『王たちの最期の日々 (上・下)』パトリス・ゲニフェイ編

カール大帝(シャルルマーニュ)からナポレオン3世まで、歴代フランス君主の臨終に焦点を当てた本である。とりあげられるのは以下の十九人の王・皇帝だ。

カール大帝(シャルルマーニュ) / ユーグ・カペー / フィリップ2世 / ルイ9世 / シャルル5世 / ルイ11世 / フランソワ1世 / アンリ2世 / アンリ3世 / アンリ4世 / ルイ13世 / ルイ14世 / ルイ15世 / ルイ16世 / ナポレオン1世 / ルイ18世 / シャルル10世 / ルイ・フィリップ / ナポレオン3世

フランス王位の継承は最初から盤石な体制として始まったわけではなく、むしろ脆弱でいつ絶えてもおかしくない危ういものであった。カール大帝死後、フランク王国は三分割を経て東西フランク王国に分裂、東フランク王国は早期に神聖ローマ帝国への脱皮を図って集権的な皇帝権力の確立に成功したが、西フランク王国はヴァイキングの攻勢と有力諸侯の台頭で王権が弱体化し、王位は聖俗諸侯会議で決められるお飾り以上の意味を持たない地位になっていく。結局カロリング家が絶え、諸侯は有力貴族パリ伯ユーグ・カペーを推戴した。ユーグ・カペーは別に高い人望とか優れた武勇とか巧みな政治力とかがあったわけではなく、王とする上で弱すぎず、かといって諸侯を脅かすほど強すぎない、神輿としてほどよい立場であったがゆえに王となったのであった。

本書で描かれる王たちの臨終のドラマは、そんなはかない地位でしかなかったフランス王位がなぜ続くことになったのか、そしてなぜ断絶することになったのかを浮かび上がらせてくれる。

フランク時代、王国は相続財産として捉えられていた。ゆえに当然、分割相続される。しかし、カール大帝の打ち立てた帝国は「財産」と捉えるには巨大すぎた。分割相続させた結果、あまりに多くの血が流れることになったのである。脆弱なカペー朝王権はまずは自家の相続を確立させる目的で、血統による長子相続を習慣化させた。偶然にも健康な男子後継者に代々恵まれ、フィリップ2世という一代の傑物の登場により、その支配範囲はフランスのほぼ全域に及ぶことになり、ルイ9世、フィリップ4世という有能な後継者が続いたことで王の聖別式というフランク時代から続く儀式を経た神からの祝福という宗教的要素も含んだ王位継承システムとして確立されていった。百年戦争の過程でさらに女子および女子配偶者の排除の原則が明示されてサリカ法という法的根拠も確立、十六世紀の宗教戦争の結果、王のカトリック信仰の義務が付け加えられたことで、王位継承システムは完成をみた。

最初に取り上げられるのはカール大帝(シャルルマーニュ)である。カール大帝の死は事実としてはよくある老人の死でしかなかったが、年代記作家たちによって語られるその臨終までの様子は後のフランス王たちの『「国王にふさわしい死」のモデル』(一巻, 36頁)となった点が指摘される。『年代記作家たちは、この死を一つの模範となすために、これを組み入れた一貫性のある筋をまとめ上げた』(一巻, 29頁)。老いた大帝は806年、『王国分割令』を出し、その後、後継者たちが相次いで早世すると813年、帝国議会を招集して息子ルートヴィヒを後継者とした。また、庶子たちに向けて遺言状を作成して財産の分配を取り決め、その死後、彼の死の様子は敬虔なキリスト教徒としての死であった点が語られるようになった。彼を範としてキリスト教徒としての死という体裁を整えるため聖体拝領と終油の儀式は必ず臨終に際して行われることになる。

『死からまぬがれることはできないが、君主は近づく自分の死を前にして、国家の問題、一族の問題、そしてキリスト教徒としての自分個人の問題をみずから準備実行することにより、状況を支配しつづける。』(一巻, 29頁)

以後の王たちはみなカール大帝の死に、己の王としての死に方の基準を求めることになった。

このカール大帝のモデルをより洗練させて自身の死を演出したのがフィリップ2世と彼の年代記作家たちで、カール大帝同様に国家・一族・キリスト教徒としての自分個人の問題を綿密に片づけた上で、息子たちを呼び寄せて死後の政策について事細かに遺言を残したことがフィリップ2世に仕えた年代記作家フィリップ・ムスクによって描かれる。

『ようするに、編年史家ムスクが粉飾したこうしたメッセージは、フィリップ二世本人が語るおのれの統治の総括であると同時に、後継者ルイ八世のための統治プログラムのように聞こえる。』(一巻, 73頁)

王たちの最期の日々として語られるその臨終の姿が、王位継承システムの一貫として機能していく過程がみえてとても面白い。

王の死は後継者の誕生とその継承の正当化となるわけだが、その最も顕著な例がアンリ3世の暗殺であった。アンリ3世は暗殺者の凶刃に倒れたあと、いまわの際でナバラ王アンリを呼び、こう言った、と伝わる。

『弟よ、わたしは確信しているのだ。わたしが守ってきた権利を掌握すべきなのはそなただと。わたしがこれを守ってきたのも、神がそなたにおあたえになったものを、そなたのために維持するためだった。これこそ、そなたが見てのとおりの状態におちいった理由だ。わたしがつねに守り手をつとめてきた正義にかなうのは、そなたがわたしの跡を襲ってこの王国の君主となることである(後略)』(一巻, 169頁)

実にできすぎた話だが、居合せた群臣諸将みな感動して涙を流し、ナバラ王アンリに臣従を誓ったという。この王の死は嫡流ではない傍流の王統ブルボン家の王位継承を正当化するに十分すぎるストーリーであった。このアンリ3世の後継指名によってフランス王に即位したアンリ4世の代よりブルボン朝が幕を開ける。

以後のブルボン朝歴代の王の臨終は、完成したはずの王位継承システムのわずかなほころびにドラマがみえる。先王同様暗殺者の凶刃に倒れたアンリ4世、ルイ13世の遺言は王妃アンヌ・ドートリッシュの策謀によって無に帰し、ルイ14世の静かな一時代の終わりを象徴する死は、破局の予兆を秘めてもいる。王としての死を迎えられなかったルイ16世の最期の日々は、しかし、父として夫としての結末として胸を打つ。

フランス革命後の王は、ルイ18世を除くと、みなフランス国外で亡くなっている。ナポレオン1世は大西洋上のセント・ヘレナ島で、シャルル10世はオーストリア帝国(現在はスロヴェニア)のゴリッツァで、ルイ・フィリップはイングランド・サリー州のクレアモントハウスで、ナポレオン3世も同じくイングランド・ロンドン郊外のチズルハーストで、それぞれ客死した。王として、君主として死ねなかった。

ルイ14世を最後に、以後「王の死」たりえない臨終の様に王としての権威の喪失が見えてくる。

そのほか、聖遺物として遺骨や内臓までもが分散されていったルイ9世はとても興味深かった。そのルイ9世の項を執筆しているのが、浩瀚な大著「聖王ルイ」を著したジャック・ル・ゴフであるというのも西洋史ファンには喜ばしいのではないだろうか。ちなみに原著は2014年、ル・ゴフが亡くなったのも2014年ということで、おそらくジャック・ル・ゴフ最晩年の論考である。また、ル・ゴフのほかにもフィリップ・コンタミーヌやジョルジュ・ミノワなど執筆陣にはフランス史の大家がそろっている。

また、ルイ11世とルイ18世の再評価やユーグ・カペーの死因としてあったユダヤ人関与説の否定やナポレオン1世のヒ素毒殺説の否定もなされており、近年のフランス史研究の成果が盛り込まれていることがよくわかる、ライトな内容ながら様々な発見がある書籍である。

王たちの最期の日々 上◆目次

まえがき 死の床の儀式
1.一人の皇帝の死、そして伝説のはじまり/カール大帝(シャルルマーニュ)――アーヘン、814年
2.非力な王のまことに目立たぬ死/ユーグ・カペー ――996年
3.きわめて政治的な死/フィリップ2世――1223年7月14日
4.「われわれはエルサレムに向かう!」/チュニスで死の床にあった聖王ルイ9世の言葉――1270年
5.最期まで王/シャルル5世の死――1380年9月16日
6.不人気だった国王のひかえめな死/ルイ11世――1483年8月30日
7.フランソワ1世の模範的な死――1547年3月31日
8.アンリ2世の最期――1559年7月10日
9.アンリ3世暗殺――1589年8月1日
10.アンリ4世の最期の日々――1610年

王たちの最期の日々 下◆目次

11.ルイ13世の短い一年――1642―43年
12.沈む大きな太陽…ルイ14世――1715年9月1日
13.ルイ15世の臨終――1774年5月
14.ルイ16世、予告された終焉の記録
15.セント・ヘレナ、1821年5月5日、17時49分…ナポレオン1世
16.人は彼を「牡蠣のルイ」とよんだ…ルイ18世――1824年9月17日
17.シャルル10世の二度の死
18.ルイ=フィリップの悲しみ――1850年8月26日
19.鷲の黄昏…最後の皇帝、ナポレオン3世の最期

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