リュック・ベッソン監督「ジャンヌ・ダルク」の啓蒙主義的収束

ミラ・ジョヴォヴィッチのジャンヌが憑いたかと思う熱演や、これが中世ヨーロッパの戦場だ!と思わず叫びたくなる血と肉片飛び散る圧巻の戦闘シーンなど、見事なスペクタクル大作になっている本作だが、史実と創作のバランスも絶妙である。

二時間余りの尺なため多くの歴史改変はある。例えば作中でその死が「声」の引き金となったジャンヌが幼いころに死んだ姉のカトリーヌだが、ジャンヌ出発の先に死んだか後に死んだか、姉か妹かで説が分かれているが、実際には年が近く、死因も兵士からの凌辱ではなく出産後の産褥で先に死んだとしても出発の直前ぐらいだったろうと言われている。

逆に歴史上のエピソードを巧みに入れて生かしていることも多い。シノン城に到着後、ジャン・ドーロンいつ出発したいのかと問われて「明日より今日」とジャンヌが答えるのは、元はヴォークルールでのちにジャンヌの護衛となったジャン・ド・メス(ジャン・ド・ヌイヨンポン)に向けて話したセリフだ。他にも歴史上のジャンヌにまつわるエピソードが巧みに入れ込まれていて、おそらくジャンヌの生涯に詳しい人ほどにやりとするのではないだろうか。ジャンヌの小姓として二人の少年がちらりと映った瞬間だけでも、ああ、よくわかっていらっしゃると思わされたものである。序盤のシャルル7世の王太子ルイの聞かん坊っぷりからして、後のシャルル7世とルイ11世の親子対立を意識させられてにやにやが止まらなかった。

また、歴史上ステロタイプなヒールを引き受けさせられる人物が軒並み、良いキャラクターになっている点も注目である。無能や嫉妬心からジャンヌを見捨てることにされることが多いシャルル7世は本作では優秀でジャンヌをきちんと認めて聞く耳をもっているが見解の相違でジャンヌと距離が生まれていくように改変されているし、私利私欲からジャンヌを売り飛ばす悪役にされることが多いラ・トレイムイユ侍従長は、本作ではシャルル7世の忠臣であり温厚な常識人になっているし、ジャンヌを刑死させる悪の権化として歴史上も唾棄されている裁判長ピエール・コーションも、本作ではジャンヌが処刑されないよう最後までジャンヌから譲歩を引き出そうとしていた。少なくとも可能な限り歴史上の人物については一方的な悪役にしないような配慮がなされた構成である。

その点からだろうか、処刑裁判において裁判官たちに圧力を加え、あの手この手でジャンヌを陥れるイングランドの士官として架空の人物が設定されている。実際にはウォリック伯とスタッフォード伯という二人の貴族がルーアンに常駐して裁判の進行に介入していたのだが、この二人は本作では消されている。

その上で、本作の落としどころとしてダスティン・ホフマン演じる「ジャンヌの良心」という存在が登場している。要するにこの「ジャンヌの良心」が言っているのは「神の声というけど、それ勘違いかもしれないよね。勝手に神の声だと信じて行動したんでしょ。そこんとこ反省しなさいよ」ということであるが、実はこの「ジャンヌの良心」とほぼ同じことをジャンヌについて語っていた人物がいた。十八世紀を代表する啓蒙思想家ヴォルテールである。

ミシェル・ヴィノック「ジャンヌ・ダルク」(ピエール・ノラ編『記憶の場―フランス国民意識の文化=社会史<第3巻>模索』によれば、ヴォルテールはジャンヌ・ダルクについてこう書いている。

「もはや、ジャンヌを霊感を受けた女とみなすな。そうではなくて、霊感を受けたとあつかましくも信じた愚女と見なせ。彼女は、偉大な役割を演じさせられた英雄的な農民の娘であり、異端審問官と神学者たちによって、もっとも卑劣な残忍さで火刑に処された勇敢な娘である」(ミシェル・ヴィノックP12)

このような啓蒙主義的見解は聖職者を批難し、宗教的熱狂を否定する観点から書かれているが、このような啓蒙主義者たちによるジャンヌ・ダルクをダシにした聖職者批判運動が、あらためてジャンヌ・ダルクという存在に光を当てて、十九世紀にロマン主義的な観点からのジャンヌ・ダルクの再評価があり、カトリシズムの復興とナショナリズムの台頭との中で、ジャンヌ・ダルクが英雄化されるということになる。

ジャンヌというのは多面的な存在である。民衆の英雄、フランスナショナリズムの象徴、カトリシズムの殉教者、というのが古くからあるステロタイプな三大ジャンヌ・ダルク観であるが、映画として収める上でこのいずれも取らずに、一人の人間としてのジャンヌ・ダルクとして描くために、本作ではあえて、この古い啓蒙主義的なジャンヌ観を使っているという点にポイントがあるように思われる。

啓蒙主義的だがヴォルテールの言ほど否定的ではない。むしろ作劇上、ジャンヌの人生を最大限尊重しようとしている努力がみられるし、前述のようにコーションは卑劣でも残忍でもなくジャンヌを助けようと努力した面も描かれた。一方で、やはり神の声そのものの存在すらジャンヌに疑わせ、改悛へと導こうとするのは、やはりジャンヌを描く上で疑問を覚える。三つのステロタイプとは距離を置いて、一人の人間の生涯とするために、古臭い啓蒙主義的見解で作品を収束させようと試みている点で、古い酒を新しい革袋に入れようと努力した作品と感じる。

一方で、このような啓蒙主義的見解は近現代ジャンヌ・ダルク研究のスタートラインとして存在していた過去のそれであって、結論にあるものではない。ここからジャンヌ・ダルクに興味を持ち、様々な本を手に取れば、すぐに払拭されていくものであろうし、歴史とエンタメとをいかにバランスさせるか、その努力の過程として本作は見てみると面白い作品ではないだろうか。

参考書籍

・ミシェル・ヴィノック「ジャンヌ・ダルク」(ピエール・ノラ編『記憶の場―フランス国民意識の文化=社会史<第3巻>模索』)

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