紀元前三千年頃から紀元前332年のアレクサンドロス大王による征服まで、表題通り、古代エジプト史の概説書である。第一章ではエジプトの地勢や文明を成立させた諸条件を、第二章では三十一の王朝の興亡を概観する。第三章ではエジプトの宗教や神話、第四章は古代エジプト人の死生観、第五章ではヒエログリフやデモティックなど古代エジプトの言語や文字、第六章では古代エジプトの代表的な文学作品、第七章では古代エジプトでも代表的なラアメス二世(ラムセス2世)の事績について紹介されている。
ヘロドトスの有名な「エジプトはナイルの賜物」という言葉に代表されるように、ナイル川の恩恵は非常に大きい。ナイル川は六月から十月にかけて増水し、洪水の被害をもたらす。「この洪水が持ってくる肥料分と水分こそがエジプト人の命だった」(23頁)という指摘に、メソポタミアでティグリス川・ユーフラテス川について同様のことが言われていることを思い出す。洪水の脅威と恩恵は河川沿いに栄えた古代文明に共通する特徴と言えるのだろう。
また、エジプト人にとっての死後の世界が多くの宗教が楽園であるのに対して、日常の延長である点も興味深い。
『エジプト人にとって死後の世界は生前の世界と全く変わらない。もちろん多少は理想化されているのだが、死後の世界もその経済は農業に依存している。だから畑を耕さなければならないし、ナイル洪水の前後には水路の整備という重労働もしなければならない。死後の世界のナイルは必ず理想的な量の増水をし、作物はこの世とは比較にならないくらいの収穫をもたらす。とはいえ、労働は労働だ。』(96頁)
死してなお労働しなければならないなんて、こんな死後の世界は嫌だランキングがあったら間違いなく上位だ。これはエジプトの自然条件が前提にあるらしく、ナイル川を中心に崖と砂漠に挟まれた狭い世界で毎日同じことの繰り返しで一生を終えることから、来世も同じことの繰り返しではないかと考えたからだという。それがミイラという死体保存技術を生んだ。身体を失っては死後も働けないではないか・・・というわけだ。つらい。
著者は考古学ではなく古代エジプト言語学・文献学分野の研究者で、本書もピラミッドなど建築や芸術などの考古学的な知見は控えめだが、一方で言語や文学作品について詳しく紹介されている。特に著者の専門分野である「第五章 言葉と文字」はあきらかに他の章と比べて専門性が跳ね上がっていて深く掘り下げられ面白い。興味深かったのは、古エジプト語とそれ以降の変化についての指摘だ。
『古エジプト語では、後に英語の過去分詞のように使われる、セム語の過去形に似た動詞形(偽分詞。stetiveとかold perfectiveと呼ばれる)が他の時代よりも多様される。
セム語の場合、動詞の人称語尾と名詞の所有を示す語尾との間には明らかな区別がある。
(中略)
ところがエジプト語の場合この区別がない。』(149頁)
これは不思議なことだとして諸説を紹介しつつ、以下のような仮説を提示する。
『エジプト語には本来動詞があった。それが現在我々が偽分詞と呼んでいる形である。ところが紀元前三千年期のいつごろかに、この形が動詞としての機能を失い始めた。そのかわりとして不定詞に人称語尾のついた形が動詞としての地位を確立する。だからこの古い動詞形がもっとも古い段階のエジプト語に残った。
(中略)
しかし滅び行く動詞の過去形だった偽分詞が主として古エジプト語に残っているのは示唆的だ。もしかしたらこの動詞形は人間の尾骶骨に当たるものかもしれない。』(150頁)
史料の少なさや時代の古さからこの仮説が証明されることは無いだろうとしつつも、このような古い時代の言語の発達過程の考察はとても好奇心をそそられる。
また、ギリシア語読みのラムセスで通っているラアメス2世の事績には最後の一章丸々裂いて詳しく紹介されているので、ラムセス2世を詳しく知りたい人にはお勧めである。彼の正式の長すぎる名前も紹介されている。
それによると「ヘル:カア・ネヘト・メリイ・マアト ネブティイ:メク・ケメト・ワアフ・ヘムスウト ヘル・ネブウ:ウェセル・レンプウト・アア・ネフウト ネスウ・ビイティ:ネブ・タアウィ・ウセル・マアト・ラア・セテプ・エン・ラア サア・ラア:ネブ・ハアウ ラア・メス・メリイ・イメン」(221頁)だそうだ。他に三つの別名があるとか。これを訳すと「<ホルス>真実に愛される勝利の雄牛。<二人の淑女>エジプトの保護者にして外国の征服者。<黄金のホルス>(生きる)年が多くて勝利に偉大。<上下エジプトの王>二つの土地の王にしてラアの真実は強く、ラアが選んだ。<ラアの息子>出現の主でありアメンに愛されるラアメス」(222頁)となるのだという。名前、憶えていたんだろうか・・・
というわけで、コンパクトなサイズながら、概要を抑えつつ、深く掘り下げるところは掘り下げられて、古代エジプト史に触れるのにお勧めの一冊となっている。