「世界の陰謀論を読み解く――ユダヤ・フリーメーソン・イルミナティ」辻隆太朗著

本書は、そのタイトル通り、ユダヤ陰謀論、フリーメーソン、イルミナティなどの著名なものから、9.11陰謀論や地震兵器、あるいは「田中上奏文」、オウム真理教、米国の宗教右派など多種多様な陰謀論関連のトピックを網羅しつつ、陰謀論がなぜ人々に受け入れられていくのかを、宗教学者の立場から描いた新書である。

陰謀論とは
(1)ある事象についての一般的に受け入れられた説明を拒絶し、
(2)その事象の原因や結果を陰謀という説明に一元的に還元する、
(3)まじめに検討するに値しない奇妙で不合理な主張とみなされる諸理論、である。(P5)

ユダヤ陰謀論は「ユダヤ人」が世界の政治経済を支配しており自身の都合がいいように操作するために、あるいは自身を迫害し続けたキリスト教徒に復讐するために陰謀を張り巡らせ、「シオン賢者の議定書」という文書(実は偽書だが)にその世界支配計画が記されている、という趣旨の内容で様々なストーリーが展開されるが、陰謀論者が考えるユダヤ人の陰謀の目的は概ね三つに分類できるという。

(1)迫害に対する民族生き残りのための自衛
(2)キリスト教への復讐
(3)邪悪な選民思想にもとづいた世界支配(P81)

ユダヤ人は古くから迫害の歴史にさらされてきた。その中で彼らは様々なかたちで生き残りを図り、あるいは協力して勢力を拡大し、確かに少なからぬ影響力を持つまでに力を持つようになってきている。そのタフネスさや、迫害の歴史に対するゆがんだ被害妄想が、陰謀論の背景にあり、その中で「ユダヤ人」という虚像が作り出されてきた。その陰謀論を生み出す「ユダヤ人」という記号化されたステレオタイプなイメージは以下の四つがあるという。

(1)社会の内部に潜む異端者、邪悪な異教徒としてのユダヤ人
(2)ずる賢く利己的な金の亡者、天性の商人としてのユダヤ人
(3)国家に忠誠を誓わない「国際主義者」としてのユダヤ人
(4)既存秩序を破壊する、近代主義の象徴としてのユダヤ人(P78)

これらは近代社会へと移行する過程で築かれた反ユダヤ感情を背景としており、大きな歴史と社会の変化の中で植えつけられた記号としてのユダヤ人像である。これらユダヤ人像を背景として世界を操るユダヤ人という陰謀論が構成されていった。

実在する他者の、その実像を無視し記号化して理解したつもりになることそれ自体が、陰謀論的な思考のひとつの特徴であり原因である。(P55)

フリーメーソンやイルミナティに対してもまた同様に「実像を無視し記号化して理解したつもり」になったことで陰謀論が生み出される。

歴史上のあるいは現代の著名人が多くメンバーであることが知られる「フリーメーソン」はそもそも十八世紀初頭に啓蒙主義思想や神秘主義思想を前提とした友愛団体として登場した。これが近代になると、その秘密結社性と政治経済界の第一人者たちが会員であることなどから様々な想像を生んだ。いわばフリーメーソンは絶対王政やカトリック教会支配などの旧秩序を改革し、理性に基づいた自由主義社会を作っていこうという人々の秘密結社であったわけだが、陰謀論ではこれが、現在の自由主義社会秩序を破壊し、悪魔崇拝を前提とした階級社会を建設しようとする世界的組織へと反転する。

また「イルミナティ」になるとさらに極端で、陰謀論ではそのフリーメーソンを手足のように使っているのがこの秘密結社ということになるようなのだが、そもそもイルミナティは一七八〇年代にフランスやドイツを中心にしてわずか十年ほど活動しただけで消滅した小さな秘密結社にすぎない。フリーメーソンと違い、実力行使を前提とした急進的な啓蒙主義改革を唱える団体であったという。それゆえかイルミナティ陰謀論は二〇世紀初頭ころから一部の人々の間で囁かれていたが表に出るのは一九七五年に出版された娯楽小説「イルミナティ」と、一九八二年に発売されたボードゲーム「Illminati」を端緒とするという。これでポピュラーになった「イルミナティ」というキーワードを、陰謀論者たちが自身の説のメインに据えはじめ、九〇年代に一気に陰謀論の主役に躍り出てきたわけだ。

イルミナティが陰謀論に登場したことで陰謀論は「イルミナティ」を頂点として様々な組織が体系だてられていく。フリーメーソン、三〇〇人委員会、反キリスト、国際連合、ローマクラブ、フェビアン協会、ユダヤ人、ロックフェラーやロスチャイルド、米国の連邦政府などなどなど。これらがやがてUFOやオカルト的言説も総合して「新世界秩序」の陰謀論へと発展した。この新世界秩序陰謀論は陰謀の主体をひとつの団体ではなく「数多くの組織が複雑に連携したネットワークが想定されて」(P200)おり、現在のグローバル化する社会・経済を強く反映しているという。

現代の陰謀論は、国際社会における主体を脱国家的な陰謀論のネットワークに見出し、国家を従属的役割に位置づける。見方を変えれば、グローバリゼーションによる国家の役割の低下、あるいは国家がもはや国際社会における唯一の主体ではないという事態を反映したものと考えることもできるだろう。つまり、さまざまな主体が複雑に絡み合い不確実性を増した現在の世界情勢において、もはやただひとつの邪悪な集団が、彼ら自身の活動のみで世界征服の陰謀を企んでいると単純に想定することは不可能なのである。そして陰謀論者たちの国家に関する主張は、グローバリゼーションによってすでに失われたもの、あるいは脅かされたものとしての国家の統一性やアイデンティティの回復の願いだ、と言っていいだろう。(P202)

たとえばウサマ・ビン・ラーディンを思い出す。ウサマもまたアメリカを黒幕とした西欧世界という邪悪な集団がイスラム世界を支配せんとする陰謀論を唱えていた。その背景にあるのはアラブ諸国に広がる近代化の波であり、失われたムスリムのアイデンティティ回復の願いである。そのために彼はテロネットワークとしてのアルカーイダを作り上げる。それに対してアメリカもまた現代の自由主義秩序を脅かす世界中に張り巡らされたテロネットワークとしてのアルカーイダという陰謀論的な言説に囚われていた。9.11で失ったアメリカの誇り、失墜し続けてきた強いアメリカとしてのアイデンティティの回復という願いがその背景にある。ウサマの敵意もアメリカの正義も「その実像を無視し記号化」された他者の姿を前提としたものであった。

陰謀論は「世界は間違っている」という感覚を前提として、その間違いは何かという判断基準は自身の信じる価値観が元になる。その価値観はしばしば強い無謬性、普遍性を帯びることになるという。「彼らは自己の価値観と社会の現状との乖離を、本来あるべき自然な姿に反した社会の「異常さ」として指摘する。」(P249)同時に、「世界が自然の流れでここまでおかしくなるはずがない、という前提」(P250)が確固として存在し、偶然などなくすべては必然であるという世界観に基づいている。そこから導き出されるのは、世界の異常さの原因として人為的な力が働いているに違いないという懐疑であり、その懐疑に意味を与えてくれるわかりやすい答えを求めずにはいられなくなる。かくして、世界の悪としての陰謀勢力が想定され、やがてその存在は確信へと変わる。

悪は常に自覚的で、外部から進入してくる存在として想定される。世界は何者かが意識的に悪い方向に動かしているにちがいないと仮定することで、自己の正しさと世界の本来的善性は保たれる。世界や人びとが邪悪に染まりつづけているのは、われわれ自身のせいではないのだ。世界が自覚的に、あるいは偶然の積み重ねによって、このような邪悪な道を選び取っていくはずがないという確信、あるいは願望は、こうした説明によって正当化される。(P251-252)

自己の正しさに対する確信は客観的事実を遠ざけさせる。すでに陰謀というストーリーが存在しているため、それを補強し、あるいは裏付けるデータだけが選択され、そのパーツは相互矛盾をはらみながら無原則に重ねられていく。それが破綻しないのは自身の価値観の無謬性ゆえだ。あるいはストーリーがなくとも陰謀という存在だけで、それを受け入れ、相互に矛盾するはずの無数の小さな陰謀論の並存もまたありえる。それらは常に陰謀論者同士で相互引用されていくから、その引用が繰り返されればされるほど自己確証性が高まり、陰謀論の拡大再生産が行われていくのだという。

陰謀論は曖昧な世界を明確にしたいという欲求である。

社会に対する不満や不安、世界の実情の把握の困難さや先行きの不透明さなどに関する漠然とした感情は、世界が現在のようにある意味を一身に背負う存在、つまり告発すべき敵としての陰謀勢力を想定することで、明確な方向性を獲得する。社会の巨大な欺瞞を告発する孤独な真理保持者として自己を規定し、陰謀に操られる社会のその他大勢から自己を差異化することは、社会に埋没する自己に「私」という唯一性の感覚を回復させ、社会に対する受動的存在としての自己の無力感を解消する機能をもつのかもしれない。(P278-279)

ゆえに陰謀論は、「私(われわれ)」と「かれら」という二項対立の構造を持つ。二項対立的言説が陥る「敵」の創出によって、敵に対置される正義として「われわれ」が認識されることで、陰謀論は一層強化され、時に仮想敵に対する暴力を正当化する論理として働いてしまう。もちろんその飛躍には陰謀論だけでない様々な要因が働くと思うのだが。

重要なのは、陰謀論がアイデンティティの回復、世界を認識することで安心したいという感情から生み出されている点だと思う。事実を知りたいという欲求と生きる意味を得たいという願いとはどうしても不可分であらざるを得ない。世の中は陰謀論者と非陰謀論者とに明確に分けられるのではなく、その境はグラデーションであるのではないだろうか。

人柄もよく、社会的立場があり、充実した生活を送る「普通の人」が時に陰謀論を受け入れ、誰かを激しく罵り、あるいは不安や恐怖に駆られる様というのは往々にして見られるし、僕自身もそれから自由ではない。懐疑と陰謀論との明確な差を見極めることは非常に困難だ。科学と非科学の線引き問題とも絡むが、その判断を自身のアイデンティティや不安感、憎しみや怒りなどと隣り合わせの状態で、「私」の中で事実と意味とを連関させ、バランスを取りながら、しかしその境界を見定め続けなければならない。自己の理解に対する正当性を疑い、反対意見を受け入れることを心がけることは確かに陰謀論を遠ざける最大の要因だが、どこか修行とでも言える険しい道でもある。いつでも僕は”そちら側”へと傾いていく可能性と隣り合わせなのだなと思うし、もしかしたらすでにそうなのかもしれない。

陰謀論を受け入れてしまう前提となる心理を肯定する。事実は事実として主張し、間違いはあらためながら、しかし「正しさ」に囚われず「陰謀論」という異質なものとの向き合い方を考えることの重要性を著者も指摘しているが、僕も「陰謀論」を問う上での最大の論点はそこにあるように思う。それは自身の異質さと向き合うことでもあり、他者と向き合うことでもあるのではないだろうか。ブログのトップにも載せているが僕が好きな言葉に、スピノザの「嘲笑せず、嘆かず、呪わず、ただ理解する」という言葉がある。その困難さに、少しでも向き合うことが出来れば良いと僕は思う。

陰謀論について興味がある人、批判的に読みたい人はもちろんだが、異質な他者、あるいは自身の異質さとの向き合い方を考えたい人にこそおすすめの一冊だ。

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