「復興計画 – 幕末・明治の大火から阪神・淡路大震災まで」越澤明 著

そのタイトル通り、近現代に日本を襲った地震、津波、洪水、大火、戦災など大小様々な災害から、日本の都市がいかにして復興を遂げてきたかを都市計画の観点から詳述した一冊である。

復興計画 – 幕末・明治の大火から阪神・淡路大震災まで (中公新書(1808))」はじめにより
復旧とは文字通り、元の状態に戻すことである。復興とは新たな質と水準を加えることである。

この定義通り、日本では様々な地域や都市が、災害から立ち直っていく過程で、より災害に強い都市になるために質と水準を上げる努力を繰り返してきた。しかし、それは当初の計画に遠く及ばず頓挫したものもあるし、当時としてはベストを尽くしたはずが、さらに大きな災害に見舞われて再び一から作り直さなければならないものもあった。

この本で紹介されている事例の中から、関東大震災について簡単にまとめておこう。

■関東大震災の帝都復興計画

大正十二年(一九二三年)九月一日に関東地方を襲ったマグニチュード七・九の巨大地震は死者行方不明者十万人超、同じく負傷者十万人超、百九十万人が避難する未曾有の大災害となった。被害の中心となった帝都東京市では人口の五八%にのぼる百三十三万四〇〇〇人が罹災、五万八〇〇〇人が死亡した。

震災翌日内務大臣に就任した後藤新平は独力で震災からわずか五日で「帝都復興の儀」をまとめ、九月六日には閣議に提案、九月十二日には天皇の名による帝都復興に関する詔書が出された。その基本方針は以下のとおりである。

  1. 遷都を否定する
  2. 復興費に三十億円をかける
  3. 欧米の最新の都市計画を適用する
  4. 都市計画の実施のために地主に断乎たる態度をとる

この基本方針の上で、組織、財源、都市整理について以下の通り提案する。

  1. 帝都復興の計画および執行のために独立した機関を設置する。復興計画の諮問のために、帝都復興調査会を設ける。
  2. 帝都復興に要する経費は原則として国費とし、その財源は長期の内外債による。
  3. 罹災地域の土地は公債を発行して、買収し、土地の整理を実行したうえ、適当・公平に売却、貸付をする。

これらの方針に基づいて九月一九日、総理ほか閣僚一〇名と政財界の有力者九名からなる諮問機関「帝都復興審議会」が設置、九月二七日、省庁と同格の「帝都復興院」が設置される。帝都復興院総裁は内務大臣後藤新平が兼任し、全国から都市計画に関する様々なエキスパートが呼び集められ、その三週間後の一〇月一八日には復興計画の原案(甲案と乙案の二案)が作成、一〇月二七日には閣議了承されて政府原案に取りまとめられた。震災発生からわずか二か月弱である。

大風呂敷と呼ばれた三五億円の復興計画はさすがに当時の日本政府では財源を整えることは出来なかった。蔵相井上準之助は後藤案に非常に同情的で、様々な手を尽くして財源の手当てに奔走した。復興財源は公債で準備するが公債の利払だけは歳入の余剰で支払える額にせざるを得ない。日本の財政上八億円が限界でそれ以上はどうにもできない、と後藤に伝えざるを得なかった。それでもかなり大規模な計画となった。

政府原案は帝都復興院と同時に創設された関係省庁の次官、知事、市長らからなる帝都復興院参与会、政財界の有力者で構成される帝都復興院評議会、そして前述の帝都復興審議会の三つの諮問機関にかけられ、議会の審議・議決を経て実行に移される予定であった。

参与会・評議会とも政府原案の評価は高く、それどころか復興計画のさらなる拡大を求める声すらあったというが、帝都復興審議会にかけられるや状況は一変した。反対派の急先鋒として論陣を張ったのは枢密顧問官伊東巳代治で政府主導の区画整理を所有権の侵害であること、七億三〇〇〇万円の予算が財政基盤を危うくしかねないこと、政府主導ではなく自治体主導でやるべきこと、道路拡張は不要であること、帝都復興院が不要であることなどを主張した。これに政友会総裁高橋是清、貴族院議員江木千之、渋沢栄一らも同調し、閣外委員は全員が政府原案に反対の立場を取ったという。

著者は帝都復興審議会の長老政治家たちが帝都復興計画の審議を山本内閣への政治的揺さぶりをかける道具として利用した、というが、個人的にそれを鵜呑みにしていいかどうかよくわからない。伊東巳代治は伊藤博文の下で大日本帝国憲法の起草に参加し、伊藤とともに政友会の創設に参加、「憲法の番人」を自任していた憲政家だ。むしろ原則論を述べたという風にも読める。ただ、当時政友会は山本内閣などを含めた歴代の超然内閣に対して批判的な立場を取っており、盟友高橋是清とともにそのような対内閣という姿勢があったのかもしれない。あるいは両方が混ざっていたのかもしれない。また、渋沢も意外なのだが、渋沢栄一記念財団のサイトの「渋沢栄一と関東大震災」によると、「都市計画中心の復興院案に対して、東京が経済発展するための港湾整備が重要であるという立場をと」ったとあるので、重視する意見の違いというものであったのだろうが、審議会での審議の結果東京築港も廃止となっているため、このあたりの経緯はよくわからない。

ただ、審議会で政府原案はかなり縮小を余儀なくされたのは事実である。予算も七億三〇〇〇万円から五億七四八一万円へ、幹線道路の幅員は縮小あるいは廃止され、上述の通り東京築港、京浜運河も削除、ただし後藤の抵抗で区画整理は国主導で行うこととなった。しかし、この案が議会にかけられると、当時政友会が多数を占めており、さらなる議会での抵抗が待っていた。最終的に復興予算は二割削減、道路幅もさらに縮小、帝都復興院の事務費予算もカットされ、翌年帝都復興院は廃止を余儀なくされる。なんとか一二月一九日に政友会の修正案を飲む形で採択され二四日に帝都復興計画が確定するが、同一二月二七日、摂政宮(後の昭和天皇)が狙撃される事件が起き、翌大正十三年一月七日、山本内閣は総辞職、後藤も失脚することとなる。その後藤に後事を託されたのが、東京市長永田秀次郎であった。

東京市長永田秀次郎、関東大震災後の名演説「市民諸君に告ぐ」

大正十二年(一九二三)九月一日に帝都東京を襲った関東大震災の半年後、新たな東京を作るための区画整理の認可が降り、大正十三年三月二七日、整理地区が告示された。その発表とともに、東京市長永田秀次郎は「市民諸君に告ぐ」と題した演説を行った。

「市民諸君に告ぐ」

市民諸君

我々東京市民は今やいよいよ区画整理の実行にとりかからなければならぬ時となりました。

第一に我々が考えなければならぬことは、この事業は実に我々市民自身がなさなければならぬ事業であります。決して他人の仕事でもなく、また政府に打ち任せて知らぬふりをしているべき仕事ではない。それ故にこの事業ばかりは我々はこれを他人の仕事として、苦情をいったり批評をしたりしてはいられませぬ。

我々は何としても昨年九月の大震火災によって受けた苦痛を忘れることは出来ない。父母兄弟妻子を喪い、家屋財産を焼き尽し、川を渡らむとすれば橋は焼け落ち、道を歩まむとすれば道幅が狭くて身動きもならぬ混雑で、実にあらゆる困難に出遇ったのである。我々はいかなる努力をしても、再びかような苦しい目には遭いたくはない。また我々の子孫をしていかにしても、我々と同じような苦しみを受けさせたくはない。これがためには我々は少なくともこの際において道路橋梁を拡築し、防火地帯を作り、街路区画を整理せなければならぬ。

もし万一にも我々が今日目前の些細な面倒を厭って、町並や道路をこのままに打ち棄てて置くならば、我々十万の同胞はまったく犬死したこととなります。我々は何としてもこの際、禍を転じて福となし、再びこの災厄を受けない工夫をせなければならぬ、これが今回生き残った我々市民の当然の責任であります。後世子孫に対する我々の当然の義務であります。

街路その他の公設物を整理するには、買収による方法と区画整理による方法とがあります。しかしながら今回のごとく主として焼跡を処理する場合は、区画整理による方法が最も公平であり、またもっとも苦痛の少ない比較的我慢しやすい方法であります。区画整理によりまして、道路敷地となった面積は皆その所有地に按分して平等に負担し、これが全面積の一割までならば無償で提供し、一割以上であればその超過部分に対して相当の補償を受ける、そして誰一人として自分の所有地を取られてしまう人がなく、皆換地処分によって譲り合って自分の土地が残る。苦痛も平等に受け利益も平等に受ける。かような都合の好い方法ではあるが、ほとんど全部の者が皆動くのであるから、この場合において初めて実行の出来る方法であります。この機会をはずしては到底行われない相談である。それ故いかにしても是非ともこの際に断行せなければならぬのである。

顧みますると、我々は震災後既に半箇年を経過しました。土地の値段も震災直後は二分の一か三分の一に下落したと思われたものが、今日では震災前と同一になりました。こうなって来ると段々に震災当時の苦痛を忘れて来て、一日送りに安逸を望み、土地の買収価格が安いとか、バラックの移転料が少ないとか、区画整理も面倒臭いとかいう気分の出て来るのも人情の弱点で、無理もありませぬ。しかし、我々はこの際、かような因循姑息なことを考えてよろしいでしょうか。実に今日における我々東京市民の敵は我々の心中の賊である。我々はまずこの心中の賊に打ち勝たねばならぬ。

世界各国が我々のために表したる甚大なる厚誼に対しても、我々は断じてこの際喉元過ぐれば熱さを忘れる者であるという謗りを受けたくはない。

区画整理の実行は今や既定の事実であります。ただ我々はどこまでもこれを国家の命令としてやりたくはない。法律の制裁があるから止むを得ないとしてやりたくはない。まったく我々市民の自覚により我々市民の諒解によってこれを実行したい。

我々東京市民は今や全世界の檜舞台に立って復興の劇を演じておるのである。我々の一挙一動は実に我が日本国民の名誉を代表するものである。

P64-66より

渾身の名演説である。具体的かつ詳細な方針、常に我々と言う当事者意識、市民一人一人の苦難を思いやる優しさ、利益だけでなく不利益についても伝えて理解を求めようとする誠意、など美点を挙げようとすればきりがないが、敢えてこの「我々はどこまでもこれを国家の命令としてやりたくはない」と言う部分にこそ注目したい。当時の東京市長は内務省下の一行政官僚であって、現在の都知事の圧倒的な権限には比べぶべくもない立場である。当時の社会状況で、そのような一官僚の立場で「国家の命令としてやりたくはない」と語ることに要する覚悟の大きさを思う時、ここに凄まじい意志を感じずにはいられないのである。「市民」とは何か、について深く正しい理解があって初めて可能な一言だろう。市民一人一人の自助を促し、前へ、将来へと進む勇気を奮い立たせる、未曾有の災害時にリーダーが語るにふさわしい名文であると思う。

時の内務大臣後藤新平らによって構想され実行に移されんとした帝都復興事業であったが、様々な関係者の利害関係や抵抗によって徐々に規模も予算も縮小され、多くの計画が中止を余儀なくされていった。その中で、この区画整理事業は後藤新平、永田市長他関係者の尽力によってなんとか頓挫することなく実行に移された。もちろん、実行の過程で悲惨な目に逢わざるを得なかった市民も少なからず居たが、多くの困難の中で無事完遂され、現在の防災都市東京の礎となっていくのである。震災からの東京の都市復興が完了したのは昭和四年(一九二九)のことであった。

昭和五年(一九三〇)十月一日、再び東京市長となっていた永田秀次郎は東京市の自治記念日の式典で演説を行った。帝都復興事業の完成を祝い、市民を労い、しかしまだまだ解決すべき困難な課題が山積していることを喚起する「帝都市民諸君に告ぐ」と題されたその演説の最後はこう結ばれている。

東京市を救うものは東京市民である。東京市政の利害得失を真ともに受けるものもまた二百三十万市民である。
同書P86

永田は東京市長から鉄道大臣などを歴任し生涯現役を通した。また青嵐と号して俳人としても知られる。淡路島出身。昭和十八年(一九四三)九月十七日逝去、享年六七歳。東京が空襲に見舞われるのは翌昭和十九年からである。彼が復興に心血を注いだ東京が焦土と化すのを目にすることは無かった。

帝都復興計画の縮小

著者はこう総括している。

P55
以上のような帝都復興計画の縮小を招いた審議経過をみると、三重の諮問・決定組織は不要であった。特に、帝都復興審議会という組織は、山本内閣の大臣ではない長老・現役政治家による政治介入と無責任な政争の場(ミニ元老院、拡大閣議)を提供したことになり、復興を実現するための政策決定にとっては不要であり、むしろ弊害になった。ただ、このことは結果論として指摘できることであり、そうなるとは誰しも予測していなかった。迅速で確固たる責任をともなく意思決定が必要とされる場面では、諮問・決定組織はメンバー構成と何が目的の会議化を明確にする必要があるというのが、歴史的な教訓といえる。

ただ、意外なのは高橋是清である。後藤も後年高橋是清が反対し続けたことについて「(高橋是清が)悪意をもって東京市民に災するために議論したものではなく、ただこの点(区画整理が如何なるものか)に無知なることを憐れむ」と語り、その無知ゆえに「東京市民に災い」をもたらしてしまっていると語っているが、積極財政で鳴らす高橋是清と、悉く都市計画の縮小、予算の削減に固執する姿がどうにもイメージとして結びつかない。このギャップをどう埋めればいいのか、それは伊東、渋沢ら他に挙げられている人々も同様なのだが、何か収まりの悪さを感じている。

この本では政争の道具として使われたということで結論付けているが、後藤新平とともに伊東巳代治、高橋是清、渋沢栄一、そして震災復興に関った多数の官僚、経済人、市民など当時の関係者の関東大震災に関する思惑をもっと調べてみるならば、都市計画だけではなく経済、財政、産業、社会、法律などの多岐にわたる、まさしく「復興とは何か」ということが立体的に浮かび上がってきそうな感覚がある。確かに彼らの抵抗が、東京の復興を中途半端なものとし、わずか二十年後に見舞われる戦災の被害を拡大したことは否めない。しかし、帝都復興審議会や議会で抵抗した人々を、そのまま抵抗勢力として描いたままにしておくのは、関東大震災を総括したことにならないのではないだろうか。彼らがなぜ反対し、あるいは抵抗したのか、そこには一つの真実が潜んでいるように思う。沸々と興味がわいてきたので追々調べてみたい。

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