『インノサン少年十字軍 全3巻』(古屋兎丸 作)感想

中世ヨーロッパで十字軍運動の一環として行われたと伝わる少年十字軍の逸話をモティーフにして少年たちの残酷な運命を描いた歴史漫画の傑作の一つです。

「少年十字軍」は1212年、北フランスの都市ヴァンドームに近いクロイス・シュル・ル・ロワールに住む羊飼いの少年エティエンヌが神の啓示を受けて多くの少年少女を引き連れて聖地奪還に向かったが、マルセイユで奴隷商人に売られ、ことごとく悲劇的な最期を遂げたという逸話です。同時期にドイツでニコラスという少年が率いた少年十字軍もあったがやはり同様の結末であったと言われます。

この「少年十字軍」について、現在の研究では事実であったとは考えられておらず、少年少女に留まらず老若男女多くの民衆による大規模な移住、あるいは民衆たちによる聖地エルサレムを目指した巡礼のような民衆十字軍の一種であったと見られています。語り継がれるうちに「純粋無垢な子供たちの悲劇」という伝承に形を変えて人々の記憶に残ったエピソードだったようです(1少年十字軍の見直しは1970年代後半から盛んになっており、見直しについてまとまった日本語論文としては面高正俊「少年十字軍の教材論」(『鹿児島大学教育学部研究紀要 人文社会科学編 (30)』139-152頁、1978年)があります。WEB上ではBritanicaの” Children’s Crusade”(英語)や英語版Wikipediaの” Children’s Crusade – Wikipedia”でも詳しく整理されています。十字軍に関する書籍類では簡単に触れられているに留まるか、そもそも触れられないことも多い題材です。)。

本作の原作者古屋兎丸さんも下巻のあとがきで以下のように書いています。

『少年十字軍については諸説ありその真実については今だわからない点が多いのですが、現在の主流の解釈では、少年十字軍とは大人の庶民も多く含んだ民衆十字軍だと考えられているようです。それを世の記録者が感動的にするために、少年が神の啓示を受けて呼びかけ、少年・少女で構成された十字軍になったという話にしたとされています。また、当時の用語で貧しい庶民を軽蔑的に少年(ボーイ)と呼んだため、後の記録者が誤解したと考える研究者もいます。そしてキリスト教においては12は神聖な数字とされており(十二使徒)神格化を高めるため1212年に旅立ったことにした、とも言われています』(下巻、316頁)

このような、非常に良く知られているが事実がどのようなものであったのかは曖昧な、限りなく伝承に近いテーマを、タイトル通り無垢(” innocent” フランス語読みでインノサン)な少年たちがその純粋さゆえに葛藤し理想に殉じて破滅していく様を美しくも生々しく描いていて、心に刺さる作品になっています。

物語は1212年、フランス北部の村で羊飼いをする少年エティエンヌが神の啓示を耳にし、そのとき見つけた喇叭(ラッパ)を彼が吹くと病人の病が治る奇跡が起こったことから、騎士に憧れる少年ニコラら十二人の少年たちとともに聖地エルサレムを目指していくことになると言うものです。道中、雪だるま式に少年少女たちが次々と仲間に加わったことで組織として動く必要が出てきたため、全欧州に拠点を築いていたテンプル騎士団の助力を借りることになりますが、それは両刃の剣で、大人たちの思惑と少年たちの様々な思いが複雑に交差して残酷で儚く美しいドラマが展開していきます。

彼らが拠って立つ理想と信仰は非常に脆く、純粋無垢ゆえに狡猾な悪意に弱く、またその純粋無垢さからこそ憎しみや嫉妬さらには悪そのものが生まれて来る様が巧みに描かれていて、少年十字軍と言う曖昧な伝承を”人間の営み”そのものに昇華させる作者の手際の良さは見事と言わざるを得ません。

本作で重要な役割を担うテンプル騎士団(テンプル騎士修道会)ですが、十二世紀初頭、十字軍遠征の過程で創設され、軍事だけでなく金融業を担ってヨーロッパ全土に支部を創設し、当時設立された騎士修道会の中でも非常に富裕な組織として知られました。十四世紀初め、王権の強化のため騎士団の財産を狙うフランス王フィリップ4世によって騎士団首脳部が逮捕され1312年、テンプル騎士団は廃止、1314年総長ジャック・ド・モレーらが処刑されました。このときテンプル騎士団を貶めるためフランス王政府が様々な異端の容疑を挙げつらったものが、後々までテンプル騎士団に異端・腐敗のイメージを植え付けることになります(2テンプル騎士団については橋口倫介著『十字軍騎士団 (講談社学術文庫)』(講談社、1994年)、佐藤彰一著『剣と清貧のヨーロッパ – 中世の騎士修道会と托鉢修道会』(中央公論新社、2017年、(書評))など参照。)。

本作に登場するテンプル騎士団の騎士ユーゴら一味が体現する様々な汚職と金権主義と退廃的な様々な行為は、テンプル騎士団解体時にフランス政府によって被せられた、おそらく根拠はないものの、テンプル騎士団のイメージとして後世まで根強く定着している嫌疑そのものです。このテンプル騎士団に限らず、教会の腐敗、ハンセン病や娼婦、貧困、差別、奴隷売買などの中世ヨーロッパで大きな社会問題となっていた要因が巧みに盛り込まれていて、少年十字軍に向けられた大人の残酷さを描くために、歴史上のフィクションとノンフィクションを上手く絡めて創作され、「中世ヨーロッパらしさ」が非常によく描かれていると思います。

中世ヨーロッパを題材にした漫画としても屈指の傑作で、手元に置いて繰り返し読みたい作品の一つです。単行本は大判サイズで絢爛豪華ということばがぴったりな美麗な装丁なので、ぜひ本棚に並べて鑑賞したいですね。


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脚注

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