というのも期待したいところです。最近日本の大河ドラマはそういう史実と娯楽性とのバランスをとる作品が続いていましたし、海外ドラマでも史実を踏まえた面白いものは非常に多いです。西洋的といいつつも、英語圏も含むヨーロッパ映画だと「戦争の西洋的流儀」テンプレはかなり弱まって、重層的な人間ドラマとして歴史映画を描く傾向が強まるようにも思います。
このように、本作「300(スリーハンドレッド)」は歴史的事実をもとにした創作物として、歴史と歴史学とを考える非常によい教材となっている作品であるように思います。本作を見た後に古代ギリシアやペルシア戦争の歴史を調べるもよし、本作を成立させているオクシデンタリズムとオリエンタリズムへとアプローチするもよし、歴史学と創作物との関係性について考察するもよし、主に批判的観点からですが、様々な切り口で「歴史」への道が広がる作品でしょう。
参考文献
・ハリー・サイドボトム著(吉村忠典、澤田典子訳)「ギリシャ・ローマの戦争 (〈1冊でわかる〉シリーズ)」(岩波書店、2006)
・マイケル ハワード著(奥村房夫、奥村大作訳)「ヨーロッパ史における戦争 (中公文庫)」(中央公論新社、2010)
・桜井万里子編「ギリシア史 (新版 世界各国史)」(山川出版社、2005)
・手嶋兼輔著「ギリシア文明とはなにか (講談社選書メチエ)」(講談社、2010)
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