漫画家水木しげる自身の戦争体験を元にしたニューブリテン島ズンゲンでの日本軍玉砕を描いた作品。
1942年、日本軍はニューブリテン島を占領すると周辺地域等含め約10万の兵力が投入され軍事拠点が築かれた。ラバウル航空隊と呼ばれる航空部隊の本部等が置かれ難攻不落のラバウル要塞として連合軍に警戒されたが、米陸軍司令官マッカーサーは正面からの攻撃は困難と見ると、包囲と爆撃にとどめてラバウル要塞攻撃を回避、日本軍が手薄なサイパン島等本土攻略に重要な拠点に戦力を集中することでラバウル要塞を孤立させ無力化していった。
水木しげる(武良茂)は昭和十八年十月、成瀬懿民少佐率いる臨時歩兵第二二九連隊支隊麾下の第二中隊(児玉清三中尉)に配属され、そして昭和二十年、成瀬少佐は連合軍の攻撃を受け玉砕命令を下すが、児玉中隊長は玉砕命令を拒否してゲリラ戦に転じ、そのおかげで水木しげるは激戦の中で左腕を失いつつも九死に一生を得て終戦を迎え、その後は御存知の通り。
水木が「90パーセントは事実です」というように、作中では登場人物、場所の名前と、後半の展開が事実と大きく違う。
昭和十八年、丸山二等兵(水木)は田所少佐(成瀬少佐)率いるバイエン支隊に配属される。500名のバイエン支隊はニューブリテン島バイエン(実際の地名はズンゲン)の無血占領を果たすが、そこは連合軍の侵攻がもっとも想定される要衝だった。
ごくごく当たり前のように非戦闘行為で多くの人が死んでいく。例えばデング熱やマラリアなどの伝染病にかかる者、川でワニに食われる者、魚を喉につまらせて死ぬ者など死の無意味さが充満する。
そのような中、ついに連合軍の上陸が始まった。
田所少佐は「全員が敵に向かってかの大楠公がしたようにつっこむのだ」と湊川の戦いで足利軍に包囲されながら奮戦し最後自決した楠木正成を例に出して玉砕を主張。これに対して中隊長(児玉中尉)らは玉砕するのは「全くバカげたこと」「捨石となりラバウルの将兵を延命させるのが目的であるというのならば、なにも後方の山に下ってゲリラをやったって目的は達せるはず」と反対しゲリラ戦による持久戦を主張するが、最終的には田所少佐は玉砕の意思を変えず「わしも職業軍人のはしくれだ。死に場所を得たいのだ」と玉砕指令を出し、500名による不幸な突撃が始まった。
バイエン支隊の玉砕報告に驚いたのはラバウル司令部で、玉砕するほどの戦局では無いはずと、急ぎ「玉砕を急ぐな」と返電するがバイエン支隊から連絡が無いため、すでに玉砕を行ったと判断し、全軍の士気高揚の目的もあって玉砕を発表する。
その頃、突撃を行ったバイエン支隊は、自身に楠木正成を投影させた田所は戦死、400名以上の死傷者を出したが、中隊長の配慮もあって丸山ら81名が生き残り、退却して聖ジョージ岬(実際の地名はヤンマー岬)に終結していた。その過程で中隊長は負傷し、自決している。
しかし、すでにバイエン支隊玉砕を発表してしまった司令部は玉砕を敢行したはずが生き残っている者がいることに怒った。バイエン支隊の石山軍医(実際は松橋登軍医中尉)が助命嘆願に訪れるも、「玉砕の命令は守られねばならぬ」・・・絶望した石山軍医が自決したのち、無謀な再突撃を実行するべく、木戸参謀(実際は松浦義教中佐)がバイエン支隊に派遣され、再突撃が敢行される・・・
戦争の、日本軍の狂気を見事に描き出した作品だが、前述の通り後半の展開は大きく違い、松浦中佐が派遣されたあとは直接戦闘が無かったこともあって再突撃は行われず、そのまま終戦を迎えている。
残った将兵たちは玉砕を覚悟していたともいうが、後に終戦に際して戦犯弁護人を果たすなど将兵の助命に奔走することになる松浦中佐には玉砕させる意思は無かったのかもしれない。あるいはラバウル司令官だった今村均大将も部下思いで知られていることから玉砕を苦々しく思っていた可能性もあるだろうが、そういう個々人の思いを超えた、どうしようもなさが戦争にはあるだろうし、そのような無力さは想像を絶するものがあり、明確にはわからない。ただ、再突撃は行われなかった。この物語では再突撃が行われた。その違いがある。
田所少佐(成瀬少佐)が傾倒する楠木正成について、これは皇国史観の影響が大きい。
簡単に説明すると明治維新というのは天皇の権威によって成立した。そもそも天皇に権威を持たせたのは誰か。それは徳川幕府だ。徳川幕府はその統治に正当性を持たせるために天皇から統治を委託されているかたちをとった。そこで天皇に権威が必要となり、朱子学が発展する。日本の朱子学は儒教倫理に基づいて天皇統治の正統性を研究する学問だ。水戸光圀ら水戸藩が中心となった水戸学と山崎闇斎ら崎門派の神儒一致思想などが結びついて後に勤王思想となり、天皇の権威の絶対化へとつながり、明治政府成立後により強化されて皇国史観というものを生み出した。その思想下で南北朝の南朝が正統とされ、その南朝から禅譲を受けた明治天皇へと続く系譜は万世一系かつ神聖不可侵とされた。
教育勅語とともに、天皇に忠義を尽くしたり、あるいは儒教的倫理の規範となる歴史上の人物が明治時代に次々と神聖化される。それが新田義貞、楠木正成、水戸光圀、山崎闇斎を庇護した保科正之、二宮尊徳、乃木希典らであり、また忠義を尽くしたという意味で明治以降に人気になったのが諸葛孔明などだ。諸葛孔明は江戸期に講談などで知られはじめ、山崎闇斎の弟子浅見絅斎の著書「靖献遺言」で取り上げられた。明治維新から第二次大戦中を通して「靖献遺言」は大ベストセラーとなり特攻隊員らが愛読していたという。おそらく坂本龍馬の再発見も皇国史観の影響が少なからずあるだろう。
このような国家システム的に生み出された狂気が、劇中の田所少佐の楠木正成への傾倒の背景にある。
このような個々人の力ではどうしようもない虚無感、そのような中で生き抜こうとする力が、この作品には根底にあって、悲劇でありながら、いや悲劇であるがゆえに圧倒的に力強い。
最初の突撃を生き残った石山軍医は他の将校と海を見ながら劇中でこう語る。
生きながらえたところでといいますけどね人生ってそんなもんじゃないですか
つかの間からつかの間へ渡る光みたいなもんですよ
それをさえぎるものはなんだろうと悪ですよ 制度だってなんだって悪ですよ
生きるのは神の意志ですよ
自然の意志なんですよ
そして、彼は助命嘆願のために司令部へと赴き・・・絶望して自決する。
水木しげるはあとがきでこう書いている。
将校、下士官、馬、兵隊といわれる順位の軍隊で兵隊というのは”人間”ではなく馬以下の生物と思われていたから、ぼくは、玉砕で生き残るというのは卑怯ではなく”人間”として最後の抵抗ではなかったかと思う。
最後の抵抗むなしく、多くの、数多くの人々が斃れていった。
水木しげるはあとがきをこう結んでいる。
ぼくは戦記物をかくとわけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う。
水木しげるの「怒り」が読む者を「哀しみ」に包む。ほんとうに悲しくて哀しくてどうしようもないほどに。怒りと哀しみがあるがゆえに人間は生きている。そのような人間賛歌として、ぼくは読んだ。