秦和生作『カイニスの金の鳥』はイースト・プレス社が運営するWebメディア「MATOGROSSO」に連載中の十九世紀初頭の英国を舞台にした歴史漫画で、2019年9月15日にコミックス第一巻が発売し、2020年2月16日に第二巻が発売予定となっています。非常に面白い作品で、この記事ではコミックス第一巻の内容を中心に第二巻収録予定の第六~十話を含む連載中の内容にも若干言及しながら、本作の魅力を紹介したいと思います。

二巻収録予定の十話までのウェブ公開は2020年1月29日までとのことです。
単行本2巻の発売が決定しました〜!
■発売日/2月16日(日)
■予約受付中/https://t.co/LlTpNVwbcS発売にともないマトグロッソで公開されている5話〜10話が1月29日までで読めなくなります。まだの方はお早めにどうぞ!🕊🕊
■最新話/https://t.co/3D5iJHJ5tQ pic.twitter.com/E9FWSIWOwi
— カイニスの金の鳥/告知アカウント (@oDDnCIuLbH8QOMU) January 10, 2020
あらすじとみどころ――「秘密」と「信頼」
時代は十九世紀初頭、英国グロスターシャーの牧師の家に生まれた女性リア・ボイドは幼いころから小説を書いていたが、“女性が小説を書くなんて“”女性に小説は書けない“といった周囲の無理解から、架空の男性アラン・ウェッジウッドを創作してアランの作品と騙るようになった。十九歳になっても小説家の夢捨てきれず、自身の作品をアラン・ウェッジウッドの筆名で出版社に投稿、ついに出版の運びとなり、リアは長い髪を切り、男装してアラン・ウェッジウッドという男性になりきってロンドンへ上京する。ロンドンではマイルズ・キーツという作家の知己を得て、彼のアパートの隣室で、自身が女性であることを秘したまま共同生活を始めることになる――というのが1巻の大まかなあらすじです。
近代、女性に対する抑圧と無理解という逆境の中で自身の夢に向かって突き進む主人公という王道のストーリーラインがまずあり、その主人公リア・ボイド=アラン・ウェッジウッドが魅力的である点は言うまでもないのですが、他の登場人物との関係性でいうと「秘密」がキーワードになっている点が惹かれます。故郷の中では自分の夢を秘し、ロンドンでは自分が女性であることを秘し、もう一人の主要登場人物であるマイルズは自身の出自を秘し、そしてリアが女性であることを知っていることを秘しながら、お互いに関係性を築く、その静かな緊張感を底流にした繊細で優しい関係がとても心地よいです。
この「秘密」を共有することで「信頼」が生まれていくことになる構図について、故郷では家政婦の老女パティだけが「秘密」を共有する「信頼」関係にあります。ロンドンではやがてマイルズと信頼関係を築くプロセスが最新話までかけて描かれていきます。やがて、お話が進めば、男性小説家アラン・ウェッジウッドが女性リア・ボイドであるという「秘密」を世界中の人が知り「秘密」が秘密で無くなることで、はじめて、女性小説家という存在が社会に認められていくことになるでしょう。
近代ヨーロッパにおける女性小説家の誕生
さて、近代英国ひいては近代ヨーロッパにおける女性小説家の位置づけはどのようなものだったでしょうか。登場人物は皆架空の人物ですが、実際の歴史について知ると、その社会的背景や歴史的経緯も非常に大きく作品に取り入れられていることがわかります。
男性は外で働き、女性は家を護る。社会的地位を得た男性に対し、従属的な地位に置かれた女性たちという構図は、産業革命の進展によって大きく変わります。十八世紀後半以降、経済単位としての家族に代わって工場制に基づく賃金労働が一般的となると、女性の地位は階級や宗教、地域などによって多様化していきます。資本主義経済の進展によって男性の収入が大きく向上し、さらに従属的な立場に置かれる女性もあれば、賃金労働者の担い手として女性が期待されることもあり、また女性が従属的な地位に置かれていることに対する異議申したてを行う女性たちも現れて、社会が大きく変わっていくことになります。
そのような中で、他国のような出版規制が比較的緩かったこともあって、英国では女性の識字率の向上を背景に女性の読書層が大きく増加しました。このような社会背景により女性の文筆活動も活発になります。三成美保 他編『世界史を読み替える ジェンダーから見た世界史』(大月書店,2014年)201頁の表「イギリスにおける著述家の人数と女性比率・増加率」によれば、英国で1720年代に11人(11.7%)だった女性著述家は1820年代に104人(27.8%)に増加しています。
『19世紀に小説や詩が文学作品としてその権威を認められるようになるまで、女性が出版によって自らの書いた文章を公にすることはそれほどタブー視されておらず、時には奨励されることさえあった。』(梅垣千尋 著「第10章 『われわれ』の居場所はどこにある?――女たちのイギリス――」(井野瀬久美惠 編『イギリス文化史』(昭和堂,2010年,198頁))
個々の関係性によって濃淡はあれど、諸外国に比べると英国は女性の文筆活動に寛容でした。その中で十八世紀後半に活躍したのがメアリ・ウルストンクラフト(” Mary Wollstonecraft”,1759-1797)です。女性の作家活動を支援した文人サミュエル・ジョンソンの元で頭角を現し、女性の地位の向上を訴えた著書「女性の権利の擁護” A Vindication of the Rights of Woman”」(1792年)で知られます。彼女を始め多くの女性作家たちに対し、男性社会からの反発も大きかったですが、彼女たちの活動が女性の文筆活動を切り拓きました。ウルストンクラフトは思想家ウィリアム・ゴドウィンと結婚しますが、1797年、出産直後の産褥熱で亡くなりました。このとき生まれた子供が文学史上名高いゴシック・ホラーの傑作「フランケンシュタイン” Frankenstein; or, The Modern Prometheus”」(1818年)を著し、時に初の女性小説家と呼ばれることもあるメアリ・シェリー(” Mary Shelley”,1797-1851)です。

英国に比べ、女性の文筆活動に厳格だったのがフランスです。そのフランスで男装の麗人として非常に有名となった女性小説家がジョルジュ・サンド(” George Sand”,1804-1876)です。ジョルジュ・サンドは本名をアマンティーヌ・オロール・デュパンといい、男性名ジョルジュ・サンドの名でデビューを果たした後も、男物のフロックコートを颯爽と身にまとって、社交界に登場して男装の麗人として知られました。フランスでは女性の地位が低く、異性装へのタブーも大きかったのですが、やはり女性の地位の向上を訴えたサン・シモン主義者の社会運動を背景に、女性の地位の向上を訴える文学作品を次々と発表し、女性が立ち入りできないとされていた議会や裁判所などへの入場を求めるなど、最初期のフェミニズム活動家・作家として歴史に名を残しました。
また、文学者ではありませんが、ほぼ同時代十九世紀初頭に英国ヨークシャーで男装の麗人として知られた「ジェントルマン・ジャック」ことアン・リスター(”Anne Lister”,1791-1840)という人物もいます。アンは地主・資産家として文化財の保護や地域振興に大きく貢献した人物でした。最近HBO/BBC共同制作でテレビドラマ化され注目を集めています。

女性小説家誕生の物語へ
ここから二巻収録部分にも言及します。
このような、近代の女性小説家登場の歴史が作中にも大きく取り入れられています。9話で登場する、パリを拠点に活動する男装の女性小説家ジャレッド・スノウがジョルジュ・サンドをモデルにしているであろうことは一目瞭然ですが、ジャレッド・スノウは『すべての女性が男性のそれと同じく教育を受け対等な立場で労働する権利と機会を持つべきである』(9話)と訴えるロンドン在住の女性思想家に会いに来たといいます。そして、最新11話でその女性思想家が一年前、出産時の産褥で亡くなったことを知ることになります。
1797年に亡くなったウルストンクラフトと1804年に生まれたジョルジュ・サンドに直接の面識はありませんが、本作では彼女たちをモデルとした登場人物が同時代に配置され、文字通り女性小説家誕生のドラマが展開することになります。このダイナミズムを歴史フィクションの醍醐味と言わずして何と呼ぶべきでしょうか。この大きな歴史のうねりの中で、主人公リア・ボイド=アラン・ウェッジウッドは何を思い、何を決断して、どのような運命に至るのか、今後が非常に楽しみです。
なお、タイトルに使われているカイニスはギリシア神話の女神で、男性神カイネウスへと性別を変えたエピソードで知られています。カイニスの逸話を思うと、今後のリアの行く末に不吉なものを感じるのですが――ポセイドンの役割を担いそうな登場人物も一人心当たりがあるし――無事であって欲しいです。
参考文献
・梅垣千尋 著「第10章 『われわれ』の居場所はどこにある?――女たちのイギリス――」(井野瀬久美惠 編『イギリス文化史』(昭和堂,2010年))
・三成美保 他編『世界史を読み替える ジェンダーから見た世界史』(大月書店,2014年)
・徳井淑子 著『図説 ヨーロッパ服飾史 (ふくろうの本/世界の歴史)』(河出書房新社,2010年)
・横山安由美/朝比奈美知子 編著『はじめて学ぶフランス文学史 (シリーズ・はじめて学ぶ文学史) 』(ミネルヴァ書房,2002年)