「大学は出たけれど」小津安二郎監督作品(1929年)

小津安二郎監督初期のサイレント映画「大学は出たけれど」は、昭和恐慌期の就職難様子をコメディタッチで描いた1929年(昭和四年)の作品で、上映当時は70分あったが、現存するのは11分のみ。どこかに全長版が眠っていてひょっこり発見されないかなと願う。

大学を卒業したものの職につけていない主人公徹夫、母には就職したと嘘をついていたが、その母が婚約者町子を連れて上京してくる。なんとかやり過ごしたものの、町子はそのまま一緒に暮らすことになり、正直に話さざるを得なくなり、蓄えも少なくなってきたことで町子は働きに出ることになった・・・というストーリーが展開される。雑誌サンデー毎日を指さしての「毎日が日曜日だよ」と主人公が婚約者に言うシーンはニヤリとさせられる。わずかに残ったフィルムからも、例えばカフェーでの給仕の女性たちがお客の男性のたばこに火をつけるところや、空き地で遊ぶ子供たちなど当時の日常風景が垣間見えて興味深い。

大学は出たけれど(1929)

「大学は出たけれど(1929)」の1シーン

あと、面接に訪れた主人公のファッションが今よりもはるかに自由でダンディなところ、すごくいい・・・就職活動のリクルートスーツ、今やすっかり画一的だけどこんな感じでも良いんでは。

1920年代の日本経済は第一次大戦中の好景気から一転、戦後恐慌に見舞われての企業業績の悪化、世界的な金融引き締めによるデフレ、関東大震災と増税による地方財政の破綻、1927年の金融恐慌による銀行・企業の連鎖倒産からの1929年の世界恐慌という非常に苦しい時期を迎えており、あわせて農業国から工業国への転換期でもあり賃金労働者が増加していた。恐慌という経済的背景での賃金労働者の増加はすなわち失業者の増加を意味して、大学卒でも就職難となり、失業者対策は社会問題になっていた。そのような暗い社会背景をコメディタッチに切り取った本作は上映当時から話題で、タイトルの「大学は出たけれど」は流行語になったという。

結局大学出というプライドを捨てることで、就職口を確保する主人公だが、これも当時の世相を反映している。加瀬 和俊 著「失業と救済の近代史 (歴史文化ライブラリー)」によると、当時の経営者たちの意見として「卒業後、進んで職工徒弟の如き下級地位に投じ、実地に叩き上げるという質実剛健の美風を在学中より鼓吹すること」(日本産業社長・鮎川義介)というように、大学卒の高学歴者でも仕事を選ぶなというものがあり、また大学教育自体を軽視する傾向が強まっていた。

そういう点で、後の小津安二郎監督作品に通じる作劇の特徴や雰囲気を感じるにとどまらず、映画の中に現代にも通じる当時の日本社会の姿を見ることができる作品でもあるだろう。

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