水木しげるが後年、中国出兵していた人物から聞いた体験談を元に描いた短編作品。姑娘(クーニャン)とは、中国語で若い未婚女性、お嬢さんといった意味である。
第二次世界大戦中、中国侵略を進めていた日本軍のある分隊は、小さな村へと侵攻、ある家に女性物の下着が干されているのを発見したことから、狂気にかられ始めていく・・・
「姑娘を捕虜として部隊長の前へ出せば「殊勲甲」まちがいなしというところでしょう!」そう部下が進言し、分隊長も「どうやら敵もいないようだし・・・・・・こうなったら姑娘ひとりでもつれてかえらなきゃあ手ぶらでかえるわけにもいかんな!」その部隊の暗黙の了解として、中国人女性の略取が日常化していたかのように描かれている。
かくして分隊長以下若い女性「姑娘」探しに奔走。ついに、彼らは村長宅で息を潜めて隠れている村長の娘を見つけ出し、懇願する村長夫婦を一喝して、強引に彼女を連れ去っていくのだった。
水木しげるはあとがきで、この体験談を聞いた経緯をこう紹介している。
ぼくは戦後、中国に行っていた伍長からこの話「姑娘」をきいておどろいた。(なんというかわいそうな話だ)と思って何回もきいて、いまでもよく覚えている。
「そんなに美人だったんか」
「そうや、ほらあ見たこともない美人で、しかも、かしこかった」
「ほう」
「香港の大学を卒業して、ちょうど村長の家に帰ってきたときやったんや」
「おまえ、そんな事態にならんようにする手はあったんだろ」
「うん、その娘は、一度契った中だから夫婦として、どこまでもついてゆく、いうんや」
しかし、日本軍にはそういう規則はない。
「おまえ、断ったんか」
「そうや、それに中国では、一度日本軍と関係した女は、人間としてあつこうてもらえんらしいナ」
ということだった。別な軍曹から、中国の人殺しの話もたくさん聞かされた。
やはり、日本人として、そういうことは反省しなければいけないと思う。
語り手の伍長の醜悪さを、水木しげるは物語の中で分隊長に模して徹底的に断罪する。
姑娘はまず分隊長と関係を持たされ、水木が聞いた証言通り「二夫にまみえるわけにはいかない」と分隊長と夫婦になることを求めるが、分隊長はそういうわけにはいかない、と続いて上等兵と関係を持たされそうになる。上等兵の求めを頑なに拒む姑娘に怒った上等兵は分隊長と諍いになり、あやまって分隊長は上等兵を殺害。やむなく分隊長は戦死したことにして姑娘を連れて脱走することになるのだった。
かくして月日は流れ40年後、部隊の兵士だった服部が中国を訪れたときにみすぼらしい格好の老人が話しかけてくる。彼は当時姑娘とともに脱走した分隊長だった。聞けば脱走後まもなくして姑娘は病死、分隊長はそれいらい浮浪者として40年間中国をさまよい続けているのだという。服部は日本に帰ろうと分隊長に語りかけるが、彼はこう言ってその勧めを退ける。
「しかし誰にでもあるちょっとした若気のあやまちではありませんか」
「いや若気のあやまちでもゆるされることとゆるされないことがある
人間はほんのちょっとしたあやまちでこうも運命が変わるとは思ってもみなかったが・・・・・・
きみに会えて思い残すことはない。うれしいよ。」
「分隊長!」
「なにもいわないでこのまま別れてくれ」
水木の前で醜悪に語る伍長は、作中ではその罪を一身に背負い、永遠に許されること無く中国大陸を朽ち果てるまでさまよい続けるのだった。水木しげるのいう「反省」の真髄がここにある。
「総員玉砕せよ! (講談社文庫)」やこの「姑娘 (講談社文庫)」を読んで思うのは、水木しげるは、赦していないのではないか、ということだ。何を赦していないのか?かつて、徴兵され必死の思いで戦い左腕を失って命からがら帰還した武良茂という男、つまり水木しげる自身をだ。
「総員玉砕せよ!」では水木を模した丸山二等兵も事実には無かった二度目の突撃に参加して玉砕を果たす。この物語では罪を背負って永遠にさまよう分隊長に、自身の姿も投影させているようにも見える。その自身に対する苛烈さが、のちの創作活動へと繋がり、傑作を生み出しているのではないだろうか。晩年、彼は自身のことを「水木サン」と呼ぶようになったともいう。その想いをあれこれ斟酌することは出来ないが、その「水木しげるの武良茂に対する赦せなさ」もその一因としてあるのかもしれない。
そして、水木しげるの一連の作品と、戦争という歴史に対して僕自身はどう接するべきか、それがとても悩ましい。
おそらく、一人ひとりの想いを一つひとつ丁寧に受け止めていくということから始めて行かねばならないのだと思う。自身を赦せない人がいる。過去を忘れようとする人がいる。あっけなく死んだ人がいる。惨たらしい目にあい殺された人がいる。そのような事実と想いと、あるいは偽りであってもその偽りを語らずにいられない心理と、様々な想いに一つひとつ向かい合う。それは国という枠組みを超えて戦争そのものと、その中で生きて死んだ一人ひとりに直面せねばならないのだろう。
どのようにして向かい合うのか、まだこうあるべきという確信がある訳ではない。
先日読んだ「アーミッシュの赦し―なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか」という本にこういう一節があった。
「アーミッシュの赦し―なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか」P281
赦しとは、赦して忘れることではなく、むしろ赦したことがいかに癒しをもたらしたかを記憶にとどめておく(remember)ことなのだ。記憶するとは、悲劇と不正に寸断された(dismembered)生のかけらを拾い集め、何かしら完全なものに再び組み入れる(re-member)ことである。
自身を苛烈なまでに赦さないかに見える水木しげるが生む様々な作品は、実は彼が彼を赦す壮大な癒しのプロセスなのではないだろうか。「悲劇と不正に寸断された(dismembered)生のかけらを拾い集め、何かしら完全なものに再び組み入れる(re-member)こと」こそ、水木しげるの戦争漫画の真髄ではないのだろうか。
そして、我々もまた戦争について、「悲劇と不正に寸断された生のかけらを拾い集め、何かしら完全なものに再び組み入れ」ていくことが、戦争と向かい合うことなのではないだろうか。しかし、その行為を行うには僕はまだまだ力が及ばない。そのもどかしさをいかに昇華していくべきか、まずはそのことと向かい合わなければならない。