十二世紀末のイングランドの村を舞台に、中世ウェールズの伝承集「マビノギオン」に登場する「再生の大釜」を巡る人間模様を描く、ダークファンタジー。

とても面白いのでぜひ紹介したいと思いつつ、記事を書くのが遅くなりました。というのも、丁寧な歴史考証とウェールズ伝承の翻案を土台としているので、読む分にはわーいたーのしー!と素直に楽しめるのですが、いざ紹介記事を書くとなるとなかなか調べることが多くて手ごたえがあります。

『地獄の釜の蓋を開けろ』主要登場人物
©鬼頭えん/KADOKAWA
コミックニュータイプ連載ページより
西暦1193年。主人公グウィンはイングランドの片田舎アーチャーフィールド(注1)で墓堀人として生計を立てる「異教徒」の少年。獅子心王リチャード1世の戴冠式で起きたユダヤ人迫害事件の生き残りで、村のおきてに反して処刑された娼婦イーニッドを埋葬したことで、村のごろつきドブソン一味の怒りを買ってしまう。ドブソン一味に襲撃され絶体絶命のピンチに陥ったそのとき、地中から姿を現したのが、「再生の大釜」を名乗る全裸幼女(割れ物注意)だった――というのが一巻の導入となるあらすじです。
最初からもう情報量がすごい。十字軍での活躍で勇名を馳せるリチャード1世(1189~1199)ですが、彼の戴冠式でユダヤ人迫害事件が起きたことは案外知られていないのではないでしょうか。
1189年7月6日、リチャード1世の戴冠式の日、王は騒ぎになることを危惧してユダヤ人の参列を禁止する触れを出していましたが、王の即位を一目見ようとユダヤ人の主だった人々が押し掛け、ウェストミンスター寺院の門前で衛兵たちともみ合いになりユダヤ人たちに少なからぬけが人や死者が出ました。この出来事を聞いたロンドン市民たちはユダヤ人の家々を襲撃し少なからぬ人々を虐殺、家々に火を放って回ります。翌日、リチャードは役人を派遣して騒動の責任者三人が処刑されたという事件です。(注2)
ユダヤ人迫害の歴史は語り出すと長くなるので関係する部分だけ抑えておくと、中世初期はフランク王国の庇護下である程度寛容な扱いを受け、イングランドでもウィリアム1世がユダヤ人保護政策をとったことで、ユダヤ人の定住が進みます。ところが、1096年からの十字軍遠征で盛り上がった異教徒排除の動きが全ヨーロッパに拡大して反ユダヤ的な言説が各地で見られるようになり、その余波でデマに乗せられた民衆によって様々な事件が起きました。十字軍を境にヨーロッパでのユダヤ人迫害は悪化の一途を辿っていくことになります。(注3)リチャード1世戴冠式での民衆によるユダヤ人迫害事件もそのような十字軍の熱狂に冒された例のひとつでした。
本作ではそのユダヤ人迫害事件を物語の重要な要素として描いており、グウィンは事件のトラウマと向き合わされていくことになります。リチャード1世に関する作品でも取り上げられることが少ないこの事件を描いているの素晴らしいですね。また、娼婦を始めとして墓堀人や病者など中世社会での周縁に生きる人々を丁寧に描いている点でも、特筆されます。中世盛期イングランドの村で生き抜く人々の姿が本作にはある、と言うのは言い過ぎではないように思います。
また、修道院が教区を代表する存在として作中に登場、ブラザー・ユージーン、ブラザー・ウィリアムと主要登場人物が出てきますが、中世イングランドでは教会ではなく修道院が力を持っていた点については以下でまとめた歴史的経緯を読んでいただけると背景わかると思います。中世のブリテン諸島では修道院と地方領主層とがほぼ一体化しながら教区の村々に支配力を発揮するようになるわけですが、本作でもブラザー・ユージーンは領主の子として描かれていますね。

また、「再生の大釜」と「マビノギオン」についても先日まとめましたので以下を参照いただければ。


「再生の大釜」あらためアイラ、可愛すぎて庇護欲を掻き立てられるキャラクターですが、そのイノセントさには底知れない怖さもあって、その不思議な力や彼女の言う王子様とはだれなのかなど謎もまた多い存在です。連載の方は大変なことになっていますが、宝石の国レベルで割れ物注意すぎて・・・割れた彼女をちゃんと直せる/治せる人はいるのでしょうか。
二巻でマビノギオンではアーサー(アルスル)王伝説のヒロインの一人の名を持つ娼婦イーニッドが復活してきて物語が動き出し、最初思っていた以上にドブソンが主要キャラクターだったりして、ブラザー・ウィリアムの過去も絡んで、「再生の大釜」に魅せられた人々の欲望むき出しの濃厚な人間ドラマになっていきそうで、今後の展開がとても楽しみです。何気にドブソンを始めとしたおじさんたちのキャラクターデザインが中世ヨーロッパ舞台にした海外ドラマ・映画に出てくる小汚いおじさんそのものでとても好みです。
当時のイングランド社会の歴史的背景を知らなくても十二分に楽しいし、知っているとまた違った見方ができるようになるし、本作をきっかけに歴史や伝承を調べてみると新たな発見があるし、と一作で三度美味しい作品となっています。ようこそイングランド・ウェールズ沼へ。

脚注
注1)オーストラリアに同名の都市がありますがイングランドの地名としてはおそらく架空と思います
注2)レジーヌ・ペルヌー著「リチャード獅子心王」92頁
注3)関哲行『旅する人びと (ヨーロッパの中世 4) 』254-256頁
参考文献
・レジーヌ・ペルヌー著(福本秀子訳)『リチャード獅子心王』(白水社,2005年,原著1988年)
・関哲行『旅する人びと (ヨーロッパの中世 4) 』(岩波書店,2009年)
・中野節子 訳『マビノギオン―中世ウェールズ幻想物語集』(JULA出版局 2000年)